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2018-10-08

覚え書:「憲法季評 『直虎』で考える9条と改憲 崩れる「一人も殺さぬ」 蟻川恒正」、『朝日新聞』2018年01月13日(土)付。

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憲法季評 「直虎」で考える9条と改憲 崩れる「一人も殺さぬ」 蟻川恒正

2018年1月13日

 2018年、憲法改正への具体的な動きが始まるという。焦点は9条だという。現在自民党では、9条1項(戦争放棄)・2項(戦力不保持)はそのままとし、自衛隊の存在を明記する条文を新設する案が有力らしい。現状を追認するだけで何も変わることはない、とも説明されている。だが、新たな条文を加えるのに、9条の構造が無傷であるわけにはいかない。

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 昨年のNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」は、今川家支配下遠江国井伊谷(いいのや)の国衆で、のちに江戸幕府の屋台骨を支える井伊家の1568年当時の当主として古文書にその名をとどめる井伊直虎なる人物の一代記である。この人物が実は女性と伝えられる次郎法師だったという仮説のもとに、その数奇な生涯を、桶狭間の戦い(1560年)の前から本能寺の変(1582年)の後まで描いたこのドラマがなぞっているのは、実は、憲法9条の構造である。

 例えば、戦況優位の徳川家康から和睦の申し入れを受けた今川氏真(うじざね)が、意想外の提案に当惑しながらも、「私は何も好き好んで戦(いくさ)をしているわけではございません」と吐露した家康の対応に意を強くして語り出した言葉。「大名は蹴鞠(けまり)で雌雄を決すればよいと思うのじゃ」「よいと思わぬか。揉(も)め事があれば、戦のかわりに蹴鞠で勝負を決するのじゃ。さすれば、人も死なぬ。馬も死なぬ。兵糧もいらぬ」

 荒唐無稽な奇想だが、蹴鞠を比喩ととれば(氏真が蹴鞠の名手であったことは措〈お〉く)、戦のかわりに蹴鞠で勝負を決するというのは、戦争のかわりに他の手段で決するということになる。氏真の奇想は、「戦争は他の手段を以(もっ)てする政治の継続である」(クラウゼビッツ「戦争論」)という理解を乗り越える9条1項の規範、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力行使は、国際紛争解決する手段としては、永久にこれを放棄する」の本質を射抜く。

 もう一つ。直虎から「我は種子島を備えて(=軍備増強によって)井伊を守ろうと思うておった。(だが)、この先どうなるかも分からぬ。そなたが我なら……何を備える?」と問われた、直虎と心を通わす家老で今川家目付役でもある小野政次の言葉。「私なら、戦わぬ途(みち)を探ります」「戦いに及ばずとも済むよう死力を尽くす。周りの思惑や動きにいやらしく目を配り、卑怯(ひきょう)者、臆病者よとの誹(そし)りを受けようとも断固として戦いません」

 戦わずに争いを解決するという政次の言葉は、同時に、卑怯者と呼ばれる覚悟、政略・外交の技量の必要を強調することによって、戦争放棄を日々の政治過程における具体的実践へと肉付けしている。国際平和を「誠実に希求」(9条1項)するとは、こうした実践の積み重ねとしてのみある。

 このドラマが描く直虎の歩みは、だが、一国平和主義ではない。武田と徳川が今川攻めを画策するなかで、直虎は戦そのものを未然に回避しようと徳川に積極的に働きかけている(真正の積極的平和主義)。この企ては失敗するが、徳川方につくこととなった直虎は、徳川の使者に対し、城は明け渡すが兵は出さないと伝える。それでは新たな土地の安堵(あんど)はできぬと言う使者に、直虎は「井伊のめざすところは民百姓一人たりとも殺さぬことじゃ」と宣明する。誠実に希求すべき「国際平和」(9条1項)は、つきつめれば、敵味方をこえて「民百姓一人たりとも殺さぬこと」以外にはない。

 領主としての井伊家がいったん潰れた後も、直虎は、例えば井伊谷に侵攻する武田軍と戦おうとする新たな領主に翻意を迫るために策を講じる。当時農民は戦時には兵力として駆り出されていたが、直虎は、領内の全農民に「逃散(ちょうさん)」を促すことで、主戦論の新領主を断念させた。

 兵力が存在しなければ戦はしたくてもできない。この逸話は「前項の目的(戦争放棄)を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」とする9条2項のまったき具現化である。

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 「民百姓一人たりとも殺さぬこと」が、このドラマの通奏低音である。今川から直虎の後継ぎの稚(おさな)い虎松(のちの井伊直政)の首を求められた政次は、にせ首として差し出すために無辜(むこ)の幼児を殺害する。家を守るためには不可避とはいえ、これは「民百姓一人たりとも殺さぬこと」という9条の根本規範に反する。このドラマの脚本家は、この侵犯を重く捉えている。政次に「地獄へは俺が行く」とつぶやかせ、そうして、地獄に落としている。

 いつの世も、とりわけ戦では、最も弱い個人が犠牲となる。どんなに策をめぐらそうとも、戦がある限りこの犠牲はなくならない。だから戦そのものを放棄し、兵力を持たないとしたのが9条1項・2項である。

 直虎の時代の農民は、戦の最大の被害者であるとともに、兵力として加害者にもなる者であった。誤解を恐れずにいえば、これからの日本で、この農民に当たる存在は、自衛官かもしれない。憲法自衛隊を明記することが「民百姓一人たりとも殺さぬこと」を根本に据える9条の構造を崩さないはずがあるまい。

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 ありかわ・つねまさ 1964年生まれ。専門は憲法学日本大学大学院法務研究科教授。著書に「尊厳と身分」「憲法的思惟」。

    −−「憲法季評 『直虎』で考える9条と改憲 崩れる「一人も殺さぬ」 蟻川恒正」、『朝日新聞2018年01月13日(土)付。

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