日記:あんときのデジカメ SONY Cyber-shot DSC-WX5 スペックを望みすぎるとキリがない 2010年製




■「あんとき」ではありませんが・・・
今回ご紹介するSONY Cyber-shot DSC-WX5 は、前回ご紹介したWX1の後継機で、こちらも「あんときのデジカメ」シリーズを初めて、手に取った「あんときのデジカメ」ではなく、東京に居たおり、ハードオフで本体・バッテリーのみ2000円ぐらいで売っていたのを、「どんなもんなんだろう」「(安いから)広角専用のサブカメラ程度」での利用として購入したものです。

久しぶりにバッテリーを充電し、3ヶ月程度試写してみましたので、「あんときのデジカメ」としてご紹介しておきます。

■真夏だと夏らしく、真冬だと冬らしい色づかい
数年前に入手した折、前機種WX1でよく見られた現象である、露出オーバーぎみの仕上がりは、若干改善された感じで、色のノリ具合は、滑らかというよりもどちらかと言えばカリッとした仕上がり。真夏だと夏らしく、真冬だと冬らしく、写真がその温度感を伝えるようで、そこを活かした撮影が得意なカメラという印象がありました。これは久しぶりに使ってみても同じ使い勝手であり、裏面照射CMOSセンサーの改善のゆえだと思います。

ただ、WX1と同じく広角24mmという画角が、便利は便利なのですが、非常に使いにくいというか、被写体がカメラを規定してしまうなーという感慨は、かつてより強くなりましたですかね。とはいえ、24mmもあると、やっぱり、画面からはみ出してしまうからちょっと下がって撮影しようか、いやそうすると、今度は邪魔なものまで写り込んでしまう・・・的な隔靴掻痒とは無縁でありますので、こちらはやはり便利です。「あんときのデジカメ」を常用しますと、広角に弱いコンデジが多いので、どうしても広角に特化したコンデジを使うと、戸惑いが多いので(なんじゃそれ)、鋭意修行が必要ではないかと反省しております。

■ スペックを望みすぎてはいけない広角カメラ
でわ、簡単にスペックをおさらい。 DSC-WX1の裏面照射型CMOSセンサーは1/2.4型Exmor Rセンサーでしたが、WX5では、1/2.3型有効画素数1,220万画素Exmor Rセンサーへと変更、わずかに大きく、少し高画素化したセンサーへと進化したおかげで、露出オーバーは改善されております。ただしまだまだ過渡期のため、僕的にはCCDセンサーの方が、この時期のカメラだとまだ、信頼できるなーという感もあります。
レンズは5群6枚構成のソニーGレンズ。焦点距離は35mmフィルムカメラ換算で24−120mm(F2.4−F5.9)の5倍ズーム。こちらはWX1と同じ仕様。5倍だとかなりズームじゃないの?というカタログスペックですけど、ワイドがかなりきいているので、実質的にはコンデジの3倍ズーム程度。これも7倍ぐらいはほしい所ですかね。
個人的に大きな進化だと認められるのは、ストレージがメモリースティック系に加えてSDカードもサポートされるようになったこと。これで、大容量のカードでも安く使いまわしが効く点はソニー様に感謝。ある意味では大英断といったところでしょうか。
本機より「3D」や「背景ぼかし」「おまかせオート」「プレミアムおまかせオート」(いわゆるHDR)の各項目が用意されております、こちらは未使用ですが、近いうちに別個に紹介できればと思います。絞り優先やシャッター優先が欲しいなーと思ったりもしますが、ないあたりに、WX5を購入する層の性格が表されてもいるかと推察しております。

いずれにしても、広角に特化したちょっと上をゆくコンデジの一つのスタイルを提案したのがWXシリーズ。そこは最大限に評価したいと思います。

以下、作例。プログラム撮影。ISO125 ホワイトバランスオート、露出補正なし。



↑ 広角端24mmで撮影 (A)。


↑ (A)を光学望遠端120mm(5倍ズーム)で撮影。


↑ 広角端24mmで撮影 (B)。


↑ (B)を光学望遠端120mm(5倍ズーム)で撮影。



Playing old digital camera SONY Cyber-shot DSC-WX5 2010 | Flickr

DSC-WX5 | デジタルスチルカメラ Cyber-shot サイバーショット | ソニー




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覚え書:「言葉に命を―ダーリの辞典ができるまで [著]ポルドミンスキイ [評者]サンキュータツオ(お笑い芸人、日本語学者)」、『朝日新聞』2017年10月22日(日)付。

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言葉に命を―ダーリの辞典ができるまで [著]ポルドミンスキイ
[評者]サンキュータツオ(お笑い芸人、日本語学者)
[掲載]2017年10月22日
[ジャンル]文芸

■大衆にわかる構造で20万語編纂

 「人騒がせな人−−正直だが気性が激しく、不正に抗(あらが)う人、不正を擁護する者を不安にする人のことも指す」
 たったひとりで20万語収録、全4巻の『現用大ロシア語詳解辞典』などを著したロシアの辞書編纂(へんさん)者ウラジーミル・ダーリ。彼の辞書にはこのような記述がある。
 1801年に生まれ、およそ半世紀にわたり辞書を編纂し続け晩年に14回校正し世に出した知の巨人。大辞典の編纂は、ドイツではグリム兄弟によるドイツ語辞典、日本でも大槻文彦による大著『言海』、イギリスにはオックスフォード英語辞典が有名だが、ダーリはロシアという広大な大地で実際に農民が生活する場所に赴いては言葉を収集し、20万語という規模の大辞典を19世紀に手掛けた。そしてこのことは、日本語の書物ではなかなか伝えてくれるものがなかったが、今回伝記という形で読むことができることになり、辞書愛好家としては歓喜の出来事である。
 20万語という数は、大槻文彦の『言海』が4万語収録で出版まで16年かかっていることを考えるとあまりに膨大で想像がつかない。少し前の広辞苑とおなじだ。しかも単なるアルファベット順ではなく、言葉を「語群」(語根がおなじグループ)で整理したというのだ。日本語の感覚で言えば、「走る」という語群を作り、その項目に「小走り」「ひた走る」「口走る」など、「こ」「ひ」「く」からはじまる語も「走る」という語のグループとしてまとめて紹介する、といったイメージ。今風にいえば、情報に階層性があり、広がりがある。こうして言葉に命が宿る。
 200年前にこんなことを考えた人がロシアにいたなんて。ダーリの反骨の生き方やプーシキンとの友情にも心を打たれたが、とにかく大衆でもわかるような言葉と構造で辞典を編んだという発想に、いまだ感動がおさまらない。
    ◇
 Vladimir Porudominskii 28年モスクワ生まれ。作家、評論家。プーシキンらの伝記を執筆。現在ドイツ在住。
    −−「言葉に命を―ダーリの辞典ができるまで [著]ポルドミンスキイ [評者]サンキュータツオ(お笑い芸人、日本語学者)」、『朝日新聞』2017年10月22日(日)付。

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言葉に命を~ダーリの辞典ができるまで
ポルドミンスキイ
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覚え書:「国家がなぜ家族に干渉するのか―法案・政策の背後にあるもの [編著]本田由紀・伊藤公雄 [評者]齋藤純一(早大教授)」、『朝日新聞』2017年10月22日(日)付。

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国家がなぜ家族に干渉するのか―法案・政策の背後にあるもの [編著]本田由紀伊藤公雄
[評者]齋藤純一(早大教授)
[掲載]2017年10月22日
 
■生き方断念せずにすむ保障こそ

 近代の国家は家族に深く関与してきた。そのことにいまも変わりなく、大多数の国家は異性愛カップルにのみ婚姻資格を与えているし、少子化対策は最重要の政策課題とされている。
 本書は、本年1月に日本学術会議で開催されたシンポジウムをもとに編まれ、家庭教育支援法案、親子断絶防止法案、憲法第24条に関する自民党改定案、そして政府や自治体主導の婚活政策を取り上げ、その問題を検討する。
 本書によれば、いま国家の家族政策がとくに関心をもっているのは、「子ども」をめぐる問題である。国家の成員として望ましい「資質」が備わるよう家庭でどう教育していくか、離婚などで別居した親との面会・交流をいかに促すか、互いに「助け合う」家族規範(ファミリー・バリュー)をどう再構築するか、そして、結婚・出産をいかに奨励し、人口減少に歯止めをかけるか。
 重要なのは、これらの政策が整合しているかどうかである。たとえば、出生率が低迷しているのは、日本や韓国、イタリアやスペインなど育児を女性の役割とする性別分業規範の強い国々であり、伝統的な家族規範の強化が出生率を上昇させるとは考えにくい。また、「官製婚活」を続けても、家庭を築くに足る所得が見込めなければ、その効果は微々たるものにとどまる。未婚・単身でも仕事を続けながら子どもを育てられる生活条件を保障しなければ出生率の回復が望めないことは、フランスなどの例が示している。
 国家が関心を向けるべきは「正常な」家族モデルを示すことではなく、それぞれの生き方を断念しなくてもすむ生活条件を一つひとつ保障することである。貧困や長時間労働などで劣化してきた生活条件の回復に政策は本気で取り組もうとしているだろうか。
 本書は、多様な生き方が必要としている政策とそうではないものとの違いに光を当てる。
    ◇
 ほんだ・ゆき 64年生まれ。東京大大学院教授▽いとう・きみお 51年生まれ。京都産業大客員教授
    −−「国家がなぜ家族に干渉するのか―法案・政策の背後にあるもの [編著]本田由紀伊藤公雄 [評者]齋藤純一(早大教授)」、『朝日新聞』2017年10月22日(日)付。

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覚え書:「コミック 流香魔魅の杞憂(1) [作]奥瀬サキ」、『朝日新聞』2017年11月19日(日)付。

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コミック 流香魔魅の杞憂(1) [作]奥瀬サキ

コミック
流香魔魅の杞憂(1) [作]奥瀬サキ
2017年11月19日
■「口寄せ」の謎解き、無常の風ほろ苦く

 ページをめくると、鮮やかな黒の引き立つ画面に、まず目を奪われた。不思議なムードの中に、静かな深みを感じさせる。
 主人公はいわゆる「口寄せ」。死者の残した痕跡や遺留品などから彼らの記憶をたぐり、声を聞き出す特殊な力を持つ。宗教的な活動はせずに、もっぱら損害保険の調査業務を請け負い、さまざまな事件の謎を解いていく。いわばサイキックな探偵ヒロインの事件帳シリーズだ。
 毎回、欲望や憎悪、苦悩などのからむ事件の真相が彼女の手で明らかにされていく。が、どうしても行き場のない思いが後に残る。そもそも手がかりの声を発する者は、すでにこの世にいないのだから、たとえ謎が解明されても、取り返しようがない。事件は、いつも手遅れという形でしかやってこないのだ。
 シャープで緻密(ちみつ)な絵が、風景の中に無常の風を吹かせ、そんなほろ苦いドラマを描き出す。著者は長いキャリアを持ち、この主人公の活躍も昔からシリーズで描かれてきたが、デジタル環境に移行する中で新たな画風を作り上げ、新境地を獲得したようだ。
 絵の黒いベタの中から、妖しさや寂しさが伝わってくる、魅力的な世界だ。
 ササキバラ・ゴウ(まんが編集者)
    ◇
 ワニブックス 745円
    −−「コミック 流香魔魅の杞憂(1) [作]奥瀬サキ」、『朝日新聞』2017年11月19日(日)付。

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「口寄せ」の謎解き、無常の風ほろ苦く|好書好日


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覚え書:「日曜に想う 次の秩序をつくるもの 編集委員・曽我豪」、『朝日新聞』2017年07月23日(日)付。

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日曜に想う 次の秩序をつくるもの 編集委員・曽我豪
2017年7月23日

「ポイント」 絵・皆川明
 ひとつ権力が生まれ、秩序ができる。やがて権力が陰り、無秩序の危機が生じる。混沌(こんとん)の中から、次の権力と秩序が立ち上がる。政治はその繰り返しだ。

 繰り返しだがやはり、無秩序の危機の局面が一番人を不安にさせる。その責任の第一は権力の側にある。

 安倍政権の深刻さは、都議選の惨敗や支持率の急落にだけあるのではない。それより、森友・加計問題から閣僚らの失言・不祥事まで、いつになっても問題をリセット出来ない点が厳しい。安倍晋三首相もよもや、内閣改造ひとつでがらりと局面が好転すると思ってはいまい。

 それでも、民進党は都議選の総括や蓮舫代表の二重国籍問題に足をとられ、極めて内向的な混沌の中にある。都議選で圧勝した都民ファーストの会にせよ、世論はその国政進出に半ば懐疑的だ。数々の新党や各種チルドレンのてんまつを見てきた日本の世論であれば無理もない。

 既存の政権党も野党もそして新党も決め手を欠く三すくみの状況だ。誰が無秩序の危機を救う主体になるのか。

     *

 三谷太一郎東大名誉教授がこの春出した「日本の近代とは何であったか――問題史的考察」(岩波新書)を都議選の後で読み返した。冒頭提起される設問は重く、しかも今日的だ。

 戦前の日本の政党政治は、世界不況と二大政党同士のスキャンダル合戦の中でわずか8年の短命に終わり、軍国主義の台頭を許した。だが秩序の崩壊を追うにはまず、秩序の誕生を見極める必要がある。三谷氏は逆にこう問いかける。

 「なぜ、いかにして東アジアでは例外的な複数政党制が成立したのか」

 福沢諭吉らの言説を引き、丹念に前史が残した政治文化の遺産を掘り起こしてゆく。合議制による権力の抑制均衡のシステムが江戸幕藩体制から既に準備されていたこと、それは明治憲法体制につながり、一見すると集権的で一元的な天皇主権の背後で、分権的で多元的な権力分立制が作動していたことを解き明かす。

 明治政府のリーダーたちは米国の憲法起草者たちと同様、議会多数派の国家支配を防止する意図があった。しかし権力分立だからこそ、現実の政治は体制統合の主体を必要とする。藩閥のあと、その担い手は政党しかなかった。これも米国と同じく、「反政党的な憲法」のもとで逆説的に政党政治が誕生したと論じる。

     *

 ただ、三谷氏の問題意識はそこにとどまらない。戦前に外交官として30年以上の滞日経験を持つ英国人歴史家のジョージ・サンソムが戦後の1950年に東大で行った連続講義を引く形で、ヨーロッパの「議論による統治」にあって日本にはなかった伝統を指摘するのだ。

 「少数者の権利と意見を尊重する一定の伝統」と「各個人が他の個人の意見や行動の自由をある程度尊重する」伝統がそれだ。サンソムが日本人の行政技術や秩序形成能力を卓越したものと評価する一方で欠けたピースだと考えたもの、それは日本の政党政治が依然として抱える今日的課題だと言えるだろう。

 少数意見の尊重は単なるお題目ではない。今回、高い代償を払って安倍政権の人々は本当にわかったのだろうか。小さな反乱だ、抵抗のための抵抗だとたかをくくるばかりだと、昨日までの民意の共感は違和感へ、さらに今日は反感へと変わる。「一強」はただ強圧的な行政権力の維持装置としか思われず、言論の府に根ざす統合能力を失う。少数意見の尊重とは、良い悪い以上に損か得かの極めてリアルな政治技術の問題である。

 もちろんそれは、政権の側だけの問題ではない。民進蓮舫代表の記者会見でフリーライターの質問を議事録から削除しようとし、都民ファーストも都議への自由な取材を規制した。

 それで政党の団結や正しさを守ることが出来ると思うのなら、逆効果だ。自分の至らなさに気付かせてくれる少数意見をありがたいと思い、自己改革の糧として取り込める者だけが、世論を静める統合の力を持つ。それが議会制民主主義への信頼を回復し、次の秩序を生み出す統合主体へと政党が脱皮する道だと思う。
    −−「日曜に想う 次の秩序をつくるもの 編集委員・曽我豪」、『朝日新聞』2017年07月23日(日)付。

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http://www.asahi.com/articles/DA3S13051009.html





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