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Essais d’herméneutique このページをアンテナに追加 RSSフィード

2017-08-21

日記:「日本教」という寄らば大樹の陰、宗教はインチキみたいな錯覚に非がってきたのが宗教社会学でいうポストコロニアルの「民衆宗教」というムーブメント

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先日、日本人の宗教観とその負荷を覆す民衆宗教の意義について少々お話をしてきたのだけど、そのお話というのは学術的なお話です。

宗教は「アヘン」という負荷があるにも関わらず同時に「究極的関心事」であるという人間にとって切実的な問題である訳なので、きちんと宗教について学ぶ必要があるわけです。

特にこの国では、宗教が権力によって骨抜きにされた経緯があるので、宗教は「弱いものがすがるもの」みたいな認識がある。それは宗教に対する錯覚であろう。しかし、弱いものがすがって何が悪いのかには答えない「日本教」こそ最大の負荷だがそれは横に置く。

そういう寄らば大樹の陰、宗教はインチキみたいなものに、非がってきたのが宗教社会学でいうポストコロニアルの「民衆宗教」というムーブメントだ。その特徴は、自己認識として「社会的文脈におけるマイノリティーの自覚」、そして「主権領域権力から抑圧された伝統」を持ち、被支配者および被抑圧者の立場に立つ宗教運動を「民衆宗教」と言って良いだろう。

しかしながら、抑圧された結果、国家権力にすり寄り、迎合して存続をはかろうとする宗教運動も歴史上数多くあったのも事実であり、それは国教としてのキリスト教鎮護仏教を引証するまでもなく自明のことだ。そうした事例は、民衆宗教からの逸脱・変容といってよい。

そういう日本宗教史の話なんですが、人生の大先輩といってよい聴講された方から「私は数多くの講演や報告を聞いてきたが、最初から最後まで緊張と共感をもって熱心に聞いた講演は、今回が初めてであった」とお褒めを頂きました。やらんかなですな。




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2017-08-07

日記:核兵器禁止条約に反対した公明党を、核兵器廃絶運動をする創価学会が支援。理想を憧憬し引き裂かれ悩む会員はどれほどいるのだろうか。

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日記:戸田城聖の「宗教界の王者なり」という認識は、国家に認められることによって、それが本物の宗教であることと理解するエセ国教主義とはほど遠い認識ではなかったか - Essais d’herméneutique

日記:おい、「核兵器はサタン」とちゃうんか! 「サタン」を「運ぶ」んか!!! - Essais d’herméneutique


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2017-07-30

日記:佐高信「松本人志と創価学会の親近性」批判

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「松本人志と創価学会の親近性」批判 - Togetter




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2017-05-23

日記:教育基本法の改悪に始まるこの十余年の珍走は、特定秘密保護法、安保法、そして共謀罪によって完結。これで「自由」で「民主」な「公明」正大な平成「維新」のユートピアが完成ですか

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ヘルベルト・ペルモーレあて

[一九一六年末]

 ヘルベルト君、

 きみが手紙をくれたことはとても嬉しかった。

 でもきみの手紙は事物を即物的に伝えているだけで、ぼくらの間柄を考えれば必要になる根本的な前提条件を、無視しかかっている。ぼくの返信はその条件を踏まえていればこそ、見られるとおりのものに、つまりきみが要求すると同時に実行してもいるような種類の即物性にしんそこから異を唱えるものに、なっているわけだ。

 夜のなかを歩みとおすときに助けになるものは橋でも翼でもなく、友の足音だ、ということを、ぼくは身にしみて経験している。ぼくらは夜のさなかにいる。ぼくは、ことばでもって闘争しようとつとめてみて(トーマス・マンが、あの下劣な「戦時下の思想」を公表していたしね)、そのときにわかったのだが、夜に抗して闘争する者は、夜のもっとも深い暗黒をも動かし、夜をも発光させなくてはならぬ。漸進的なこの巨大な努力のなかでは、ことばはひとつの段階にすぎず、そしてそれが最初の段階であるようでは、けっして最終の段階にはなりえない。

 ジュネーヴでのぼくが眼にうかぶ。室内に、トランクの上に腰かけて。ドーラときみがいる。ぼくが主張している、生産的なものは(しかし批評も同様に)あらゆる意味において支持されなければならない、そして精神の生活はもっぱらすべての名とことばと記号でもって探究されなければならない、と。数年来、この夜のさなかから、ヘルダーリンの光がぼくの光明となっている。

 何もかも、批評するには大きすぎる。すべては光をはらむ夜であり、血を流す精神の肉体だ。同時にまた、何もかも、批評するには小さすぎる。何ひとつありはしない。闇、暗黒そのもの、尊厳、だがそれらを考察しようとすれば、眼のまえはぼやけてくる。ぼくらの途上でことばが出現するかぎりで、ぼくらはそれに至純にして至聖の場を用意し、それをぼくらのもとに憩わせようとするだろう。ぼくらはそれを、ぼくらがあたえうるかぎりでもっとも貴重な、究極的な形式におさめて、保存しようとする。芸術、真理、法。たぶんすべてはぼくらの手から奪われるが、そうとしても、形ならぬ批評は奪われまい。これをなしとげるのは言語のわざではなく、各人の頭部をめぐる光輪の、はるかな円環のわざだ。ぼくらの仕事のほうは、言語と出逢うところで問題になる。言語のありかは、生命と密接に一体化しようとする事物、実証的なものだけに限られており、そしてこのものは、批評の光、善悪を判別する光を保持することなく、あらゆる批評的(クリテーイッシュ)なものを、危機(クリージス)を、内部へ、言語の核心のなかへ写し入れている。

 真の批評はその対象に逆らわない。それはある種の化学的物質のように、他の物質を分解しながら破壊せずに、これの内的な性質を解明する、という意味でだけ作用する。こういうしかたで(特異体質者ふうに)精神的な事物に反応する化学的物質が、光だ。この光は言語のなかには現われない。

 精神的事物の批評とは、真と偽との判別である。しかしこれは言語のわざではない。せめて遠まわしに隠れて、ユーモアとなるときのみ、言語は批評的でありうる。そのばあいには、模写されたものが光と接触し、分解する、という特殊な批評の魔術が、そこに現出するのだ。真が残る、灰として。それをぼくらは笑う。あふれるまでに光り輝く者こそが、その光芒でもって、ぼくらが批評と呼ぶあの天上からの曝露をも、やってのけるだろう。まさしく偉大な批評家は、驚異的なまでに真を見ていた。たとえばセルバンテス。

 もはやほとんど批評をほどこす余地がないほどに真を見た大作家のひとりに、スターンがいる。ことばへの畏敬だけでは、まだ批評家は生まれない。対象への畏敬、目だたない真への。たとえばリヒテンベルク。そうなのだ、批評を表出しよう、言語化しようとするならば。これは大人物にだけできることだ。ひとびとは概念を濫用している。レッシングは批評家ではなかった。

 きみに心をこめて挨拶する。

                    ヴァルター

 ぼくの仕事をどれか読む気があるかい? ぼくはつぎの諸論文を書いた。

 古代人の幸福

 ソクラテス

 哀悼劇(トラウアーシュピール)と悲劇(トラゲーデイエ)

 哀悼劇と悲劇における言語の意味

 言語一般および人間の言語について

    ーー『ヴァルター・ベンヤミン著作集14 書簡I 1910ー1928』晶文社、1975年、76-78頁。

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↑ 『公明新聞』2017年05月20日(土)付1面。


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2017-03-08

日記:森友疑獄での公明党の沈黙。いったい何なのか、これは、創価学会史の大きな禍根となる。

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福永 信之 - 森友の幼稚園の教育の在り方については「あってはならないこと」だと考えています。小学校の開校認可を大阪府... | Facebook




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