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2012-11-11

覚え書:「著者来店 『フクシマの正義』=開沼博さん」、『読売新聞』2012年11月04日(日)付。


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著者来店 「フクシマの正義」=開沼博さん

現場を見つめ、考える

 東日本大震災前に福島を歩き、地方と中央の関係から原発を考察した『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』で毎日出版文化賞を受賞した1984年生まれの社会学者である。本作は、震災後に発表した評論などをまとめ、原発事故後の正義を考え直した。

 福島県いわき市出身。今も週の半分をフクシマで過ごす研究者の目には、震災後の原発議論も沖縄基地問題と同じく、知識人にとっての「流行のネタ」に映る。ネタは消費され、忘却される。その繰り返しの帰結が原発事故だと指摘。そして、「危険な福島にとどまるのはおかしい」といった「善意」や、「美しき東北の善良な人々」といった「支配するまなざし」の欺まん性を問うた。『「フクシマ」論』をわかりやすく解説した作品といえる。

 高校時代から研究者をこころざしたが、狭き門だと現実をシビアに見つめた。「就職できるのは40歳近く」と、東大学部生時代から実話誌などを舞台にライターとして働き、“手に職”をつけた。社会や現場に出る姿勢は、東大博士課程に在籍し、福島大特認研究員となった今もそのまま。偽装結婚などの現場を取材し、ネットや雑誌に記事を書き続ける。「社会の周縁を捉えないと、根本から社会を見つめ直すことはできない。それは、中央と地方の関係にもつながるし、原発問題そのものと言える」

 これからも知に足をつけて考え、若いうちは現場感のある仕事をやりつくすつもりだ。「善意だけでは大きな理想を実現できない。言葉やイメージからこぼれ落ちた『もやもや』をいかに言葉にするかが研究者の仕事です」(幻冬舎、1800円)  小林佑基

    −−「著者来店 『フクシマの正義』=開沼博さん」、『読売新聞』2012年11月04日(日)付。

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2012-08-21

覚え書:「今週の本棚:松原隆一郎・評 『それをお金で買いますか』=マイケル・サンデル著」、『毎日新聞』2012年08月19日(日)付。

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今週の本棚:松原隆一郎・評 『それをお金で買いますか』=マイケル・サンデル

 (早川書房・2200円)

 ◇驚くべき「市場化」の実態を暴く

 一昨年の夏、フォークの岡林信康のコンサートに行った時、曲の合間に岡林がこんなことを言った。「僕ら若い頃は『渋公渋谷公会堂)』っていえば憧れたけどねぇ。それがいまやC.C.Lemonホール。力が入らんで……」。公会堂の命名権渋谷区は市場化し、期間限定で売却していたのだ(現在は期限切れで「渋谷公会堂」に戻った)。市場化の波が公共ホールの名前にまで押し寄せているのだ。

 本書はこうした市場化が近年のアメリカを覆い尽くす様を暴き、考察している。それがアメリカだけの問題でないことは、大阪の文化の象徴とも言われる中之島図書館を廃止し、別の事業で活用するという府知事案が報じられた件でも明らかだろう。「あそこで事業をしたいという公募事業者はものすごい数がいるはずだ」というわけだ。

 これには抗議が殺到したといい、岡林のみならず市場化には違和感が寄せられているのだが、不思議なことに市場化を是とする傾向そのものは止まらない。リーマン・ショックでは世界中で納税者負担による救済措置が施されたというのに、政府への攻撃と市場の導入を唱えるアメリカティーパーティー運動や日本の橋下ブームが勢いを増している。これはいったいどういうことか。

 ハーバード大学での「正義論」講義で一躍有名になった著者は、本書でも驚くべき事例を列挙する。ひとつは、「行列への割り込み」。金を払えば高速道路の速い側の車線に割り込める「レクサスレーン」や当日予約で治療を受けられる「コンシェルジュドクター」で、これらはダフ屋や代理の並び屋に類する問題事例である。

 二つが、報酬を与えて促す「インセンティブ」。二酸化炭素の排出権、クロサイを撃つ権利、果ては子どもの読書にも報酬を与えることで、環境やクロサイの生存数、学習時間を改善する試みである。

 三つが生命保険生保に疑問を持つ人は少なかろうが、死後に受け取る支払いを投資家に売却し、生前に当人が受け取って余生に充てる「バイアティカル」はどうだろう? ここで投資家は「早い死の訪れ」を期待しているが、不謹慎ではないか。また今年死ぬ有名人を当てる「デスプール」なる賭けは? そして最後が「命名権」。いまや公会堂のみならずパトカーやトイレ、身体、あげくに「額(ひたい)」までも広告に貸し出されている。

 著者はこの止めがたい「市場化」の波が経済学の思考習慣に由来するとみなして、反論する。経済学は、「市場化」によって財をどれだけ欲しいか金銭で表明され大きい順に採用されると、そうでない場合よりも社会的に効用が増すと主張する。欲しくないプレゼントよりもお金をあげた方がマシ、というわけだ。だが支払い能力に差があれば、好きでもない商品が富者に買われている可能性がある(「公正」にもとづく批判)。

 さらに著者が重視するのが、市場化のもたらす「腐敗」だ。人々の公共心が金銭勘定に置き換えられてしまうのだ。献血に報酬を与えると利他心が弱められ、血液提供量は減ってしまう逆効果がみられるという。

 評者としては、行楽地に林立する看板が気になって仕方がない。商業広告から離れて自然を眺めるという人権への侵害かと思えるからだ。似ているのが、小説家が作中で「ブルガリ」の宝飾品に最低12回言及する依頼を受けたというイギリスの例だろうか。イギリスでは読書を冒瀆(ぼうとく)するとして、書評に取り上げないなど対抗措置がとられた。本欄は、どんな方針で対処するのだろうか。(鬼澤忍訳)

    −−「今週の本棚:松原隆一郎・評 『それをお金で買いますか』=マイケル・サンデル著」、『毎日新聞』2012年08月19日(日)付。

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覚え書にコメンタリー残すのもナニですが、twitterでも少し言及したので私自身への覚え書として少し残しておきます。

サンデルの日本における不幸は、受容も「ブーム」であり、批判も「ブーム」(とその手法)に対するものというところでしょうか。

特に二者択一的議論に躓きを覚える方は周りにも多いのですが、サンデルの演出というのは、聖賢の思索に耳を傾けつつ今を考えるひとつのヒントにすぎないし、単なる思考実験であるということ。

その意味では、TV『白熱教室』や『これからの「正義」の話をしよう』、近著『それをお金で買いますか』(共に早川書房)にイチャモンをつけるよりも、コミュニタリアンとしての政治哲学に対して向かっていくべきかと思う。

リベラリズムにしてもコミュニタリアニズムにしても、アメリカ公共哲学の基本とは、特定のドグマにひとを当てはめていく古いやり方ではなく、コミュニティ創出の過程で、それを協同しながら措定していくものだから。

その意味では、『リベラリズムと正義の限界』(勁草書房)、『民主政の不満――公共哲学を求めるアメリカ 手続き的共和国憲法』(勁草書房)、……このあたりはがしがし読んでからという気がするのですが……詮無いことか。

別にサンデル主義者ではありませんが、どうもその政治哲学における批判というのはあまり見ないから(涙








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2011-10-18

覚え書:「今週の本棚:海部宣男・評 菊池誠・松永和紀ほか著『もうダマされないための「科学」講義』」、『毎日新聞』2011年10月16日(日)付。

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今週の本棚:海部宣男・評 『もうダマされないための「科学」講義』

菊池誠・松永和紀ほか著

光文社新書・798円

 ◇社会と科学を巡る論点を見極めるには

 私たちの生活は、科学とは表裏一体の関係で結ばれている。人間の社会は科学と技術とそれらを基礎に置いた産業とともに構築されてきたのだから、当然と言えば当然。その絆はさらに加速度的に強まっているが、日本の私たちはあの三月以来特に、それをずっしりと感じている。

 社会と科学に関する出版が続く中で、この本は市民の視点に立ちながらも科学に立脚し、複合的な論点と情報をわかり易く提供している。まず、手っ取り早くメインテーマを紹介しよう。

(1)科学と科学ではないもの

(2)科学の拡大と科学哲学の使い道

(3)報道はどのように科学をゆがめるのか

(4)3・11以降の科学技術コミュニケーションの課題

 「アカデミズムとジャーナリズムのよりよい関係構築を目指す」活動と講演からまとめた本である。ひと味違う足元の確かさは、こうした視点と地道な活動から生まれているのだろう。

 (1)で統計物理学者の菊池氏は、マイナスイオンなどの例を引いて「科学を装うけれど科学ではない」ニセ科学に対する見方を提示する。科学には不確定さも存在するが、それは科学の本質に根ざす当然の性質である。それに付け込んで科学的論証を省略しようとするニセ科学との違いを、どう見分けるか。分子生物学者の片瀬久美子氏も、「付録」で放射線に関するネットなどのアヤシイ情報をまとめている。放射能を無効にするという「EM菌」には驚くが、これらニセ科学が科学らしさを装う理由は、明確だ。社会一般の科学への信頼感を利用した金儲けである。簡単に言えば、詐欺。それで金が儲かるのも、残念だが社会的現実だ。

 いっぽう、科学的考察を度外視して「ゼロ・リスク」を求める傾向も、大きな社会的損失を招き得る。科学ジャーナリストの松永氏は、(3)で現在のシステムの下では遺伝子組み換え食物のリスクは非常に低いという専門研究者の圧倒的意見を紹介する。ところが消費者の強い不安に応えようと安全確認のハードルがむやみに高くなり、結果として育種産業の寡占化を招いてしまった。「ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、正当に怖がるのはなかなかむつかしいことだ」とは浅間山の噴火を実見した寺田寅彦の感想だが、食品問題を取り上げてきた松永氏のこの章、特に主婦の方々に読んでほしい部分である。

 (2)で科学哲学者の伊勢田哲治氏は、旧来の「問題発見型」の科学(モード1科学)に対し、保全生態学などの「問題解決型」のモード2科学や、伝統的経験を中心とした「ローカルな知」にも学ぶことの重要性を説く。(4)では科学技術社会論の平川秀幸氏が、日本の「科学技術コミュニケーション」のあり方を生ぬるいと批判する。科学的に問うことは出来るが科学だけでは解決出来ず、社会倫理や政策が大きな役割を果たす「トランスサイエンス」の考え方が今後の社会で特に重要と、主張している。全体に、科学やその社会との関係について知りたいと思いながらなかなか手が出ないという読者の方々には、好個の一冊と思う。

 最後に、表題に関してひと言。何に「ダマされない」のか? それが大事だ。「あとがき」がいうように科学そのもの、科学を装った言説、あるいは科学者を騙(かた)る者にか? それとも権力やマスメディアにか? 最近ではネットというつかみどころのないものもある。片瀬氏の「付録」はその実例を豊富に引いており、ネットが果たす正負両面の役割の研究も重要と思わせる。

    −−「今週の本棚:海部宣男・評 菊池誠・松永和紀ほか著『もうダマされないための「科学」講義』」、『毎日新聞』2011年10月16日(日)付

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⇒ ココログ版 覚え書:「今週の本棚:海部宣男・評 菊池誠・松永和紀ほか著『もうダマされないための「科学」講義』」、『毎日新聞』2011年10月16日(日)付。: Essais d’herméneutique


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2011-08-08

ただ私は、原始的なものへのノスタルジーなど全然持ちあわせておりません

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 −−私たちは、映像、音響、スペクタクルの社会のなかで生きています。この世界では、退いて反省するための場所はわずかしかありません。もしこのような発展がさらに速度を増せば、私たちの社会はその人間性を損失することになるのでしょうか。

 もちろんそのとおりです。ただ私は、原始的なものへのノスタルジーなど全然持ちあわせておりません。そこに何か人間の可能性があるとしても、その可能性はあくまで語られねばなりません。言語偏重主義という危険はあります、けれども、他者への呼びかけである言語はまた、「自己を疑うこと」の本質的な様態でもあるのです。そして「自己を疑うこと」こそが哲学にとって固有のことがらなのです。ただそうは言っても、私は映像を告発しようというのではありません。私が確認したいのは、オーディオ・ヴィジュアルはその大部分が気晴らしであるという点です。それは、先ほど話したような眠りのなかへ私たちを沈みこませ、そこにとどめておくような一種の夢なのです。

    −−エマニュエル・レヴィナス(合田正人・谷口博史訳)「不眠の効用について(ベルトラン・レヴィヨンとの対話)」、『歴史の不測 付論:自由と命令/超越と高さ』法政大学出版局、1997年、183−184頁。

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すこし疲れているのと、時間がないのでアレですが、素描で恐縮です。

職業運動家式のあらゆる「アンチ・○○・ニズム」の最大の問題点は、現状を批判するけれども、代替え案を提示せず、せいぜいのところ「自然に還れ」式の無責任な「批判のための批判」の垂れ流しに過ぎないのじゃないのかと思うことがよくあります。

たしかにその「アンチ」の対象とすべき「問題」に関しては、そりゃア、「何とかしなきゃまずいべよ」ってことは承知しているのですが、だいたいの問題において、それを「ぶっ壊したら解決する」ってもんでもないのが実情ではないでしょうか。

その意味では、問題のある現状を固陋に守旧しようとする連中、そしてかけ声ばかり大きな連中のスローガンというのは、「眠りのなかへ私たちを沈みこませ、そこにとどめておくような一種の夢」なのかもしれませんね。

どこまで醒めて行動することができるのか……。

試されているような気がします。





⇒ ココログ版 ただ私は、原始的なものへのノスタルジーなど全然持ちあわせておりません: Essais d’herméneutique

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2011-07-20

「現実生活の上で国家的忠誠が決定的に優位に立ったのは、ようやく十九世紀以後」のこと

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 今日世界中において「ネーション」は忠誠市場における、たとえ独占体ではなくも、少なくとも寡占体として公認されている。しかし人類史の長い発展過程から見れば、これはきわめて新しい現象であって、人間の忠誠対象はむしろ宗教上の絶対者(またはその代理人および教理)に、圧倒的な比重で向けられて来たし、今日でも広汎な「発展途上地域」では依然としてそうである。世界史上で、政治的=俗的権力と宗教的=教会的勢力とは忠誠の争奪をめぐっていたるところではげしい葛藤をくりひろげて来た。国家という統治体(ボディ・ポリティック)のモデルを生み出したヨーロッパにおいて、国家と教会との関係がひとり思想史だけでなく、ひろく文化史や政治史を貫通する主要旋律をなして来たのは周知の事柄であり、しかも、現実生活の上で国家的忠誠が決定的に優位に立ったのは、ようやく十九世紀以後のことである。

    −−丸山眞男『忠誠と反逆』筑摩書房、1992年、58−59頁。

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ふつー、人々は、忠誠の対象としての集団を、国家にのみ限定しがちですが、これは「昔からあった」ものではなく、近代において特殊に成立した出来事であることを踏まえておくことは必要でしょう。

忠誠の対象となる集団は、家族、党、企業、宗教(団体)などを考えることができますが、近代の国民国家の成立とは、究極の忠誠対象を国民国家共同体に一元化する過程であったといっても過言ではありません。

もちろん、国民国会以外の組織体が忠誠の対象であったような人びとは存在しましたし、いまなお存在します。しかし、基本的には忠誠とそれに対する見返りという駄化と調教の最も完成された世俗のシステムは国民国家であることは否定できません。

しかし、先に言及したとおり、これは国民国家が「神話」として提示するように「はるか昔からあった伝統」ではありません。

「現実生活の上で国家的忠誠が決定的に優位に立ったのは、ようやく十九世紀以後」のことにすぎません。

その間に創作された神話のみを判断材料として、その国民国家の伝統を「数千年の伝統」などと見てしまうことは、大きな落とし穴。







⇒ ココログ版 「現実生活の上で国家的忠誠が決定的に優位に立ったのは、ようやく十九世紀以後」のこと: Essais d’herméneutique


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