覚え書:「寄稿:静かで確かな保守主義 京極純一氏を悼む=山崎正和(劇作家・評論家)」、『毎日新聞』2016年03月03日(木)付夕刊。

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寄稿
静かで確かな保守主義 京極純一氏を悼む=山崎正和(劇作家・評論家)

毎日新聞2016年3月3日 東京夕刊


京極純一さん=2001年2月23日、森顕治撮影

 京極純一氏といえば、会った人なら誰でも思い出すのは、あの黒い縁のついたまん丸の眼鏡ではないだろうか。あの型の眼鏡は戦前の学者や学生が愛用したもので、戦後はめったに見られなくなっていたからである。じつは眼鏡は意外に流行の激しい商品であり、今でも10年も経(た)つと、古いデザインのものを手に入れるのはかなり難しい。京極氏が80年近くにわたって、あの同じ種類の眼鏡をどのように調達されたのかはわからないが、これは相当に特筆すべきことがらなのである。

 あれはいったい、氏の静かな保守主義の主張だったのか、謹厳実直な人柄の表れだったのか、軽佻(けいちょう)な流行を嘲笑(あざわら)うお洒落(しゃれ)心の徴(しる)しだったのか。今になって振り返ると、この三つはいずれも当たっていて、あの眼鏡こそ氏の象徴だったように思えてならない。

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 初対面は、いささか異様な雰囲気のなかであった。1970年前後、時の佐藤政権は二つの大問題を抱えて苦闘していた。一つは沖縄返還の日米交渉、もう一つは世界的に荒れ狂う学園紛争である。おりから総理首席補佐官だった楠田実氏は、これを機会に政権と学界の提携を計ろうと考え、京極氏や高坂(こうさか)正堯(まさたか)氏をはじめ、多くの学者を官邸に呼び集めた。その一員として私も学園紛争対策の立案を命じられ、京極氏、衛藤瀋吉(しんきち)との3人委員会に席を並べることになったのである。

 3人委員会とはいえ、お二人は私より10歳も年長であり、それぞれ後輩に厳しいと評判が高かったので、私は密(ひそ)かな覚悟を固めて会議の席に就いた。だが意外にも京極氏はむしろ礼儀正しく、対等の姿勢で私の発言に耳を傾けてくださった。また世評では氏は世間の雑事には冷笑的で、斜に構えた判断しかされないと聞いていたが、これも事実とはまったく違っていた。会議は大いに実務的、積極的な空気のなかで進み、「東大入試の1年中止」という歴史的結論を生んだ。

 その後、氏は『日本の政治』という長編評論を発表され、この国の政治家像を半ば風刺的に、いきいきと描き出された。これは政界の月旦批評でもなく、政治家の信条風俗を冷徹に活写した研究として、いまだ類書をみない名著である。感銘を受けた私はこれを推輓(すいばん)する書評を発表したところ、驚いたことに旬日を経て便箋10枚を超える丁寧な礼状を頂いた。

 もっと驚いたことに、そこには氏が公的にはけっして洩(も)らされない研究上の悩み、学界内での鬱屈や批判を含む私情が綿々と綴(つづ)られていた。これと前後して私は氏との親交を深め、設立当初の「サントリー文化財団」へのご協力もお願いしていたのだが、氏はどんな場でも私情は絶対に口にされる方ではなかっただけに、これは永く印象に残った。

 学者として氏に教わったことが多いが、今も銘記しているのは、「どんな理想も実現過程が示されていないものは信用できない」という一言である。戦前、戦後のイデオロギー時代を生き抜いた賢者の実感だろう。

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 私生活での氏は、人も知る愛妻家だった。財団の事務局では、京極夫妻の仲の良さは今も語り草になっている。社交の場では厳格なまでに礼儀正しく、本人をお祝いするある会合では、延々、3時間に及んで立ち通された姿が心を打った。だが何より人柄を示すのはそのご最期、ご健康の事情もあったとはいえ、10年にわたって世間との交わりを断ち、潔癖きわまる隠棲(いんせい)を守られたことかもしれない。(やまざき・まさかず)

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 政治学者、京極純一さんは2月1日、老衰のため死去。92歳。
    −−「寄稿:静かで確かな保守主義 京極純一氏を悼む=山崎正和(劇作家・評論家)」、『毎日新聞』2016年03月03日(木)付夕刊。

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