覚え書:「終わりと始まり トランプ大統領と「事実」 真偽の彼岸に立つ国家 池澤夏樹」、『朝日新聞』2017年03月01日(水)付夕刊。

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終わりと始まり トランプ大統領と「事実」 真偽の彼岸に立つ国家 池澤夏樹
2017年3月1日 

 トランプ大統領については言うべきことが多すぎる。誰でも何か言いたくなるし、言えることはいくらでもある。だが何を言っても本人には届かない。馬の耳になんまんだぶ。

 かつてロナルド・レーガンはテフロン大統領と呼ばれた。焦げ付かない。失敗はすべてするりと拭い取れる。一方、トランプはフライパンで相手を殴るタイプらしい。

 トランプは初めはあまりにロシア寄りで、 TrumPutin (トランプーチン)大統領と呼ぶべきかと思ったが、さすがに少し距離を置くようになったようだ。

 我々には Trumpabe (トランペイブ、トランプ=安倍)の方が深刻な問題だ。このaを大文字にする必要もないほどの滑らかな接合ぶり。プードルの尻尾のように振り回されて、みっともないったらありゃしない。

 しかし何を言おうとドナルド・トランプは現実に大統領である。この人物の手の中に核戦争を始める権限がある。彼はコスト計算でそちらを選びかねない。安上がりの戦争を選ぶのが deal(取引)ということだろうか。大統領になっても政治家にはなっていない。未(いま)だ実業家のまま。

     *

 政治家には良くも悪くも理念があるが、実業家に利潤しかない。しかも金融資本のせいで実業家は虚業家になり、その王様がトランプだ。政治と虚業では行動の原理が違う、と要約してしまっていいものかどうか。

 虚業だから就任式に参加した人の数が「史上最大に見えた」とぬけぬけと言う。オリンピック・パラリンピックの誘致に際して安倍首相が「フクシマの放射能はアンダーコントロール」と言ったのと同じ種類の「オルタナティブ・ファクト」、すなわち、万民認知の事実とは異なる事実。

 事実がいくつもあるのはおかしいだろう。それでは裁判は成立しない。アリバイという言葉が意味を失う。

 人が議論をする時は、共有できる事実を前提として互いに認め、そこから始めて双方の考えの違いを一つずつ突き合わせてゆく。その前提を崩してしまっては議論にならない。

 この状態が post truth (ポスト・トゥルース)である。「真偽の彼岸」とでも訳そうか。真実や事実が意味を失った世界。

     *

 なぜこんなことになってしまったのだろう? 理由の一つは、発信コストの極端な低下にあるとぼくは思う。

 ある人があることを思う。あるいは考える。以前ならばそれを身近な人に言った。顔を見て話したか、手紙に書いたか、電話で言ったか、いずれにしてもそこまでだった。到達範囲はごく限られていた。更に先へ届けるにはそれなりのコストがかかった。言い換えれば、遠くに届けるだけの価値があるか否かが査定された。また活字や電波に乗る前に、前提が事実であることの確認作業があった。

 半世紀近い昔、ぼくは「リーダーズ・ダイジェスト」というアメリカの雑誌の翻訳で生計を立てていた。たくさんの本や雑誌の記事を選んで要約して読者に届ける簡便な教養誌。この雑誌の編集部に「ファクト・チェック」という部門があると知って感心した。

 今にして思えばあれは訴訟社会であるアメリカならではのメディアの自衛手段だったのだろう。今の日本では校閲と法務(ないし顧問弁護士)のセクションが同じ役割を果たしている。

 発信コストが低下して、誰もがごく安易に思ったこと・考えたことを世に送り出せるようになった。そこには校閲やファクト・チェックはないし、もちろん顧問弁護士もいない。

 素人の言葉が洪水となって報道マーケットを水浸しにする。受け手の方は、それが事実であるか否かを問うことなく、好みのものだけを選択して受け取る。アプリケーションがこの傾向を増幅し、他の意見に接する道を閉ざす。

 だからなんでもあり、言いたい放題。つまり言ってしまえば勝ちなのだ。メディアは後を追ってチェックをするが、その時には嘘(うそ)つきは先の方で別の嘘をついている。言論は流動化し液状化する。ずぶずぶとどこまでも沈む。誰もが言うばかりで聞こうとはしない。

 ドナルド・トランプは実業家としてこういう社会の雰囲気をよく知っていて、それを大統領選に応用した。資本主義の勝利者を貧民が賛美する、というグロテスクな構図が現実のものになった。外野のぼくたちがトランペイブなどといくら揶揄(やゆ)しても、それは正に蟷螂(とうろう)の斧(おの)でしかない。

 「放射能はアンダーコントロール」という真っ赤な嘘の向こうに崩壊した東芝の社屋や工場が見える。原発のコストもまた国家認定のオルタナティブ・ファクトだった。結局はとんでもなく高いものについた。
    −−「終わりと始まり トランプ大統領と「事実」 真偽の彼岸に立つ国家 池澤夏樹」、『朝日新聞』2017年03月01日(水)付夕刊。

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http://www.asahi.com/articles/DA3S12820472.html





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