電車と時間:都市における時間に関して

「時間」に関して、遅刻が確定している電車のなかでちょっと朝思った事があるのだけれど、それはフィッシュマンズの前身のバンドの事でもなく、ハイデガーなどが論じた事で有名な絶対的な生(き)の存在としての時間でもなく、都市における関係としての時間に関して。

大都市での交通手段はもっぱら電車(地下鉄)である。これが「メトロ」と「メトロポリス」という言葉の関係なのだが、そのために例えば毎朝ほぼ同じ時間に家を出ると、ほぼ毎朝同じ人に会う。毎朝定時に電車から降りてきた人々である。これはちょっと面白いなと思う。まちまちの時間に乗車駅に着いてもある一本の同じ電車に乗って同じ駅で降りればそこでその人々たちの時間は揃ってしまうのだ。8分おきに電車が来るならば、人々の8分の誤差が平らにならされるということである。7分前に着いても駆け込んでも、その電車に間に合いさえすれば同じ時間に降車駅ついてしまう。電車なんてなければ、たとえ同じルートをたどったとしても7分間の差ができるのに、電車はそれを全て潰してしまう。また、電車は色々なところから人を乗せて常に同じ所を行ったりきたりしてすることで、本来なら様々な場所からやってきて、様々な道をたどって様々な速度で目的地まで行くはずの人々のルート及び時間を統合してしまっている。ちょっとしたワープみたいなものだと思う。本来はばらばらであった人々が列車という空間の中で時間を共有する。電車が遅れれば遅刻もするし、試験の時間が延びたりする。時間が遅れるという事だと思う。一見ラフでとらえどころの内容に見える都市における群集の活動も、特に朝夕の都市では一定のパルスで行き来する電車に規則的に支配されているのだ。(部分的には)

人が住む社会において時間を支配しているのは時計ではなく、現象、それもより大きな力を持った現象なのだと思う。(例えば人間が束になっても太陽をはじめとする天体の動きをとめる事はできないから、人間は逆に太陽に依存して時間というものを捉えているし、都市に住む個人一人一人には電車のルートや駅の場所の発着時間を変更したり決定したりする力はないから、それに左右されざるを得ない。試験時間の変更を決めるのは主催者だしね。)