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2017-02-12

日記:議論の土台崩しという巨悪に共謀しとる前科モノだけに何でもありですな(゚∀゚)

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特集ワイド

フリーアナウンサー吉田照美さん 権力者に対する風刺ができない世の中は危険

毎日新聞2017年2月9日 東京夕刊

フリーアナウンサー吉田照美さん=東京都港区文化放送で、根岸基弘撮影

 フリーアナウンサー吉田照美さんが先月、大ヒット映画「シン・ゴジラ」などをモチーフにした油絵を発表した。ゴジラの顔を安倍晋三首相の似顔絵にすげ替えた、その名も「晋ゴジラ」。あくまでも風刺画だが、インターネット上は批判的な書き込みがあふれ、「炎上」。この騒動をどう受け止めましたか? 【小林祥晃

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「晋ゴジラ」でネット「炎上」 「非国民」と攻撃された戦時中のよう

 「反応の大きさに驚きました。これが『けしからん』と批判されるなんて、まるで戦時中ですよ」。ラジオでおなじみのひょうひょうとした口調で、ドキリとすることを口にした。

 吉田さんは、深夜放送の「セイ!ヤング」や、「てるてるワイド」などで、大勢のリスナーの心をつかんできた。12年前からは多忙な日々の傍ら、趣味で油絵を始めた。時事ネタをテーマにした風刺画も多数描き、近年は自身のホームページインターネット番組で発表している。波紋を広げた「晋ゴジラ」もその作品の一つだ。

 生放送後に、実物をじっくりと見せてもらうと−−。画面中央には「晋ゴジラ」。その周りを囲むようにアニメ映画君の名は。」と「この世界の片隅に」の主人公たち。それぞれのキャラクターの表情やポーズは映画ポスターにほぼそっくり。思わず「似てる」と、うなってしまう出来栄えだ。

 発想したのは、2016年の人気映画ランキングを見ている時だった。「広島への原爆投下が題材の『この世界の片隅に』というタイトルに、まず感じるものがありました。世界の中心で輝くとか、美しい国といった安倍首相が好む言葉と対照的だな、と。続けて『君の名は。』と『シン・ゴジラ』のタイトルが目に入り、『君の名は、シン、晋……、あ、これは絵にできる』と直感したんです」

 伝えたかったのは、安倍政権の政策に対する疑問だ。社会保障費の不足を問題にしているのに、外交では、ロシアに医療やエネルギー分野での経済協力、フィリピンに対しては5年間で1兆円規模の経済協力を約束した。原発には国民の多くが不安を持っているにもかかわらず、再稼働を着々と進めている。「ゴジラは核実験から生まれた生物。一方、晋ゴジラは国内に回すべきお金を海外にばらまいて、国民の思いを無視して原発を推進する。そんな憤りを込めて、この絵を描いたのです」

 発表直後から批判的な反応が相次いだ。自身のツイッターには「芸術や(映画)作品に泥を塗る」「大人のやり方で政治批判してください」などと返信があったほか、「(映画の)作者の意図を政治利用する愚劣さ」と評する記事を載せたブログもあった。

 これまでも、歴代首相や与野党政治家、芸能人らをネタにした風刺画を描いてきたが、こんな騒ぎになったのは初めての経験だ。「晋ゴジラ」には「作品を汚された」などという熱烈なファンの反発もあったようだ。しかし吉田さんは「権力に逆らう者をバッシングする風潮が背景にある」と感じている。

 「僕だって3本の映画はすごく好き。でも、僕の作品は単なる風刺。そもそも強い者、権力者を風刺できない世の中は、すごく危険だと思いますよ」。国民は政府に物を言えず、声を上げれば「非国民」とたたかれた戦時中と似てきていると危惧しているのだ。

 吉田さんを紹介する代表的なエピソードは、深夜放送を担当していた1970年代末期の「東大ニセ胴上げ事件」だ。東大の合格発表日に受験生のふりをして構内を訪れる企画を実行。「あったー」と叫んで同行のスタッフらに胴上げしてもらった。その光景がテレビのニュースで流れた。リスナーを笑わせたい一心だったが、当然ひんしゅくを買った。それでも、放送作家永六輔さんから「面白い」と絶賛され、「過熱する受験戦争への皮肉」と好意的に評した新聞もあった。

 「今ならバッシングの嵐でしょう。いつの間にか息苦しくなって、くだらないことができなくなった」。振り返ると、ばかをやって笑ってもらえた頃の方が、社会はまともだったと思う。「今、世の中の物差しはおかしくなっていると思いますよ。政治家は公約を守らないし、公約にないことをやろうとする。それが許されているのですから」

 ラジオを通して笑いを届けることにこだわってきたが、東日本大震災東京電力福島第1原発事故では「常にリスナーの側に立つ」という姿勢を貫いた。政府や東電の「公式発表」に疑念が拭えず、担当したニュース番組では自分が信じた情報だけを伝えた。事故直後から「炉心溶融メルトダウン)の恐れ」を指摘する識者コメントを紹介し、反原発ソングも流した。後になって、メルトダウンを巡る当時の「うそ」が次々と明らかになるのを見て、あの時の行動は「放送人」として大きく間違ってはいなかった、と感じている。

 だから、こう確信している。「変だと思ったら声を上げる。遠慮することはない。今の日本人は、人と違うことを言って目立つことへの恐れみたいな感情を持ち過ぎです。社会がそうなんですから、子どもいじめがなくならないのも、むべなるかなと思いますよ。それでは未来を切り開けないと思うなあ」

 権力に逆らう人をたたくのは、立場が逆転すれば自らの首を絞めることにもなると指摘する。「沖縄の米軍基地建設への反対運動や、原発事故の被害者をバッシングする人たちは、きっと基地も原発事故も人ごとだと思っているのでしょう。でも、バッシングする側の人たちだって、いつ基地や原発の被害者になるか分からない。『いくら少数者や弱者をたたいても、権力はあなた方を守ってはくれませんよ』と。それを伝えたいですね」

 自身がバッシングの的になっても、嘆きこそすれ、声高に反撃する言葉を発しない。なぜなのか。「だって批判してくる人も同類だと思ってますから。先月『世界の富豪のうち上位8人の資産が、世界人口の下位半分、約36億人分の資産に相当する』というニュースがありましたよね。大きな目で見れば、結局、僕らはお金も権力もない同類。仲間同士でなぜ争わなくてはいけないのって。富の偏りは政治の責任。むしろみんなで、仕事をしない政治家の責任を追及すべきですよ」

 そんな思いで筆を執った最新作を今月3日、ホームページで発表した。半分に割った地球と8人の富豪が、てんびんにつり下げられている、風刺画だ。

 簡単には、萎縮しない人なのである。

 ■人物略歴

よしだ・てるみ

 1951年東京都生まれ、74年早稲田大卒業後、文化放送アナウンサー。85年フリーに。「吉田照美のやる気MANMAN!」など多くのラジオ番組が、聴取率1位を獲得。同局で放送中の「飛べ!サルバドール」(3月終了予定)を含め、平日の帯番組パーソナリティーを36年以上連続で務めている

    −−「特集ワイド フリーアナウンサー吉田照美さん 権力者に対する風刺ができない世の中は危険」、『毎日新聞』2017年02月09日(木)付夕刊。

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特集ワイド:フリーアナウンサー・吉田照美さん 権力者に対する風刺ができない世の中は危険 - 毎日新聞





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2016-12-30

日記:靖國神社で創価学会の三色旗で溢れる日も近いのかな

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稲田防衛相 きょう靖国神社に参拝へ:NHKニュース

12月29日 6時35分

稲田防衛大臣は29日午前、防衛大臣に就任してから初めて、東京・九段の靖国神社に参拝することになりました。

稲田防衛大臣は例年、サンフランシスコ平和条約が発効し、日本が主権を回復した4月28日と、終戦の日の8月15日に、みずからが会長を務める党の議員グループとともに東京・九段の靖国神社に参拝しており、行政改革担当大臣や自民党政務調査会長を務めていた時も参拝しました。

一方で、稲田大臣は、ことし8月に防衛大臣に就任したあとは、13日からアフリカのジブチを訪れ、ソマリア沖の海賊対策のために派遣されている海上自衛隊の部隊を視察していたことから、終戦の日の参拝は行われませんでした。こうした中、稲田大臣は29日午前、防衛大臣に就任してから初めて、靖国神社に参拝することになりました。

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エラー|NHK NEWS WEB

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リテラ

靖国参拝、稲田が「後に続くと誓え」

靖国参拝! 稲田防衛相が過去に「靖国は不戦を誓うところじゃない」「後に続くと靖国に誓え」と発言

2016.12.29

稲田朋美HPより

 稲田朋美防衛相がきょう29日、靖国神社に参拝した。極右思想の持ち主で初当選以降、毎年、終戦記念日に参拝してきた稲田は今年8月、防衛相に就任し、ジブチでの自衛隊の活動視察のためという名目で靖国参拝を自重していた。

 その稲田が、とうとう本性を表したかたちだ。

 稲田は参拝後、報道陣に、「日本と世界の平和を築いていきたいという思いで参拝した」と語ったが、これが真っ赤な嘘であることは明らかだ。

 稲田は過去にこんな発言をしている。

「国民の一人ひとり、みなさん方一人ひとりが、自分の国は自分で守る。そして自分の国を守るためには、血を流す覚悟をしなければならないのです!」(講演会での発言)

靖国神社というのは不戦の誓いをするところではなくて、『祖国に何かあれば後に続きます』と誓うところでないといけないんです」(「WiLL」2006年9月号/ワック)

「祖国のために命を捧げても、尊敬も感謝もされない国にモラルもないし、安全保障もあるわけがない。そんな国をこれから誰が命を懸けて守るんですか」(「致知」2012年7月号/致知出版社

 また、稲田氏は06年9月4日付の産経新聞で、『国家の品格』(新潮新書)で知られる藤原正彦氏の「真のエリートが1万人いれば日本は救われる」という主張に同意を示しながら、こんなことを訴えている。

〈真のエリートの条件は2つあって、ひとつは芸術や文学など幅広い教養を身に付けて大局観で物事を判断することができる。もうひとつは、いざというときに祖国のために命をささげる覚悟があることと言っている。そういう真のエリートを育てる教育をしなければならない〉

 靖国に行って人殺しの戦争に参加することを誓うべきと語り、さらに国のために命を捧げるのが「真のエリート」だと言い切る──。今回の参拝もこうした極右思想の延長線上に行ったのは間違いない。

 我々はとんでもない人間を防衛大臣にすえているということを改めて認識すべきだろう。

(編集部)

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不戦、寛容、和解を発信

公明新聞:2016年12月29日(木)付

歴史的メッセージと評価

山口代表

公明党山口那津男代表は28日午前、東京都新宿区の党本部で記者団に対し、日米首脳がそろって米ハワイ・真珠湾を訪問し、オバマ氏の任期中で最後の会談を行ったことを受け、大要次のような見解を述べた。

一、オバマ米大統領が間もなく任期を終えるに当たって日米首脳会談を総括の意味で行ったのは良かった。真珠湾で日米首脳がメッセージを発したのは、歴史的な1年を締めくくる重要な出来事だった。今後も未来に向かって進むことができるのは、安定した政権基盤があればこそだ。

一、首相がメッセージで平和国家としての歩みという歴史的事実を大切にしながら、不戦の誓いを発したのは重要だ。また、戦後、日本への米国の支援に感謝し、激しい戦争を行った両国が寛容や和解の精神を国際社会に発信したのは画期的な政治的行為だった。

一、さらに、基本的な価値観を共有する両国が同盟を結び、その役割をさらに深めていくことで国際社会に好ましい影響力、指導力を発揮することを確認したことにも重要な意義がある。

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不戦、寛容、和解を発信 | ニュース | 公明党


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2016-02-29

覚え書:「インタビュー:アフガン復興を支える NGO「ペシャワール会」現地代表・中村哲さん」、『朝日新聞』2016年01月30日(土)付。

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インタビュー:アフガン復興を支える NGO「ペシャワール会」現地代表・中村哲さん

2016年1月30日


(写真キャプション)中村哲医師。福岡県太宰府市の九州国立博物館で開かれた現地活動写真展で=久松弘樹撮影

 米軍などが「対テロ戦」を掲げ、タリバーンが支配するアフガニスタンを空爆してから15年。タリバーン政権は倒れたものの、いまだ混乱は収まらず、治安も悪化したままだ。この国の復興を、どう支えていけばいいのか。NGO「ペシャワール会」の現地代表として民生支援を続ける医師の中村哲さんに聞いた。

 ――1980年代から90年代は医療支援でしたが、今は灌漑(かんがい)事業が中心です。お医者さんがなぜ用水路を引くのですか?

 「農業の復興が国造りの最も重要な基盤だからです。2000年からアフガニスタンは記録的な干ばつに襲われ、水不足で作物が育たず、何百万という農民が村を捨てました。栄養失調になった子が泥水をすすり、下痢でいとも簡単に死ぬ。診療待ちの間に母親の腕の中で次々に冷たくなるのです」

 「医者は病気は治せても、飢えや渇きは治せない。清潔な水を求めて1600本の井戸を掘り、一時は好転しました。しかし地下水位は下がるし、農業用水としては絶対量が足らない。そこで大河から水を引き、砂漠化した農地を復活させようと考えたのです。合言葉は『100の診療所より1本の用水路』でした」

 「道路も通信網も、学校も女性の権利拡大も、大切な支援でしょう。でもその前に、まずは食うことです。彼らの唯一にして最大の望みは『故郷で家族と毎日3度のメシを食べる』です。国民の8割が農民です。農業が復活すれば外国軍や武装勢力に兵士として雇われる必要もなく、平和が戻る。『衣食足りて礼節を知る』です」

 ――自身で重機を操作したこともあるとか。

 「03年から7年かけて27キロの用水路を掘り、取水堰(せき)の改修も重ねました。お手本は、福岡県朝倉市にある226年前に農民が造った斜め堰です。3千ヘクタールが農地になり、15万人が地元に戻りました。成功例を見て、次々に陳情が来た。20年までに1万6500ヘクタールを潤し、65万人が生活できるようにする計画ですが、ほぼメドが立ちました。政権の重鎮らが水利の大切さにやっと気づき、国策として推進しなければと言い始めました。現地の人たちの技術力を底上げする必要を感じています」

 ――工事はだれが?

 「毎日数百人の地元民が250〜350アフガニ(約450〜630円)の賃金で作業し、職の確保にもなります。元傭兵(ようへい)もゴロゴロいます。『湾岸戦争も戦った』と言うから『米軍相手か』と聞くと『米軍に雇われてた』とかね。思想は関係ない。家族が飢えれば父親は命をかけて出稼ぎします」

 「最近は、JICA(国際協力機構)の協力も得て事業を進めていますが、基本は日本での募金だけが頼り。これまで30億円に迫る浄財を得て、数十万人が故郷に戻れました。欧米の支援はその何万倍にもなるのに、混乱が収まる気配はない。これが現実なのです」

    ■    ■

 ――現地の治安は?

 「私たちが活動しているアフガン東部は、旧ソ連が侵攻したアフガン戦争や、国民の1割にあたる200万人が死んだとされる内戦のころより悪い。この30年で最悪です。かつて危険地帯は点でしたが、今は面に広がった。地元の人ですら、怖くて移動できないと言います。ただ、我々が灌漑し、農地が戻った地域は安全です」

 ――反政府勢力タリバーンが勢いを盛り返しているようです。

 「タリバーンは海外からは悪の権化のように言われますが、地元の受け止めはかなり違う。内戦の頃、各地に割拠していた軍閥は暴力で地域を支配し、賄賂は取り放題。それを宗教的に厳格なタリバーンが押さえ、住民は当時、大歓迎しました。この国の伝統である地域の長老による自治を大幅に認めた土着性の高い政権でした。そうでなければ、たった1万5千人の兵士で全土を治められない。治安も良く、医療支援が最も円滑に進んだのもタリバーン時代です」

 「欧米などの後押しでできた現政権は、タリバーンに駆逐された軍閥の有力者がたくさんいるから、歓迎されにくい。昼は政府が統治し、夜はタリバーンが支配する地域も多く、誰が味方か敵かさっぱり分からない。さらに(過激派組織)イスラム国(IS)と呼応する武装勢力が勢力を伸ばし、事態を複雑にしています」

 ――アフガンは世界のケシ生産の9割を占めるといわれます。

 「我々の灌漑農地に作付け制限はありませんが、ケシ畑はありません。小麦の100倍の値段で売れますが、ケシがもたらす弊害を知っているから、農民も植えないで済むならそれに越したことはないと思っている。先日、国連の麻薬対策の専門家が『ケシ栽培を止めるのにどんなキャンペーンをしたんだ』と聞くから、『何もしていない。みんなが食えるようにしただけだ』と答えたら、信じられないという顔をしていました」

    ■    ■

 ――戦争と混乱の中でよく約30年も支援を続けられましたね。

 「日本が、日本人が展開しているという信頼が大きいのは間違いありません。アフガンで日露戦争とヒロシマ・ナガサキを知らない人はいません。3度も大英帝国の侵攻をはねのけ、ソ連にも屈さなかったアフガンだから、明治時代にアジアの小国だった日本が大国ロシアに勝った歴史に共鳴し、尊敬してくれる。戦後は、原爆を落とされた廃虚から驚異的な速度で経済大国になりながら、一度も他国に軍事介入をしたことがない姿を称賛する。言ってみれば、憲法9条を具現化してきた国のあり方が信頼の源になっているのです」

 「NGO(非政府組織)にしてもJICAにしても、日本の支援には政治的野心がない。見返りを求めないし、市場開拓の先駆けにもしない。そういう見方が、アフガン社会の隅々に定着しているのです。だから診療所にしろ用水路掘りにしろ、協力してくれる。軍事力が背後にある欧米人が手がけたら、トラブル続きでうまくいかないでしょう」

 ――「平和国家・日本」というブランドの強さですか。

 「その信頼感に助けられて、何度も命拾いをしてきました。診療所を展開していたころも、『日本人が開設する』ことが決め手になり、地元が協力してくれました」

 ――日本では安保法制が転換されました。影響はありますか。

 「アフガン国民は日本の首相の名前も、安保に関する論議も知りません。知っているのは、空爆などでアフガン国民を苦しめ続ける米国に、日本が追随していることだけです。だから、90年代までの圧倒的な親日の雰囲気はなくなりかけている。嫌われるところまではいってないかな。欧米人が街中を歩けば狙撃される可能性があるけれど、日本人はまだ安心。漫画でハートが破れた絵が出てきますが、あれに近いかもしれない。愛するニッポンよ、お前も我々を苦しめる側に回るのか、と」

 ――新法制で自衛隊の駆けつけ警護や後方支援が認められます。

 「日本人が嫌われるところまで行っていない理由の一つは、自衛隊が『軍服姿』を見せていないことが大きい。軍服は軍事力の最も分かりやすい表現ですから。米軍とともに兵士がアフガンに駐留した韓国への嫌悪感は強いですよ」

 「それに、自衛隊にNGOの警護はできません。アフガンでは現地の作業員に『武器を持って集まれ』と号令すれば、すぐに1個中隊ができる。兵農未分離のアフガン社会では、全員が潜在的な準武装勢力です。アフガン人ですら敵と味方が分からないのに、外国の部隊がどうやって敵を見分けるのですか? 机上の空論です」

 「軍隊に守られながら道路工事をしていたトルコやインドの会社は、狙撃されて殉職者を出しました。私たちも残念ながら日本人職員が1人、武装勢力に拉致され凶弾に倒れました。それでも、これまで通り、政治的野心を持たず、見返りを求めず、強大な軍事力に頼らない民生支援に徹する。これが最良の結果を生むと、30年の経験から断言します」

     *

 なかむらてつ 1946年、福岡県生まれ。九州大学医学部卒。84年からパキスタンで医療支援を始め、その後、アフガンで活動。03年にマグサイサイ賞。

 ■平和構築、国連が存在感を 東京大学准教授・東大作さん

 アフガニスタンの治安は最悪の状況です。国連などの情報を総合すると、昨年、アフガン市民の死傷者数が2001年以降で最も多くなったのは確実な情勢です。5年前、政府の支配地域は面積で3割、人口で7割と言われていましたが、さらに減ったでしょう。残りは反政府勢力が支配し、その最大勢力がタリバーンです。

 振り返れば02年ころ、タリバーンが最も弱まった時期に、彼らも政党として取り込む形で国造りをすればよかった。でも、弱体化したタリバーンを取り込む選択肢は当時は考えにくく、イラク戦争などで国際社会の目がアフガンから離れている間に勢力を盛り返しました。最大勢力の彼らを除いた和平交渉は、もはやあり得ません。

 しかし10年以降、タリバーンとの本格交渉が始まる機運が何度か生まれては、和平交渉の責任者が殺されるなどしてしぼむの繰り返しです。アフガンの混乱が続くことが得になる勢力がいるのでしょう。昨年にはアフガン政府、タリバーン、パキスタン、米国、中国がそろって非公式な和平対話を始めた直後に、タリバーンの指導者が実は死亡していたことがリークされ、頓挫しました。

 そんな危険な状況下で、何十万人もの住民を地元に戻す事業を成功させている中村哲さんらの活動は、国家がするレベルの支援で、見事の一言です。ただ、そうした生活面、下からの支援だけでは永続的な平和を構築するのは難しい。加えて、和平合意を結び、停戦を実現し、住民から信頼される政府をつくる、そんなプロセスが同時に成立しないと平和構築はうまくいきません。

 そのためには、公正で信頼に足る仲介者が不可欠です。私の現地調査では、大国より国連組織の方が現地の人々の信頼を得ている。「政治的野心」がない公正な第三者として少なくとも比較優位がある。私がアフガンの国連組織で働いた時も、それを実感しました。

 実力部隊でも、大国の利害が反映されがちな多国籍軍より、国連の平和維持活動(PKO)部隊の方が、国際社会全体の意思とみなされ、現地の拒否感はかなり少ない。国連のブルーヘルメットにはそうした意味があるのです。

 日本は今後も、国連を中心にした平和構築を支援していく方向が望ましいのではないでしょうか。(聞き手はいずれも畑川剛毅)

     *

 ひがしだいさく 1969年生まれ。専門は平和構築。NHKディレクター、国連アフガン支援ミッションなどを経て現職。

    −−「インタビュー:アフガン復興を支える NGO「ペシャワール会」現地代表・中村哲さん」、『朝日新聞』2016年01月30日(土)付。

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2015-04-24

日記:関東大震災時の朝鮮人虐殺のトリガーとなった要因

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関東大震災時の虐殺

 二三(大正一二)年九月一日、関東地方を襲った大地震とそれによる大火災の中で、数多くの朝鮮人が日本の軍隊・警察、さらには日本人自警団などによって虐殺される事態が生じた。「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ」「爆弾を持って襲撃してくる」など根拠のないデマが流れ、それを信じた自警団が避難する朝鮮人を捕まえて殺害したり、警察が保護を名目に朝鮮人を収容しながら、警察署の中で殺害したりする事件が関東地方各地で起こった。殺された朝鮮人の数は司法省の発表では二三三名、朝鮮総督府の資料では八三二名、政治学者吉野作造(一八七八〜一九三三)の調査では二七一一名とされるが、朝鮮人留学生らが「罹災同胞慰問団」の名目で行った調査では六四一五名という数字があげられている。日本政府が朝鮮人虐殺の事実を隠すために調査を妨害したので、正確な死者数は不明だが、千名単位の死者があったことは否定できない。

 なぜこのような事件が起こったのだろうか。いくつかの原因が考えられるが、根本にあるのは朝鮮人を侮蔑する反面で危険な存在として警戒し恐れる意識が日本人の間に広まっていたことである。朝鮮を植民地として支配する中で朝鮮人を劣った存在と見下しながら、一方で三一独立運動とその後の独立運動が展開されると、日本の抵抗する「恐ろしい存在」でもあるとみなすようになった。当時の新聞などでは「不逞鮮人」という用語が使われていた。日本(天皇)から恩恵を施されているにもかかわらず、反抗する怪しからぬ奴らという意味をこめた言葉である。新聞にはしばしば「不逞鮮人」が爆弾を持って日本に潜り込んだという根拠のない記事が掲載された。

 このような意識を強く持っていたのは、警察官や軍人であった。二一年一一月、原敬首相が東京駅で殺された時、犯人を捕まえた刑事が発した言葉は「お前は朝鮮人じゃないか」であった。実際には政治に不満をもつ日本人青年による犯行だったが、警察官は反射的に犯人は朝鮮人と考えたのである。そのような反応を示したのは警察官だけではなかった。原敬首相暗殺を伝えた新聞の号外は「原首相鮮人に刺され/東京駅頭にて昏倒す」「突然群衆の中から〔中略〕二十四五歳の朝鮮人風の一青年現われ出て」(『大阪朝日新聞』二一年一一月四日号外)と書き、恐るべき存在としての朝鮮人イメージを広めている。

 このような風潮の中で、日常生活の場でも日本人が朝鮮人を不穏視するような事件が起こっていた。例えば、震災の五カ月前、横浜市内で人参の行商をしていた朝鮮人が「演説」を始めたところ、野次馬の日本人がそれを「不穏な文句」だとして朝鮮人を袋叩きにし、二人に重傷を負わせる事件があった。新聞記事では、行商人が日本に反抗するような決議文を街頭で読み上げたとなっているが、いかにも不自然な理由づけである。さらには、「上海陰謀団の有力者が横浜に入りいずれかに潜伏中であるので、それらの関係だろうと県高等課では大活躍を開始している」とも付け加えて、独立運動の陰謀をほのめかしている(『東京朝日新聞』二三年三月三一日朝刊)

    −−水野直樹・文京洙『在日朝鮮人 歴史と現在』岩波新書、2015年、18ー21頁。

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2014-12-16

覚え書:「マララさんのノーベル平和賞受賞演説<要旨>」、『朝日新聞』2014年12月11日(木)付。

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マララさんのノーベル平和賞受賞演説<要旨>

2014年12月11日

(写真キャプション)ノルウェー・オスロで10日、ノーベル平和賞のメダルを掲げるマララ・ユスフザイさん=AP

 今年のノーベル平和賞に選ばれたパキスタンのマララ・ユスフザイさん(17)は10日、オスロでの受賞演説で、世界中の子どもたちが質の高い教育を平等に受けられるよう、行動を起こすときだと訴えた。演説の要旨は次の通り。

 Bismillah ir rahman ir rahim. In the name of God, the most merciful, the most beneficent.

 Your Majesties, Your Royal Highnesses, distinguished members of the Norwegian Nobel Committee, dear sisters and brothers, today is a day of great happiness for me. I am humbled that the Nobel Committee has selected me for this precious award.

 Thank you to everyone for your continued support and love. Thank you for the letters and cards that I still receive from all around the world. Your kind and encouraging words strengthen and inspire me.

 I am very proud to be the first Pashtun, the first Pakistani, and the youngest person to receive this award. I am pretty certain that I am also the first recipient of the Nobel Peace Prize who still fights with her younger brothers. I want there to be peace everywhere, but my brothers and I are still working on that.

 I am also honored to receive this award together with Kailash Satyarthi, who has been a champion for children’s rights for a long time. Twice as long, in fact, than I have been alive. I am proud that we can work together and show the world that an Indian and a Pakistani――they can work together and achieve their goals of children’s rights.

 This award is not just for me. It is for those forgotten children who want education. It is for those frightened children who want peace. It is for those voiceless children who want change.

 I am here to stand up for their rights, to raise their voice... it is not time to pity them. It is time to take action so it becomes the last time that we see a child deprived of education.

 I have found that people describe me in many different ways.

 Some people call me the girl who was shot by the Taliban.

 And some, the girl who fought for her rights.

 Some people call me a “Nobel Laureate” now.

 As far as I know, I am just a committed and even stubborn person who wants to see every child getting quality education, who wants to see women having equal rights, and who wants peace in every corner of the world.

 When I was in Swat, which was a place of tourism and beauty, suddenly changed into a place of terrorism. I was just 10. More than 400 schools were destroyed. Women were flogged. People were killed. And ourbeautiful dreams turned into nightmares.

 Education went from being a right to being a crime. Girls were stopped from going to school.

 When my world suddenly changed, my priorities changed too.

 I had two options, one was to remain silent and wait to be killed. And the second was to speak up and then be killed. I chose the second one. I decided to speak up.

 The terrorists tried to stop us and attacked me and my friends who are here today, on our school bus, in 2012. But neither their ideas nor bullets could win.

 We survived. And since that day, our voices have grown louder and louder.

 I tell my story, not because it is unique, but because it is not.

 It is the story of many girls.

 Today, I tell their stories too. I have brought with me some of my sisters, from Pakistan, Nigeria and from Syria, who share this story. My brave sisters, Shazia and Kainat who were also shot that day in our school bus, but they have not stopped learning; and my brave sister, Kainat Somro, who went through severe abuse and extreme violence. Even her brother was killed, but she did not succumb.

 Also, my sisters here, whom I have met during my Malala Fund campaign,my 16−year−old courageous sister, Mezon, From Syria, who now lives in Jordan as a refugee, and she goes from tent to tent encouraging girls and boys to learn.

 And my sister Amina, from the north of Nigeria, where Boko Haram threatens and stalks girls and even kidnaps girls, just for wanting to go to school.

 Many children in Africa do not have access to education because of poverty. And, as I said, we still see girls who have no freedom to go to school, in the north of Nigeria.

 Many children in countries like Pakistan and India, as Kailash Satyarthi mentioned, many children, especially in India and Pakistan, are deprived of their right to education because of social taboos, or they have been forced into child marriage or into child labor.

 One of my very good school friends, the same age as me, who has always been a bold and confident girl, dreamed of becoming a doctor. But her dream remained a dream. At the age of 12, she was forced to get married and then soon she had a son, she had a child, when she herself was a child, only 14. I know that she could have been a very good doctor, but she couldn’t, because she was a girl.

 Her story is why I dedicate the Nobel Peace Prize money to the Malala Fund, to help give girls quality education everywhere, anywhere, in the world, and to raise their voices. The first place this funding will go to is where my heart is, to build schools in Pakistan, especially in my home of Swat and Shangla.

 In my own village there is still no secondary school for girls. And it is my wish and my commitment, and now my challenge, to build one, so that my friends and my sisters can go there to school and get quality education and they get this opportunity to fulfill their dreams.

 It is not time to tell the world leaders to realize how important education is――they already know it! Their own children are in good schools. Now it is time to call them to take action, for the rest of the world’s children. We ask the world leaders to unite and make education their top priority.

 Dear sisters and brothers, the so−called world of adults may understand it, but we children don’t. Why is it that countries which we call “strong” are so powerful in creating wars but are so weak in bringing peace? Why is it that giving guns is so easy but giving books is so hard? Why is it that making tanks is so easy, but building schools is so hard?

 We are living in the modern age, and we believe that nothing is impossible.We have reached the Moon, 45years ago, and maybe we will soon land on Mars. Then, in the 21st century, we must be able to give every child quality education.

 Dear sisters and brothers, dear fellow children, we must work... and not wait. Not just the politicians and the world leaders, we all need to contribute. Me, you, we, it is our duty.

 Let us become the first generation to decide to be the last that see empty classrooms, lost childhoods, wasted potentials.

 Let this be the last time that a girl or a boy spends their childhood in a factory.

 Let this be the last time that a girl is forced into early child marriage.

 Let this be the last time that a child loses their life in war.

 Let this be the last time that we see a child out of school.

 Let this end with us.

 Let’s begin this ending.

 Together, today, right here, right now, let’s begin this ending now.

 Thank you so much. Thank you.

     ◇

 慈悲あまねく慈愛深きアラーの御名において。

 国王、王妃両陛下、皇太子、皇太子妃両殿下並びにノルウェー・ノーベル賞委員会の皆様、親愛なる姉妹、兄弟たち、今日は私にとって素晴らしく幸せな日です。恐れ多いことに、ノーベル賞委員会は私をこの重要な賞に選んでくださいました。

 みなさんの絶え間ない支援と愛に感謝しています。今でも世界中から手紙やカードを届けてくださることに、お礼を申し上げます。みなさんの優しい励ましの言葉に、私は元気づけられ、刺激を受けています。

 最初のパシュトゥン人、パキスタン人として、そして最年少でこの賞をいただくことをとても誇りに思います。年下の弟たちといまだにけんかをしているノーベル平和賞の受賞者も、私が初めてだと確信しています。世界中が平和になってほしいのですが、私と弟たちに平和が訪れるのはまだ先になりそうです。

 また、長年、子どもの権利を守り続けてきたカイラシュ・サティヤルティさんとともに受賞できることを光栄に思います。実際、私が生きてきた期間の2倍もの時間を、この問題に注いでこられたのです。私たちがともに活動し、インド人とパキスタン人がともに子どもの権利という目標を達成することができると世界に示せることを誇りに思います。

 今回の賞は私だけのものではありません。教育を望みながら忘れ去られたままの子どもたち、平和を望みながら脅かされている子どもたち、変化を求めながら声を上げられない子どもたちへの賞なのです。

 私は彼らの権利を守るため、彼らの声を届けるために、ここに来ました。今は、彼らを哀れむときではありません。教育の機会を奪われた子どもたちを目にしなくなるよう、行動を起こすときです。

 人々は私をいろんなふうに呼ぶのだと知りました。

 ある人は、タリバーンに撃たれた少女と。

 ある人は、自分の権利のために闘う少女と。

 今は、「ノーベル賞受賞者」とも呼ばれます。

 私が知る限り、私は、全ての子どもたちが質の高い教育を受けられることを望み、女性が平等な権利を持つことを望み、そして世界の隅々までが平和であることを願う、熱心で頑固な人間でしかありません。

 観光と美の地だったスワートは突然、テロリズムの地に変わってしまいました。400以上の学校が破壊されました。女性たちはむちで打たれました。人々が殺されました。そして、私たちのすてきな夢は悪夢へと変わったのです。

 教育は「権利」から「犯罪」になりました。女の子たちは学校に行くのを阻まれました。

 ですが、私をとりまく世界が突然変わったとき、私の中の優先順位も変わりました。

 私には二つの選択肢がありました。一つは何も言わずに、殺されるのを待つこと。二つ目は声を上げ、そして殺されること。私は二つ目を選びました。声を上げようと決めたのです。

 2012年、テロリストたちは私たちを止めようとし、バスの中で私と今ここにいる友人を襲いました。しかし、彼らの考えや銃弾が勝利をおさめることはできませんでした。私たちは生き残り、その日から私たちの声は大きくなるばかりです。

 私が自分の身に起こったことをお伝えするのは、珍しい話だからではありません。どこにでもある話だからです。

 これは、多くの女の子たちの物語なのです。

 今日は彼女たちの話もしましょう。私は、パキスタンやナイジェリア、シリアからこの物語を共有する仲間たちを連れてきました。あの日、スワートで一緒に撃たれ、学ぶことをやめずにいる勇敢なシャジアとカイナートも一緒です。さらに、カイナート・ソムロは激しい暴力と虐待を受け、兄弟を殺されましたが、屈することはありませんでした。

 マララ基金の活動を通じて出会い、今では姉妹のような少女たちも一緒にいます。勇敢な16歳のメゾンはシリア出身です。今はヨルダンの難民キャンプで暮らし、少年少女たちの勉強を手助けしながらテントを行き来しています。そして、アミナの出身地であるナイジェリア北部では、(イスラム過激派の)「ボコ・ハラム」が、少女たちが学校に行きたいと望んだというだけで、彼女らにつきまとい、脅し、誘拐しています。

 アフリカの多くの子どもたちは、貧しさのために学校へ行くことができません。申し上げたように、ナイジェリア北部には今も、学校に行く自由がない女の子たちがいます。

 インドやパキスタンのような多くの国で、カイラシュ・サティヤルティさんが言われるように、社会的なタブーのために多くの子どもたちが教育を受ける権利を奪われています。児童労働や女児の児童婚が強制されています。

 私と同い年で、とても仲がいい級友の一人は、いつも勇敢で自信に満ちた女の子で、医者になることを夢見ていました。でも、夢は夢のままです。12歳で結婚を強いられ、すぐに男の子を産みました。たった14歳、まだ彼女自身が子どもでした。彼女なら、とてもいいお医者さんになれたでしょう。でも、なれませんでした。女の子だったからです。

 彼女の話があったから、私はノーベル賞の賞金をマララ基金にささげるのです。マララ基金は、女の子たちがあらゆる場所で質の高い教育を受けられるよう援助し、声をあげるのを助けるものです。基金の最初の使い道は、私が心を残してきた場所パキスタンに、特に故郷のスワートとシャングラに、学校を建てることです。

 私の村には、今も女子のための中学校がありません。私の友だちや姉妹たちが教育を受けることができ、ひいては夢を実現する機会を手に入れることができるように、中学校を建てたい。これが私の願いであり、義務であり、今の挑戦です。

 今は、指導者たちにいかに教育が大切か、わかってもらおうと話すときではありません。彼らはすでにわかっています。彼らの子どもは良い学校に通っているのです。今は彼らに行動を求めるときなのです、世界中の子どもたちのために。

 世界の指導者たちには、団結し、教育を全てに優先するようお願いします。

 親愛なる兄弟、姉妹の皆さん。いわゆる大人の世界の人たちは理解しているのかもしれませんが、私たち子どもにはわかりません。どうして「強い」といわれる国々は戦争を生み出す力がとてもあるのに、平和をもたらすにはとても非力なの? なぜ銃を与えるのはとても簡単なのに、本を与えるのはとても難しいの? 戦車を造るのはとても簡単で、学校を建てるのがとても難しいのはなぜ?

 21世紀の現代に暮らす中で、私たちは皆、不可能なことはないと信じています。45年前に人類は月に到達し、まもなく火星に着陸するでしょう。それならば、この21世紀に、すべての子どもに質の高い教育を与えられなければなりません。

 親愛なる姉妹、兄弟の皆さん、仲間である子供たちのみなさん。私たちは取り組むべきです。待っていてはいけない。政治家や世界の指導者だけでなく、私たち皆が貢献しなくてはなりません。私も、あなたたちも、私たちも。それが私たちの務めなのです。

 私たちは取り組むべきです。待っていてはいけない。

 私の仲間である子どもたちに、世界中で立ち上がってほしい。

 親愛なる姉妹、兄弟の皆さん。「最後」になることを決めた最初の世代になりましょう。

 空っぽの教室、失われた子ども時代、無駄にされた可能性を目にすることを「最後」にすることを決めた、最初の世代になりましょう。

 男の子も女の子も、子ども時代を工場で過ごすのは終わりにしよう。

 少女が児童婚を強いられるのは終わりにしよう。

 罪のない子どもたちが戦争で命を失うのは終わりにしよう。

 教室が空っぽのままなんて終わりにしよう。

 こうしたことは、私たちで最後にしよう。

 この「終わり」を始めましょう。

 そして今すぐにここから、ともに「終わり」を始めましょう。

 ありがとうございました。

    −−「マララさんのノーベル平和賞受賞演説<要旨>」、『朝日新聞』2014年12月11日(木)付。

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わたしはマララ: 教育のために立ち上がり、タリバンに撃たれた少女
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