覚え書:「ザ・コラム 大津事件に学ぶ 琵琶湖畔で語る日中の明日 吉岡桂子」、『朝日新聞』2016年08月25日(金)付。

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ザ・コラム 大津事件に学ぶ 琵琶湖畔で語る日中の明日 吉岡桂子
2016年8月25日

 しばらく前のこと。中国からやって来た旅行客十数人が、大津市内の小さな石碑を楽しそうに取りかこんでいた。

 「露國皇太子遭難之地」。

 「大津事件」の現場である。

 中国当局が出国を許さず、土壇場で来日を断念した人がいたと聞いた。そんな事情もあって、時期や参加者の多くを特定しないまま、今日のコラムはログイン前の続き書かせてほしい。

 この事件、日本史の教科書でちょっとおさらいすると――。

 ときは、1891(明治24)年。来日中のロシア皇太子が琵琶湖遊覧の帰り、大津市内で警備中の巡査に切りつけられてけがをした。大国ロシアとの関係を損ないたくない日本政府は、皇室に対する罪を適用し死刑にせよと裁判所に圧力をかけた。だが、最高裁判所のトップは反対し、刑法の範囲内で無期懲役にとどめた。司法の独立を守った事件として記されている。

 なぜ、わざわざ中国から?

 彼らの半分が弁護士や法律の研究者で、ほとんどが日本は初めて。案内役を務める「高級ガイド」は、北京大学法学部教授、賀衛方(ホーウェイファン)さん(56)。共産党一党独裁体制の中国にあって、憲政と司法の独立を20年あまり訴えてきた民主派の法学者である。

 「近代日本にとって重要な意味を持つ事件。私自身、ぜひ訪ねてみたかったのです」。うれしそうに石碑をなでている。片手には25年前に出版された岩波文庫大津事件」。日本語はできないが、概要を熟知しているだけに「漢字ですし、じいっと見ていると分かります」と笑う。

 文庫の解説で、三谷太一郎・東京大学名誉教授はこう書いている。「(大津事件は)国際関係や国内情勢の変化に応じてしばしば想起され、新しい文脈の中で新しい意味を付与されることの少なくなかった生きた歴史なのである」と。

 300人を超える弁護士や人権活動家のいっせい拘束。そして、相次ぐ有罪。習近平(シーチンピン)政権は、市民の権利を守ろうと動く人々への弾圧を強めている。だからこそ、彼らの胸にいま、大津事件は生きている。

    ◇

 かつて、賀さんの筋が通ったウィットに富む講演は大学ばかりか一般にも人気で、数百人の会場がすぐにいっぱいになった。ところが、ここ数年で様変わりした。大学を通じて共産党宣伝部門の承認が必要になった。「黒名単(ブラックリスト)」に入れられ、小さな会合ですら話せなくなった。ならば、と、賀さんのファンが中国版LINE(ライン)「微信ウィーチャット)」を通じて集まったのが、今回の旅である。

 いわゆる「オフ会」のようなもので、費用はみんな自腹。取材を通じて賀さんと知り合った私も、ファンの一人として交ぜてもらった。黒船来航の港や函館など明治維新ゆかりの地を旅したあと、関西では大津のほか、京都にも立ち寄った。幕末の志士・坂本龍馬の足跡をたどり、法然院では東洋史学者・内藤湖南のお墓を探して歩いた。マイクロバスの車内、琵琶湖畔のホテルの中庭……。議論を重ねながら約1週間、日本を回った。

 清朝末期の中国と明治維新のころの日本を対比させながら、中国に足りなかったのは何か。近代アジアの期待の星だった日本は、なのにどうして侵略戦争に走ったのか。あのとき日本に満ちていたにわか大国意識と自己中心のナショナリズムは、今の中国に周回遅れで見え隠れしていないか……。中国の現状を憂える声が飛び交う。

    ◇

 賀さんは1960年、山東省で生まれた。10歳のころ、毛沢東(マオツォートン)がすすめた政治運動「文化大革命」で、医者だった父親が他の人より給料が少し多かっただけでつるしあげられ、手術用のメスを使って自殺した。法律を学んで教壇に立ち始めてからは、共産党員としてスレスレの所で体制の内側にとどまり、改革の必要性を発信してきた。その口すら封じられている。

 「爆買い」でもなく、クルーズでもない。いっぷう変わった、そして、大切な客人たち。日本が、つかの間でも「避難港」になれるなら、とてもうれしい。次はもっと、私たちの明日を語ろう。日本と中国。彼らの旅に見たように、歴史を交錯させながら時間を紡いできたのだから。

 (編集委員

 ◆ザ・コラムは毎週木曜日に掲載します。
    −−「ザ・コラム 大津事件に学ぶ 琵琶湖畔で語る日中の明日 吉岡桂子」、『朝日新聞』2016年08月25日(金)付。

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http://www.asahi.com/articles/DA3S12526852.html





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