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2015-02-11

覚え書:「記憶の食:カレー、貧しさもスパイス ひと口でお姫様気分」、『朝日新聞』2015年02月06日(金)付。

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記憶の食:カレー、貧しさもスパイス ひと口でお姫様気分

2015年2月6日

(写真キャプション)淀川近くの城北公園でおにぎりを食べる金啓子さん(右端)や母(隣)たち=1958年、大阪市旭区、金さん提供

 読者の食の思い出をつづる「記憶の食」。今回はカレー特集です。戦後、カレー粉やルーの発売であっという間に子どもたちの人気メニューになったカレー。読者のおいしい記憶には、辛さと隠し味がありました。

 そのカレーライスを食べたとき、小学1年生の女の子はお姫様になった気分がした。

 1957年初夏のことだった。大阪市旭区の淀川近く。長屋に暮らしていた金啓子さん(64)は小学校に慣れてきたころ、クラスメートの女の子のうちに遊びにいった。

 れんが塀の続く鐘淵紡績の社宅で、守衛さんがいる門を入ると空き地があった。友だちとバドミントンをした。どういうわけか覚えていないが夕飯をごちそうになった。

 白く丸いお皿に盛られたカレーライス。目にも鮮やかなグリーンピースが3粒のっている。添えられたスプーンで1口、2口。ジャガイモニンジンがたっぷり入って、甘口だった。

 「わー、おしゃれ〜と思って。ただただ驚きました」

     *

 友だちの祖母が自宅まで送ってくれた。歩いて10分とかからない。駄菓子屋を通って暗くじめじめした路地へ。長屋のあたりは雨ともなればどぶ板が浮き、いつもどこかで夫婦げんかの声がする。

 金さんは一家7人で6畳と4畳半の家に住んでいた。恥ずかしい。そんな思いがこみあげた。足が重くなった。

 家に着くと、土間の流しで母が巻きずしに入れるホウレン草を湯がいていた。裸電球に照らされ、母の顔がぴかっと汗で光った。

 あっ! ごめんなさい。

 自分だけいい思いをして、母に悪いなあ。そう思った。

 金さんのうちは祖父母が20年代に韓国・済州島から日本に来た。母は16歳で結婚し、6人の子を育てた。金さんは2番目で長女。「泣き虫で、いつもおなかをすかせてた」

 カレーは母も作ってくれたけれど、自分の皿に具が一つでも多くと争奪戦のようだった。

 「貧乏でした。でも、真っ正直に生きなさいと母に教えられて育ちました」

 夫や子どもに尽くし、母は4年前に83歳で逝った。(河合真美江)

 ■肉なくてもごちそう

 肉が入っていない。水っぽい。それでもカレー子どもたちのごちそうだった。

 愛知県尾張旭市の吉田三千代さん(65)は小学生の頃母が作ってくれた「チクワ入りカレー」が忘れられない。当時、三重県尾鷲市に住んでいた吉田さんの夕飯は魚料理が多かった。「肉は高かったのでしょう。斜め切りしたチクワだけで、ほかの具材は入ってなかったのでは……」

 カレーを作るのは、いつも煮炊きに活躍する大きなアルミ鍋。食卓にはカレーライスだけ。それでも夕方、カレーの香りが家の中に漂うと、ぜいたくなような、うれしいような気分になった。

 結婚後、吉田さんもチクワカレーを作った。「子どもたちからは“貧乏カレー”と呼ばれて不評でしたが、私にとっては思い出がいっぱい詰まった料理なんです」

 母は3年前に亡くなった。でも、母がカレーを作ってくれたぼこぼこのアルミ鍋は実家にある。鍋をみるたびに、家族で囲んで食べたチクワ入りカレーを思い出す。

     *

 「そのカレーはシャバシャバで具には油揚げタケノコが入っていましたが肉はありませんでした」。こんなお便りをくれたのは香川県丸亀市の佐藤由佳子さん(50)。

 坂出市に住んでいた小学生のころ、夏休みなど長期休みのときは、母と妹と自転車で30分ほどのところにある母の実家によく泊まりに行った。祖父母や母の兄一家が住む古くて大きな家だった。

 カレーは夕食によく出てきたメニューだった。キュウリとジャガイモのポテトサラダつきで。自分で食べたい量をよそって、好きな場所で食べるのが楽しかった。ふだんは小食だった佐藤さんも、いとこと競い合うようにおかわりをした。そんな佐藤さんを母はうれしそうにながめていた。

 肉が苦手だった佐藤さんにとって、家より祖父母の家のカレーのほうがおいしかった。今でも食べてみたいと思う。「でも夫はタケノコ子ども油揚げが嫌いなので作るのはあきらめています」。そう言って苦笑するが、佐藤さんには童心に帰れる1品だ。

 (浅野真)

 ■「赤缶カレー粉」登場、一気に普及

 カレー大衆食堂や家庭でも広く食べられるようになったのは戦後のことだ。1950年にはエスビー食品が家庭用カレー粉としていわゆる「赤缶カレー粉」を発売した。カレー粉と小麦粉を炒めてルーを作り、具材とともに煮込む。その後、即席カレー(ルー)も出回り始め、一般家庭にも普及していった。

 ただ、当時肉はまだ高級品。「具はほとんどなかった」「アサリが具でした」という投書も寄せられた。

 60年代後半には、レトルトカレーも登場し、さらに身近な食べ物になった。エスビー食品の試算によると、日本人は外食を含めて1年間に約78回カレーを食べているという。不動の国民食になったが、子どもにとっては今でも「ときめき」の料理だ。

 ■「料理と火」思い出募集

 鍋料理、ストーブや囲炉裏など「料理と火」に関する思い出を募集します。ふるさと鍋料理、我が家のオリジナル鍋。かつてストーブや七輪も調理に活躍しました。それぞれエピソードとともにお寄せください。お名前、住所、年齢、電話番号を書いて〒104・8011(住所不要)朝日新聞文化くらし報道部「記憶の食」係。ファクスは03・5540・7354、メールはseikatsu@asahi.comへ。

    −−「記憶の食:カレー、貧しさもスパイス ひと口でお姫様気分」、『朝日新聞2015年02月06日(金)付。

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2014-11-30

日記:キャンパスの紅葉 2014年。

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Xマウントのカメラを使ってみたく、ミラーレス一眼レフをエントリーモデルですが富士フィルムのX−A1に更新してみました。標準のズームレンズ(16−50mm f/3.5−5.6)の出来合いが抜群と聞いておりましたが、非常によく写ります。

近いうちに単焦点の広角を使ってみたいと思いますが、非常にすばらしいカメラですね。

まずはキャンパスの紅葉で試し撮り。 






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2014-06-09

書評:河添房江『唐物の文化史 舶来品からみた日本』岩波新書、2014年。

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河添房江『唐物の文化史 舶来品からみた日本』岩波新書、読了。唐物とはもと中国からの舶来品を指す言葉で、転じて広く異国からもたらされた品を指す。本書は、古代から現代まで、唐物というモノを通して日本文化の変遷を問う一冊。日本人はなぜ舶来品が好きなのか−−その情景の軌跡を追う秀逸な精神史。

古代から近世まで、唐物が日本文化にどのように息づいているのか。本書は美術品や歴史資料だけでなく文学作品からも浮かび上がらせる。唐物とは権威と富の象徴でもあるから、聖武天皇から吉宗まで、その時代のキーパーソンと「モノ」との関わりにもスポットを当てる。

唐物は天皇を中心とした王権に吸収されそこから臣下へ再分配される構造で、珍奇なモノに留まらず書籍や仏典をはじめとする文物による異文化摂取として始まる。摂取の過程では、日本で模倣された唐物も生まれるから、日本文化は舶来文化吸収の歴史とも言えよう。

例えば、遣唐使廃止は国風文化を創造したと教科書は書くが、その実像はどうか。危険で負担の大きい朝貢使は廃止されたが、大陸からの文物や情報の流入が確保された故の廃止であり、富の集中した平安京は、唐物を拒絶したよりも、ブランド品としてむしろ一層欲求している。

平安の貴族はステイタスシンボルとして、武家の時代には、政治的には文化装置として定着する。南蛮貿易とその終焉は、唐物屋を生み出し、庶民と唐物をつなぐ架け橋となる。洋装全てを扱った唐物屋は明治末期に、分業して専門店化する。これが唐物屋の終焉だ。

河添房江『唐物の文化史』岩波新書。舶来品をつねに受け入れつつ形成されたのが日本文化の歴史の特徴であるとすれば、他者と隔絶された状態で純粋培養される「文化」とは神話に過ぎないかも知れない。モノを巡るスリリングな考察は私たちの認識を更新するだろう。



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 唐風の文化の受容によって和の文化が成熟すると、漢と和を対比する意識が生まれるが、その一方、和漢融合は絶え間なくおこなわれてきたのではないか。和の文化が師絵熟していけば、おのずといつの時代にも和漢並立と和漢融合は同時に起こりうるし、平安時代も珠光以降の時代もその歴史を繰り返してきたと考えられる。唐物をめぐる諸事象のドラマは、まさにそのような日本文化の歴史をも照らし返していると思われるのである。

    −−河添房江『唐物の文化史 舶来品からみた日本』岩波新書、2014年、224頁。

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2014-04-02

日記:2014年の夜桜

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「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」とは『古今和歌集』に在原業平が寄せた秀句。

まだ夜風はひんやりとしておりますが、夜桜がきれいに咲いておりましたので記録として残しておきます。








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