覚え書:「日曜に想う 詩聖の残した「百年の言葉」 編集委員・福島申二」、『朝日新聞』2016年09月04日(日)付。

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日曜に想う 詩聖の残した「百年の言葉」 編集委員・福島申二
2016年9月4日


「空想」 絵・皆川明
 アジア初のノーベル文学賞を受けたインドの詩聖タゴールが、大歓迎のなかに初来日して今年で100年になる。3カ月にわたって滞在し、行く先々で即興の短詩や警句をたくさん残した。

 それらを集めた「迷える小鳥」(藤原定訳)は、珠玉の言葉がひしめく宝石箱だ。たとえば、〈ハンマーの打撃ではなく、水の踊りが歌いながら小石を完美にしてゆく〉。清流にまろやかに磨かれる石を想像させる詩句からは、打つ、叩(たた)くという「力」ではなく、愛への信頼と賛美が透くようににじむ。

 〈足蹴(あしげ)は埃(ほこり)を立てるだけで、大地から何ものも収穫しない〉も奥深い。怒りにまかせて地面を蹴っても大地は何も応えてくれない。短慮と暴力を戒める。

 さらに心をゆさぶられるのは、〈人間の歴史は、侮辱された人間が勝利する日を、辛抱づよく待っている〉。

 侮辱された人間とは、虐げられた人々であろう。黒人奴隷や先住民族といった様々なマイノリティーにもたらされるべき勝利とは、ゆるがぬ自由と平等の獲得をおいて無い。人間の歴史への深い部分での詩人の信頼に、胸が熱くなる。

    *

 今年4月、一人の黒人女性の名が世界に報じられた。存命の人ではない。南北戦争前の米国で、南部の奴隷を北部の州へ逃がす命がけの地下活動で大勢の黒人を救ったハリエット・タブマン。米財務省が20ドル紙幣の新たな肖像にすると発表した。黒人女性が肖像になるのは初めてのことという。

 日本ではあまり知られないが、米国では敬意をもって語られる勇気の人だ。幼かったころ、2人の姉が鎖につながれて奴隷の仲買業者に買われていった姿が生涯の心の痛みになったという。

 自分が北部へ逃れてからも何度も南部に戻り、地下組織のもっとも危険な手引き役となって、州境を越えて何百人という黒人を自由の身に導いたとされる。奴隷を所有する白人からは憎悪され、身柄には高額の懸賞金がかけられた。

 19世紀の「お尋ね者」が21世紀に「正義の人」として紙幣を飾る。タゴールヒューマニズムと重なって美しい。その一方で米国の現実を眺めれば、人種間の平等の天秤(てんびん)はなお傾(かし)いだままだ。

 この夏、黒人が警察に射殺される事件が相次いで、抗議のデモが全米に広がったのは記憶に新しい。さらに暴言王と称される候補が話題をさらう大統領選と相まって、多様性の尊重を「きれいごと」と腐(くさ)すポピュリズムの空気が、ここにきて隠れもなく頭をもたげつつある。

 裏を返すなら、黒人女性の紙幣への初登用は、平等という理想に向けて米国が苦闘を続けている表れともいえる。人種問題という「最も深い断層」(オバマ大統領)を埋める象徴としての役割を、米政府は、素朴な顔立ちの一女性に託したのではないかと想像してみる。

    *

 6月、差別と闘い続けたボクシングのモハメド・アリ氏が世を去った。五輪で金メダルに輝いて帰郷したが、レストランで「黒人はお断りだ」と拒まれ、怒りからメダルを川に投げ捨てた――。よく知られた「伝説」の真偽はともかく、彼の故郷を流れるそのオハイオ川は、タブマンの時代に逃亡奴隷が自由を得るために越す最後の関門のひとつだった。

 当時の名高い小説「アンクルトムの小屋」でも、奴隷の母親が坊やを抱いて荒れるオハイオ川を必死に対岸へたどり着くくだりは忘れがたい。これには実在のモデルがあったと言われている。

 アリ氏の「伝説」からもう一つ思い出すのは、退任も間近になったオバマ大統領の就任演説の一節だ。「つい60年ほど前はレストランで食事もさせてもらえなかったかもしれぬ父を持つ男がいま、あなた方の前に立っている」。これを聞いたときも、黒人初の米大統領の言葉にタゴールの詩句が重なったものだ。

 ――いつの歴史をみても、正しさはマイノリティー(少数者)の勇気あるチャレンジから始まっている。その事実にもっと謙虚で、敏感でありなさい――。人種問題だけではない。詩聖は100年の歳月をこえて、そう語りかけてくる。
    −−「日曜に想う 詩聖の残した「百年の言葉」 編集委員・福島申二」、『朝日新聞』2016年09月04日(日)付。

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