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2011-04-13

【覚え書】アマルティア・センのハンチントン文明観批判

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 サミュエル・ハンチントンアメリカの政治学者。『文明の衝突』の著者〕は、インドを「ヒンドゥー文明」として描きました。これはインドネシアパキスタンを除いて、インドに世界のどこよりも多くのイスラム教徒(約一億二五〇〇万人−−イギリスフランスの全人口を合わせた以上の数)がいる事実をないがしろにしています。また、インドの芸術、音楽、文学、社会を充分に理解しようと思えば、さまざまな共同体間のかかわりを考慮せざるをえませんが、そうした現実にも目をむけてはいません。

 文明の衝突という考え方は、インドの政治形態の特色であるはずの、宗教色を排した概念も見過ごしてしまいます。また、世俗国家の必要性を誰よりも力強く雄弁に訴えたのが、イスラム教徒の君主であるムガル帝国のアクバル帝〔在位、一五五六−一六〇五〕だった、というさほど遠い昔のことではない歴史的事実も顧みていません。

 ハンチントンリベラルな寛容を「西洋」ならではの特徴とみなし、「近代化される以前から、西洋はすでに西洋だった」と主張します。となれば、一六世紀末にアクバル帝が宗教的寛容の必要性を宣言していた時代に、ローマカンポ・デイ・フィオーリ広場でジョルダーノ・ブルーノ〔イタリア宗教家哲学者〕が異端のかどで火あぶりの刑に処せられたことを思い起こす価値はあるかもしれません。文明にもとづく分類は希望のない歴史であるばかりでなく、人々を狭義のカテゴリーに押し込め、「文明ごとに」はっきりと引きさかれた境界線をはさんで対峙させ、それによって世界の政情不安をあおり、一触即発状態に近づけるでしょう。

 今日ではイギリス国内ですら、もともとは「多民族国家イギリス」の多元主義の活動だったものが、イスラム教シク教ヒンドゥー教学校の創設運動(すでに何校か存在)へと変わりつつあります。こうした学校での重点課題は、「自らの文化」について学ぶことにあるとされ、何を信じてどう生きるかについて、充分に学んだうえで選択させる教育の機会は激減しています。若いイギリス人にとって、それも特にインド亜大陸出身者にとって、選択の幅ははるかに狭くなっています。家族の伝統があれば個人の選択は不要という誤った考え方が、アクバル帝が「理性の道」と呼んだものを閉ざしているのです。

 こうした問題は世界に共通しています。

    −−アマルティア・セン(東郷えりか訳)、「人間の安全保障と基礎教育」、『人間の安全保障集英社新書、2006年、32−34頁。

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覚え書。

アマルティア・セン(Amartya Sen,1933−)の文明観と教育の役割。




⇒ ココログ版 【覚え書】アマルティア・センのハンチントン文明観批判: Essais d’herméneutique



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2011-01-08

【覚え書】ハーバーマス:多数決原理が正当化の力を保持しうるためには、いくつかの最低限の前提が満たされていなければならない




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 多数決原理は時間的制約下において相互了解のプロセスを理性的に操作可能なものとするが、その際に本来前提されているもろもろの条件に較べて、実際の政治的決定過程がいかにずれているかは、多数決の社会学が冷ややかに明らかにしてくれているとおりである。それにもかかわらずわれわれは、多数の決定には少数派も尊重してしたがうべきであるという原理を、デモクラシーの王道として守っている。今日においてこの考えを本気でひっくり返そうとする者はいないであろう。だが、多数決原理が正当化の力を保持しうるためには、いくつかの最低限の前提が満たされていなければならない。つまり、生まれにもとづく少数グループ、例えば文化的伝統やアイデンティティの分裂などにもとづく少数グループがいない場合にのみ、多数決は可能なのである。また多数派といえども、取消し不可能な決定をしてはならないのである。多数決原理は、ある特定のコンテクストにおいてのみ人々を納得させうるのである。多数決原理の価値は、時間の足りない中で、また限られた情報に基づいてなされる決定が、ディスクルス(討議)によって得られる意見の一致や、公平なものと予測される妥協という理想的結果からどの程度離れているかという理念を基準に測りうるものでなければならない。

 現在は、市民的不服従がどのような意味で正当であるのかを、一歩も譲らずに明らかにすべき時であろう。これは、市民的不服従への呼びかけとして言っているのではない。このような危険を引き受けるかどうかの決定は一人一人が行うべきことであろう。市民的不服従の「権利」は、もっともな理由からの正当性と合法性のあいだのゆらぎのなかにあるのだ。だが、この市民的不服従を下劣な犯罪であるかのように告発し、追及するような法治国家は、権威主義的リーガリズムの次元に陥ることになる。「法は法だ」「恐喝は恐喝だ」というきまり文句が法律家たちから発せられ、ジャーナリストたちが喧伝し、政治家たちの採用するところとなっているが、これは実際は、あのナチス海軍法務官(*7)の信念、つまり当時合法であったものは今日も正当であるはずだという信念と同じメンタリティに発しているのである。というのも、法治国家における市民的不服従と、不法国家に対する積極的抵抗との関係は、法治国家における権威主義的リーガリズムと、不法国家における疑似合法的な抑圧の関係に対応しているからである。

 一九四五年直後ならばおそらく誰もが認めたであろう当然のことが、今日ではなかなか耳を傾けてもらえないのである。新保守主義の先唱者たちが、過去のポジティヴな面に共鳴するのが国民の義務であると唱え始めて已来、現代における偽りの実定的制度は、過去のそれに歴史的に支えて貰おおうとしているのである。これは足元の大地が揺れ出すにつれて、ますます執拗になんらかの一義的なものにしがみつこうとする精神的態度であり、その点は軍事に関しても、歴史に関しても、またいわずもがなのことだが法律の取扱いに関してもまったく共通している。しかも実定性があいまいで怪しいという点に関しては、使用しないためにできるだけ完璧なものにするとされるあの武器よりも明白な存在を獲得したものはないのに、である。

 両大国が(引用者註……この文章は1984年に著されたもので、この両大国とはアメリカ合衆国ソビエト社会主義共和国連邦のこと)、この核時代においてすら(勝てる戦争)という一義性に戻ろうとしているのが本当だとするなら、安全保障というこのユートピアには、「闘うデモクラシー」(*8)についてなされる誤解と同じものが見られることになる。つまり、「闘うデモクラシー」を法実証主義的に誤解すると、市民的不服従が持つあいまいさをきれいさっぱりぬぐい去って一義性を得ようとすることになるが、こうした思考構造が、安全保障ユートピアにも繰り返し現れていると言える。権威主義的リーガリズムは、一義的ならざる、あいまいなものが持つあの人間的実質を、民主主義法治国家がまさにこうした実質によって滋養を得ている当の局面において、否定しているのである。

(*7)バーデン=ヴェルテンブルク州の元首相フィルビンガー(キリスト教民主同盟)を指す。フィルビンガーは、その穏かな風貌と言辞で州民のあいだで比較的信頼を集めていたが、こともあろうにその彼が、敗戦直後、つまり武装解体寸前のドイツ海軍にあって、脱走し逮捕された若い兵士に殆ど即決裁判死刑判決を下し、執行させたことが二十数年たって発覚し(一九七八年)、辞職を余儀なくされた。辞職間際に彼が言った捨て科白「当時合法であったものは、今日でも正当であるはずだ」は、旧世代のリーガル・マインドの典型とされ、広く引用された。

(*8)ヴァイマール民主制の崩壊への苦い反省から、民主主義を破壊するものに対しては「民主的」ではあり得ないとして、危険を「芽のうちに摘み取る」「守りの強い」「闘う」民主主義という標語が戦後唱えられ始めたのだが、次第に共産主義批判、テロリズム追及と結びついて多用されるに至った。平和運動にあっても、それを批判する保守の側が好む表現となった。こうした誤用のうちにハーバーマスは、権威主義的リーガリズムと同じものを感じとっているわけであろう。彼から見れば市民的不服従こそ「闘う民主主義」の実践のひとつであるということにもなろうか。

    −−ユルゲン・ハーバーマス三島憲一訳)「核時代の市民的不服従 −−国家の正当性を問う」、『近代 未完のプロジェクト』岩波書店、2000年。

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⇒ 画像付版 【覚え書】ハーバーマス:多数決原理が正当化の力を保持しうるためには、いくつかの最低限の前提が満たされていなければならない: Essais d’herméneutique




2010-12-13

21世紀を生きるひとびとのマニフェスト:ポパーの寛容論






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VI

ですから、こんにちでも「わたくしは、自分が何も知らないということ、そしてそのことをほとんど知っていないということを知っている」というソクラテス的洞察がきわめて実際的である−−おそらくソクラテスの時代よりもはるかに実際的である−−ことを示す四つの理由が存在します。またわれわれは寛容を養護するために、この洞察から、エラスムス、モンテーニュ、ヴォルテールそしてのちにはレッシングが引き出した倫理的帰結を引き出す根拠をもっています。そしてさらに、それ以上の帰結を引き出す根拠ももっています。あらゆる合理的討論、つまり、真理探求に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、倫理的な原則です。そのような原則を三つ述べておきましょう。

 一、可謬性の原則。おそらくわたしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。

 二、合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。

 三、真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。

 これら三つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を含意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探求のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が含意を導かないときでさえ、討論から多くのことを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。

 ですから、自然科学の基礎にあるのは倫理的な原則です。根本的な規制原理としての真理の理念は、そのような倫理的原則です。

 真理探求および真理への接近という理念は、さらにそれに付け加えられるべき倫理的原則です、知的正直さの理念、そして、われわれが自己批判的な態度と寛容へと導いていく可謬性の理念もまたそうです。

 われわれが倫理の領域でも学びうるということ、これもまた非常に重要な点です。

VII

わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。

 わたくしは、みなさんに、ひとつの新しい職業倫理を表すいくつかの原則、つまり、寛容と知的正直さの理念とに堅く結びついている原則を提出しておこうと思います。

 そのために、最初に古い職業倫理の特徴を述べ、そしておそらくは少しばかり戯画化しておくことになるでしょう。といいますのも、古い職業倫理をわたくしの提案する新しい職業倫理と比較するためです。

 両者、つまり、古い職業倫理と新しい職業倫理の基礎にあるのは、明らかに、真理、合理性そして知的責任の理念です。しかしながら、古い職業倫理が基礎をおいているのは、個人的な知および確実な知の理念であり、したがって権威の理念です。それに対して、新しい職業倫理が基礎をおいているのは、客観的知および不確実な知の理念です。これによって、基礎にある思考様式も、したがってまた、真理、合理性そして知的正直さと責任の理念の役割も根本的に変化しました。

 古い理想は、真理と確実性を所有し、そして可能とあれば、論理的証明によって真理を確実なものにするということでした。

 このこんにちでも依然として広範に受け入れられている理想には、賢者という個人的理想−−もちろん、ソクラテス的意味においてではなく、ひとつの権威である知者、つまり、同時に王として支配する者でもある哲学者というプラトン的理想−−が対応しています。

 知識人にとっての古い命令は、権威たれ、この領域における一切を知れ、というものです。

 あなたがひとたび権威として承認されたなら、あなたの権威は同僚によって守られるであろうし、またあなたは、もちろん同僚の権威を守らなければならないというのです。

 わたくしが叙述している古い倫理は誤りを犯すことを禁じています。誤りは絶対に許されないのです。そこから、誤りは誤りとして承認されないことになります。この古い職業倫理が非寛容であることは強調するまでもありません。そして、それはまたいつでも知的に不正直でした。それはとりわけ医学においてそうなのですが、権威を保護するためにあやまちのもみ消しを招くのです。

VIII

ですから、わたくしは、とりわけ、自然科学者のために、しかし、自然科学者のためにのみということではありませんが、新しい職業倫理を提案したいと思います。わたくしは、その倫理を以下の一二の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。

 一、われわれの客観的な推測知は、いつでもひとりの人間が修得できるところをはるかに超えでている。それゆえいかなる権威も存在しない。このことは専門領域においてもあてはまる。

 二、すべての誤りを避けることは、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、不可能である。誤りはあらゆる科学者によってたえず犯されている。誤りは避けることができ、したがって避けることが義務であるという古い理念は修正されねばならない。この理念自身が誤っている。

 三、もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何びとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。直感によって導かれる創造的な科学者にとっても、それはうまくいくわけではない。直感はわれわれを誤った方向に導くこともある。

 四、もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。それゆえ、そうした誤りを探求することが科学者の特殊な課題となる。よく確証された理論、あるいはよく利用されてきた実際的な手続きのうちにも誤りがあるという観察は、重要な発見である。

 五、それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない。われわれの実際上の倫理改革が始まるのはここにおいてである。なぜなら古い職業倫理の態度は、われわれの誤りをもみ消し、隠蔽し、できるだけ速やかに忘却させるものであるからである。

 六、新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれはまさに自らの誤りから学ばねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。

 七、それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。

 八、それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる。

 九、われわれは、誤りから学ばなければならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、感謝の念をもって受け入れることを学ばなければならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを起こしたことがあることをいつでも思い出すべきである。またわれわれは最大級の科学者でさえ誤りを犯したことを思い出すべきである。もちろん、わたくしは、われわれの誤りは通常は許されると言っているのではない。われわれは気をゆるめてはならないということである。しかし、繰り返し誤りを犯すことは人間には避けがたい。

 一〇、誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。

 一一、われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし他者による批判が必要なことを学ばなければならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。

 一二、合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。

 わたくしは、みなさん方と以上に述べたようなことがらを提案として考察してくださるようお願いします。わたくしの提案は、倫理の領域においても討論可能で改善可能な提案がなされうることを示す一助となるべきものです。

    −−カール・R・ポパー(小河原誠訳)「寛容と知的責任(クセノファネスとヴォルテールからとられた)」、小河原誠・蔭山泰之訳『よりよき世界を求めて』未來社、1995年、315−321頁。

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入力したら息絶えた。

スマソ。

今日はねまふ。

コメンタリーは後日以降で。

※そのまえにさえずるとはおもいますが・・・苦笑。


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2010-12-04

トインビー「一歴史家の宗教観」 宗教間対話基礎論 


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 今日われわれをとりまいている世界においては、異なった現存宗教の帰依者は相手の宗教的遺産を容認し、尊重し、敬意を表するだけの用意を、従来にもましてもたねばならない。

    −−トインビー(深瀬基寛訳)「一歴史家の宗教観」、『トインビー著作集4』社会思想社、1967年。

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文化や文明の基盤には必ず宗教が存在する。ゆえに宗教間の対話こそ相互理解の原動力となるはず。

ではその出発点をどこにおく必要があるのか。

トインビー(Arnold Joseph Toynbee,1889−1975)の言葉に一つのヒントが存在すると思われます。

尊重し合う態度があれば、競争する性質というものも、当然、良い形で克服できるはずなのですが……。


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トインビー『交遊録』(オックスフォード大学出版局、1968年) 人間であるということをどのように学ぶのか


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 私の経験では、伝統的な偏見を徐々になくしてゆくのは、個人的なつきあいであった。どんな宗教、国籍、あるいは人種の人とでも、その人と個人的に付き合えば、かならずその人が自分と同じ人間であることがわかる。

    −−トインビー(長谷川松治訳)『交遊録』オックスフォード大学出版局、1986年。

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2010-12-02

「宗教社会学は、どの分野の社会学でもそうであるように、科学であろうとしている」 B・ウィルソン 宗教社会学 







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宗教社会学は、どの分野の社会学でもそうであるように、科学であろうとしている。この点に関して、宗教社会学はいったい何を探求しようとしているのか、そして宗教社会学で探求可能なことがらの背後には何があるのか、ということを認識することが重要になる。

 第一の点についていえば、宗教社会学はその出発点として、ある宗教運動、または、あるひとびとの宗教的性質を系統的に記述する。信条に関する陳述、儀礼に関する諸規則、そしてそれらを正当化する根拠等はすべて基礎的なデータとして、すなわち、現前の現象として取り扱われる。宗教社会学は、この現前の現象として観察されたレベルから出発しなければならない。社会学者は、その信条の「真偽」の検証にはかかわらない。また、諸儀礼の効果にも関心を抱かない。また、ある伝統についての多様な解釈について判定を下そうともしない。社会学者はまた、宗教者が認める実践や理念正当化する主張に挑戦することはしない。これらのことがらすべてを、社会学者はデータの一部として受け入れなければならないのである。社会学者は、現れてくる社会的レベルから、たとえばまずはじめに、その宗教を信じる人々自身からもたらされる一軍の情報に基づいて作業を始める。社会学者の関心が、宗教的信念の性質、または宗教的な教説や儀礼の影響力、回心の過程、組織の特性、宗教的実践の規則性、入信によって生ずる諸結果、聖職者と俗信徒との関係、宗教正当化の様式と機能等々、その他何であえれ、社会学者は、個々の宗教者や宗教集団自身の解釈を研究の出発点としてまず採用しなければならない。しかしながら、もちろん社会学者は、ある宗教の教義を信徒と同様に学習しようとはしないし、また、門弟になろうともしない。もしそのようにしたならば、彼は必然的に社会学者でえあることをやめることになろう。しかしそれでも、少なくとも社会学者は、信徒たちが学んでいるものは何であるかを正確に理解しようとすべきであるし、可能な限り彼らが理解していることがらを彼ら自身の術語で理解しようとすべきである。

    −−ブライアン・ウィルソン(中野毅・栗原淑江訳)『宗教社会学 東洋と西洋を比較して』法政大学出版局、2002年、14−15頁。

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発刊時に購入しただいぶ前の著作ですが、宗教社会学の導入としてはこのブライアン・ウィルソン(中野毅・栗原淑江訳)『宗教社会学 東洋と西洋を比較して』(法政大学出版局、2002年)はよくできている。

一流の宗教社会学者ブライアン・ウィルソン(Bryan Ronald Wilson,1926−2004)の手によるものですが、下手な『○○入門』的な、大学の教養科目の教材よりも格段に優れている。

ただ、学部でこれを使うと、

「難しい」

……などと顰蹙をかって、「教材」ではなく、「参考文献」にしなさい!

……などと言われそうですが、とりあえず、マニフェスト的箇所を抜き書きしておきます。



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