覚え書:「今週の本棚:松原隆一郎・評 『日本人と経済−労働・生活の視点から』=橘木俊詔・著」、『毎日新聞』2015年12月6日(日)付。

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今週の本棚
松原隆一郎・評 『日本人と経済−労働・生活の視点から』=橘木俊詔・著

毎日新聞2015年12月6日

東洋経済新報社・1944円)

夢物語ではない平等と効率の両立

 著者・橘木(たちばなき)氏は一九九八年の『日本の経済格差』(岩波新書)において、所得の不平等度を表すジニ係数が一九八〇年代から上昇しつつあることを挙げ、中流の分厚さが特徴とされた日本がアメリカのような不平等社会に向かいつつあると指摘して、広く衝撃を与えた。それに対し、世代内での所得格差が他世代よりも大きい高齢者の人口比率が増えればジニ係数はそれだけで上がるのだから、格差拡大は見せかけにすぎないといった反論が提起されたりした。

 これは一九九〇年代半ばまでのジニ係数の推移にかんし人口分布の変化で大方の説明がつくという反論だったが、むしろ格差がリアルに意識され始めたのはそれ以降のことであった。というのも世紀の変わり目頃から非正規雇用が急増していまや四割近くになり、我が国で低所得者を支えてきた家族やコミュニティ・会社(血縁・地縁・社縁)の紐帯(ちゅうたい)が弱まったことも目に付くようになったからだ。資産にかんする格差という、日本には直接に当てはまりそうにない視点を掲げたT・ピケティの『21世紀の資本』が注目されたのも、「見せかけ」ではない経済社会の変化を人々が感じているからに違いない。

 本書は日本人の家計や暮らしをめぐる様々な論点を教科書的にまとめた書ではある。明治から終戦まで、高度成長期から安定成長期まで、そして一九九〇年以降という歴史区分や、会社・政府に教育といった生産にかかわる側面、また所得や格差、福祉とジェンダーといった暮らしについての論点を整理しており、図表も多く、一読して我々の仕事や暮らしがどのような変動にさらされてきたのかが理解できる。我々のこの百年は、世界にも類を見ない変化に満ちていたのである。評者が腑(ふ)に落ちた点を挙げてみよう。

 ひとつは、明治から昭和の敗戦まで、激しい格差社会だったことである。大土地所有者が小作人を支配しただけでなく、工場長が普通工員の十七倍もの給与を得ていた(現代でせいぜい三−五倍)。士族や華族といった江戸時代からの身分制の名残りだけでなく、官民や役職、男女などで多方面に格差があり、貧しい人々は食うにも困る有り様だった。それゆえ戦後のGHQ(連合国軍総司令部)による諸改革は、民主主義を目指したというよりも、平等をもたらしたとして評価されている。

 ふたつには、企業が社会保険料を負担したくないことを一因として非正規雇用を増やすと、失業保険も年金も十分には行き渡らなくなる。それは企業の効率性を上げるかもしれないが、公平性を損なっている。日本人は社会保障を税でまかなうことに抵抗があるが、かといって非正規労働者が貯金もできず高齢化したとして、見捨てるほどの冷酷な個人主義者や慈善を行うほどの博愛主義者にもなれそうにない。とするならば、せめて基礎年金は消費税で充填(じゅうてん)しようという提案には説得力がある。

 三つには、親の所得によって明確に大学進学率に差があり、若い夫婦が子どもを持てない理由に経済的負担がある。政府は予算を教育費(大学の授業料の減免)や子ども手当(児童手当)の方に振り向けるべきだというのも理解できる。

 評者は橘木氏が北欧型福祉を推すのにつきいまひとつ了解できない部分があった。しかし本書では、北欧諸国は暮らしの平等だけでなく生産の効率性も追求しており、企業間の競争を厳しく要求するとされており、納得がいった。平等と効率をともに実現するのは夢物語ではなく、高度成長期の日本が達成していたことでもあったのだから。
    −−「今週の本棚:松原隆一郎・評 『日本人と経済−労働・生活の視点から』=橘木俊詔・著」、『毎日新聞』2015年12月6日(日)付。

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日本人と経済―労働・生活の視点から
橘木 俊詔
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