覚え書:「今週の本棚・佐藤優・評 『備中高梁におけるキリスト教会の成立−新島襄の伝道と新しい思想の受容』=八木橋康広・著」、『毎日新聞』2016年04月17日(日)付。

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今週の本棚
佐藤優・評 『備中高梁におけるキリスト教会の成立−新島襄の伝道と新しい思想の受容』=八木橋康広・著

毎日新聞2016年4月17日 東京朝刊

 (ミネルヴァ書房・4860円)

日本文化への土着化の過程
 同志社大学神学部には、独自の神学的伝統がある。キリスト教が欧米からの輸入品として扱われている限り、それはほんものではないという考え方だ。キリスト教は日本の文化に土着化してこそ、はじめてイエスが説いた教えが具現化する。こういう土着化論を鮮明に打ち出したのが同志社の傑出した歴史神学者・魚木忠一(1892−1954年)だった。著者の八木橋康広氏(日本基督教団高梁(たかはし)教会牧師)は、魚木が『日本基督教の精神的伝統』(1941年)において展開した方法を用いて岡山県高梁市プロテスタント教会が形成される過程について考察する。

 鍵を握ったのが、新島襄(じょう)が高梁町(当時)を訪問したことだ。新島の感化を受けた町民が、キリスト教を地元に土着化させ、新時代に適応する指導原理として受け入れた。<新島はいわば文明開化の同志として迎え入れられて、明治七(一八七四)年一一月に帰国がかない、思う存分にイエス・キリストの福音をもって救国の仕事に邁進(まいしん)した。その一環として明治一三(一八八〇)年と一六(一八八三)年の二回、かつて彼の大志に共感して外の世界に送り出してくれた備中松山=高梁の地にやって来て、明治新時代にふさわしい至誠惻怛(そくだつ)の教え、すなわち彼が米国で身につけたピューリタンキリスト教の真髄を、すべての町民に伝授しようとした。/約五千人の高梁町民の内から一六名の人々の魂が、新島襄の教えに触発した。彼らは一味同心して、その教えをもって新時代の高梁と町民の指導原理にしようとした。これが明治一五(一八八二)年四月の高梁基督教会の創立だった。この時彼等の実感としては、儒教を代表とする古い日本的な自分に死んで、キリスト教という西洋的な新しい自分に生まれ変わったという断絶面が、強く自覚されていたであろう。しかし彼等の魂の変容ぶりをもっと広い視点から検討するならば、断絶面と同じくらいに連続面があることが分かる。/すなわち、旧藩時代に彼らの精神に影響を及ぼしていた儒教備中松山藩という器は、幕末維新の未曾有の動乱と社会革命で粉々に砕かれてしまった。しかしその器の中にあった霊性は、人々の人格の奥底になおも健在だった。新島襄とその同志達は、伝道活動によってその霊性を目覚めさせたと言える。>

 新島襄と高梁の人たちとが出会ったときに魂の触発が生じたのである。新島襄は、キリスト教信仰を受け入れた後も、儒教霊性を保持し続けた。それだから、高梁の人たちは、新島襄に宿る儒教霊性を通じてキリスト教を生き死にの原理として受け入れることができたのである。もちろん、高梁においてもキリスト教に反発を感じる人たちもいた。キリスト教徒に対する迫害事件も起きた。しかし、それに対しては、岡山県の県令・高崎五六によるキリスト教徒側に好意的な介入によって沈静化する。この迫害事件を通じ、高梁のキリスト教徒と非キリスト教徒の間に相互信頼が確立され、キリスト教の洗礼を受ける者も増えていく。<人は天地万物と人間を作った神の意志を知り、恐れ敬い、それに従うことによって、金や権力・名誉や人間関係のしがらみなどこの世の力の奴隷になることからはじめて解放されて真理と自由を得ることができる。>という新島襄によって伝えられたキリスト教の言説が土着化していく過程を八木橋氏は説得力のある形で言語化することに成功した。
    −−「今週の本棚・佐藤優・評 『備中高梁におけるキリスト教会の成立−新島襄の伝道と新しい思想の受容』=八木橋康広・著」、『毎日新聞』2016年04月17日(日)付。

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