覚え書:「今週の本棚:江國香織・評 『ザ・ドロップ』=デニス・ルヘイン著」、『毎日新聞』2015年04月19日(日)付。

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今週の本棚:江國香織・評 『ザ・ドロップ』=デニス・ルヘイン
毎日新聞 2015年04月19日 東京朝刊

 (ハヤカワ・ミステリ・1404円)

 ◇人々の生、見せつけ

 この小説は、ある冬の夜の、一軒の酒場から始まる。閉店間際で、客は二組しかいない。老人ホームを抜けだして飲みに来ている老女と、十年前に行方不明になった友人を偲(しの)んで集まっている男たちで、店には他にバーテンダーのボブと、かつてその店を所有していた、いまは形ばかりの店主であるカズン・マーヴがいる。アメリカの街のどこにでもありそうな、うらぶれた酒場とうらぶれた人々。でもそこはありふれた場末のバーであると同時に裏社会の金を預かる“ザ・ドロップ(中継所)”でもあるのだ。

 『ミスティック・リバー』にしても『運命の日』にしても、デニス・ルヘインの小説はこれまで大抵厚かった。本も厚ければ物語自体も重厚で、読む喜びがたっぷり内包されていた。ところがこの本は薄い。本屋さんで目にしたとき、最初、ルヘインの本だと気づかなかったほど薄い。それなのに、なのだ。言葉がしたたるように濃く、登場人物たちは陰翳(いんえい)に富み、物語は厚い。ルヘインの小説がいつもそうであるように、香気に満ちている。その香気とは、もとを正せば小説内に充満する人間の臭気だ。臭気が香気を放つのだから、文学というのはおもしろい。

 小説の始まりで客に酒を出し、床をブラシでこすっていたボブは、その夜、一匹の犬を拾う。そこから物語が転がりだす。犬がきっかけとなってボブは首に傷跡のある女と出会い、狂気じみた男とも知り合う羽目になる(でも、そういえば、狂気を孕(はら)んでいない人間などこの世にいるのだろうかと、ルヘインはこれまでにもたびたび読者に問いかけてきたのではなかっただろうか)。

 描かれるのは街だ。「雨がブイヤベースのようにフロントガラスを流れ落ち」るような街だし、教会が一つなくなろうとしている街であり、女性刑事が覆面パトカーのなかでウォッカを飲んでいるような街、ボブの父親の言葉を借りれば「第二の街」。「街は議事堂の建物が動かしてるんじゃない」と、かつて父親はボブに教えた。「地下室が動かしてるんだ。おまえが見てる第一の街? それは見場がよくなるように体に着させる服だ。けど、第二の街こそが体なんだ。そこで賭けの金が集められ、女やクスリが売られる。ふつうの労働者が買えるテレビとかカウチとかを売ってるのもそこだ。労働者が第一の街とかかわるのは、食い物にされるときだけさ。だが、第二の街は毎日の生活を取り巻いている」と。そして、そこにはもちろん人間がいる。

 ボブは首に傷跡のある女とうまくいくのか(というより、そもそもその女は誰なのか、信用できるのか)、狂気じみた男はどこへ向かっているのか、強盗を働いた兄弟はどうなるのか、十年前に消えた男の身に何が起きたのか、小悪党のカズン・マーヴと刑事のエバンドロ(前者はボブの実のいとこでもあり、後者はボブが教会でいつも顔を合わせる相手でもある)は、どちらが信用できるのか??。

 きりつめられた言葉と強靱(きょうじん)な描写力で、ルヘインが見せつけるのは人々の生だ。

 作中で、ボブはチェチェン人マフィアのボスの息子に、「おまえの祖父(じい)さんは生きてるか。どちらか?」と訊(き)かれる。両方とももう死んでいるとこたえると、ボスの息子はこう言うのだ。「だが、ふたりともこの地上で生きた。ファックして、戦って、子供を作った。自分が最高、これ以上はないと思ってた。で、死んだ。みんな死ぬからだ」

 実にまったくルヘインらしい、シンプルなのに奥が深い、艶(あで)やかな本だ。読んで心が丈夫になった。(加賀山卓朗訳)
    −−「今週の本棚:江國香織・評 『ザ・ドロップ』=デニス・ルヘイン著」、『毎日新聞』2015年04月19日(日)付。

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