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2018-12-10

覚え書:「平成とは あの時:5 「壁」なき時代、深まる分断 ヨーロッパ総局長・石合力」、『朝日新聞』2018年02月27日(火)付。


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平成とは あの時:5 「壁」なき時代、深まる分断 ヨーロッパ総局長・石合力

2018年2月27日

写真・図版

ベルリンの壁をめぐる発言/ドイツと日本に関する出来事

 1989(平成元)年11月9日、冷戦象徴だったベルリンの壁は一夜にして崩れた。東西ドイツは1年後に統一され、欧州は一つの共同体として国境の隔てを限りなく低くした。人々が連帯の歓喜に沸いた冷戦崩壊後の世界。だがそれは壁なき時代の新たな「分断」の始まりでもあった。

 ■「みんな一緒になった」一夜

 「壁の崩壊を記念する演奏会で、振るつもりはありますか」

 89年11月10日朝。壁が崩れた次の日に、ベルリン・フィル首席オーボエ奏者ハンスイェルク・シェレンベルガー氏(70)ら団員2人は問いかけた。相手は名指揮者ダニエル・バレンボイム氏(75)。その日、同フィルとオペラの録音を予定していた。

 「もちろんだ」

 バレンボイム氏はそう答えた後、二つの条件を出した。無料にすること。東ベルリン市民を対象にすること。東の身分証明書がチケットがわりになった。

 演奏会は12日の午前11時に始まった。午前4時から並んだ聴衆で2400席のフィルハーモニーは満員になった。ピアニストでもあるバレンボイム氏は、前半にベートーベンピアノ協奏曲1番を弾き振りで演奏。後半は同交響曲7番を振った。聴衆は総立ちで拍手を送り、会場は熱気に包まれた。

 バレンボイム氏は、あの夜を「人生で最も素晴らしい体験の一つだった」と振り返る。

 「壁の崩壊は、人々が望んでいない政治システムから解放されたことだけでなく、二つに分断された国民が一緒になったことを意味した。『自由になった!』のではない。『みんな一緒になった!』のだ」(ベルリン・フィルアーカイブによる)

 ロシアユダヤ人としてアルゼンチンで生まれ、移住先のイスラエルで育った彼にとって、音楽は政治と深く結びつく。99年には中東での和解を目指し、ユダヤ人アラブ人音楽家を集めた「ウエスト・イースタン・ディバンオーケストラ」を立ち上げた。自国による占領の継続を一貫して批判する。

 だが中東和平は、彼の思いに逆行している。イスラエルは02年、テロ防止を理由にパレスチナ人が住むヨルダン川西岸地区との間に分離壁の建設を始めた。20世紀の「ベルリンの壁」に代わる21世紀の「壁」だ。

 バレンボイム氏に壁崩壊の演奏会を持ちかけたシェレンベルガー氏は今、オーボエ奏者指揮者として、日本のオーケストラにも客演する。

 「音楽には対話を促し、架け橋となる力がある。恐怖と結びついたナショナリズムとは異なる。音楽なら複数の文化を結びつけることができる」

 ■戦後40年が日・独の岐路に

 89年11月10日夜。西ベルリン在住のジャーナリスト梶村太一郎さん(71)が目にしたのは、信じられない光景だった。

 壁が崩れたと聞き、出先からフランクフルト経由でベルリンに戻った。ベルリン・テーゲル空港のターミナルから外に出ると、東ドイツ製の乗用車トラバントが目の前にあった。「壁が本当に壊れるとは……」

 崩壊の2年前、日本の商社から頼まれ、旧東独の自動車工場で通訳をする機会があった。工具はほったらかし。労働意欲ゼロ。「社会主義は、経済的に持たないとすぐわかった」

 一方、壁が崩壊して東欧諸国で民主化ドミノが起きた数年後、日本ではバブル景気がはじけた。格差も広がっている。「社会主義資本主義も、ともにまだ課題を解決していない」

 74年にベルリンに移り住んで以来、日独の戦後の歩みを注視してきた。周辺国との間で歴史認識をめぐって対立が続く日本と、ナチス戦争責任を受け止めるドイツ。違いはどこにあるのか。梶村さんは戦後40年の1985年が岐路だったとみる。

 ワイツゼッカー大統領は「過去に目を閉じる者は、現在にも盲目となる」と国民に説いた。その年、日本では中曽根康弘首相終戦記念日に、戦後の首相として初めて靖国神社公式参拝に踏み切った。

 ワイツゼッカー氏は06年、隣国との和解について、朝日新聞のインタビューでこう語った。「ドイツが国境を接している国が九つありますが、現在、どの国もドイツを恐れていませんし、またドイツを脅かしている国もありません。ドイツがすべての隣国と友好関係にあるのは史上初めてのことです」

 史実を認める義務、責任はあるとの考え方は右翼勢力が台頭してもドイツ社会に広く定着している。

 かたや日本では歴史修正主義的な論調が目立つ。梶村さんは思う。「日本は一世代くらい遅れてもドイツに追いつけると期待してきた。でも、もう全く違う国になってしまった」

 ■統一は新たな苦闘の始まり

 ベルリン市内には、いまも東西分断の痕跡が残る。

 東西ベルリン境界線上に置かれていたチャーリー検問所。跡地の脇にある「壁博物館」は、壁ができた翌62年にできた。

 展示室の一つでは、壁崩壊の2年前、87年に当時のレーガン米大統領ブランデンブルク門の前で行った演説の映像が流れる。ソ連の指導者ゴルバチョフ書記長に「この門を開けよ。壁を取り壊せ」と訴える。

 冷戦時代、米大統領自由民主主義を掲げる「西側陣営」の指導者だった。その米大統領が30年後、「壁を作る」と訴える人物になろうとは。

 初代館長の歴史家、故ライナー・ヒルデブラント氏の夫人で館長のアレクサンドラさん(58)にトランプ米大統領の印象を聞くと、意外な答えが返ってきた。

 「レーガン大統領は対ソ強硬論者で、当時は尊敬されていなかった。トランプ氏も30年後にどう評価されているかは分かりません」

 そのドイツでは、シリアなどから多くの難民流入した2015年、当初は歓迎ムードだった。だが移民らによる事件が相次ぎ、風向きが変わった。

 難民受け入れを主導したメルケル首相への批判が高まるなか、昨年9月の総選挙では新興右翼政党ドイツのための選択肢(AfD)」が初めて国政に進出し、第3党になった。ベルリンの壁崩壊と東西統一の高揚感に沸いたドイツ社会はいま「分断」の岐路に立っている。

 ポツダムにある現代史研究センター所長の歴史家マルティン・ザブロー氏は言う。

 「壁の崩壊を、『自由人権勝利』として語ってきた現代史の見直しが進んでいる。89年から90年の動きは、新たな苦闘の始まりだったと受け止めなければなりません」

 ■音楽、自由にできる社会に バイオリニスト樫本大進さん

 ベルリンの壁が崩壊した時は小学生。ニューヨークにいました。1年後、11歳で西ドイツリューベックに留学しました。東ドイツとの境の近く。ソ連など、自分が暮らすのとは全く違う世界がすぐ隣にあった。人間として成長していく意味で、すごく大きな経験だったと思います。ドイツに行ったからこそ音楽家になれたと思うんです。

 13歳のころ、クラス旅行でベルリンを訪れたんです。アウトバーン旧東ドイツを通って行く。同じドイツの中なのに、演奏旅行で行ったロシアポーランドワルシャワみたいでびっくりしました。

 僕のバイオリンの先生(ザハール・ブロン)は旧ソ連出身。よく社会主義共産主義といった国の体制の話をした。でも批判だけではないんです。音楽とか文化を支援して、力を入れていたとか。

 ベルリン・フィルハーモニーのホールは、(分断中の)東西ベルリンの中心に建てられた。東に見せつけるという意味もあれば、一つの国民になるという意味を込めた希望のホールでもありました。東ドイツがなくなった瞬間も、一人ひとりのドイツ人が温かい気持ちを持っていた。それがこの2年くらいで変化したと思う。何か心配です。

 ベルリン・フィルという名前で何か良いことができるなら、とみんな常に考えています。難民支援も、東日本大震災の後も特別演奏会をする際には、団員みんなで投票して決めます。そこはとても民主的です。

 前任のコンサートマスターだった安永徹さんからは、色々アドバイスを頂いた。偶然日本人が後に入っただけで、特別何かつながりがあったわけではないんです。ただ小澤征爾さんの存在がなかったらまだまだ日本人の音楽家は、(欧州で)マイナーな存在だったと思います。18歳の時に初めて共演させていただいた時から「この手の中の、熱い美しい世界」に入り込んだ。憧れの音楽家です。

 音楽の世界では、どこの国の人か、男か女か、年齢は何も関係がない。音楽的に合うか合わないか。結果だけが重要です。厳しいけれど、ある意味フェアな世界。そういう世界って美しいと思うんです。

 昔のソ連では、こういう音楽を弾いてはだめとか、ドイツナチス時代はユダヤ人作曲家の曲はだめとか、いろいろ制限がかかった。逆に言えば、それほど音楽って力があるということだと思うんですよ。だからこそ僕ら音楽家にとってオープンに演奏できる社会でないといけない。国境や制限のない社会ができればいいなと思います。

     *

 かしもとだいしん 1979年、ロンドン生まれ。3歳でバイオリンをはじめ、96年にロン・ティボー国際音楽コンクール優勝。世界的指揮者と共演を重ね、2010年、ベルリン・フィルの第1コンサートマスターに就任。ソロ活動も続ける。毎年秋に開催する室内楽の音楽祭「ル・ポン国際音楽祭」(兵庫)の音楽監督も務める。写真はベルリン、峯岸進治氏撮影。

 ■私と平成 ヨーロッパ総局長・石合力(いしあいつとむ)(53)

 88年2月。私は入社前の卒業旅行の目的地に「ベルリンの壁」とアウシュビッツを選んだ。

 東ドイツに囲まれた陸の孤島西ベルリンに着いた夜、壁沿いをひたすら歩いた。翌年に壊れるとも知らず。東ベルリンに入り、駅のホームでシャッターを切った瞬間、憲兵に囲まれ、銃剣を突きつけられた。フィルムをちぎって許された。監視、強権、圧迫感。社会主義国家の強烈な実体験だった。

 東側の国民車トラバントは、紙繊維を混ぜたといわれる粗雑なボディー。かたや西ベルリンではベンツがタクシーで使われていた。豊かさにおいても、東西の力の差は歴然だった。

 冷戦崩壊後の世界で、特派員として米国中東を巡った。米国メキシコの国境や、イスラエルパレスチナに対して作った分離壁も訪れた。壁や国境の両側にあるのは、貧富の差と不公正、人々の悲しみ、怒りだった。

 壁を壊し、国境をなくすことで得たはずの自由がいま、ポピュリズムナショナリズムに揺らいでいる。私たちの前に新たな壁は立ちはだかるのか。歴史の振り子はどちらに揺れようとしているのだろう。

     ◇

 「平成とは あの時」は次回、3月に「学力低下」を予定しています。

 ◆キーワード

 <ベルリンの壁> 第2次大戦後、米英仏とソ連(現ロシア)の連合国4カ国がベルリンの占領を継続。1961年8月13日、当時の東ドイツ亡命を阻止するために壁の建設を開始した。ベルリンは東西に分断され、冷戦下の東西対立象徴になった。コンクリート製の壁は高さ約3〜5メートル、総延長は約150キロ。89年11月9日、東ドイツが国外旅行の自由化を発表。直後に検問所が開放され、壁は崩れた。90年10月3日、ドイツは再統一された。

    −−「平成とは あの時:5 「壁」なき時代、深まる分断 ヨーロッパ総局長・石合力」、『朝日新聞2018年02月27日(火)付。

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