高野文子 『るきさん』

るきさん (ちくま文庫)

るきさん (ちくま文庫)

女性が人として描かれない時代というのはまだ20世紀がうら若く希望に満ち溢れていたころのことで、そんなのはとうに昔のことだ。しかし、その後の社会において男性は生産者として、女性は被生産者もとい消費者として描かれることが多いように思う。ドラマの脚本とかは典型例だし、女子はファッション誌を読むものとされてるし。(全く関係ない話だけれども、日本のファッション誌ってなんであんな自信過剰で押しつけがましくてダサいんだろう。雑誌ごとの基準でデザイナー選んでそれぞれのラインを季節ごとに紹介して、各誌なりの解釈を提示して、スナップでストリートとの関係を示しましたけど読者さんはどう考えますかって投げて、それがまたストリートに反映されるっていう双方向の方がおもしろいんじゃないしょうか。結局主要誌ってただのカタログになってるし根拠がないよね。同時代の美術を鑑賞する目が育ってない背景だと思うし、その結実としてきゃりーぱみゅぱみゅがクイァとして西洋で鑑賞されるのを指をくわえてありがたがってる現状があると思います。ま、それはそれで面白いから海外で評価されてるんだろうけど、見世物になってるのに気付いてない動物的な悲しさがあるよね。)

さて、女性が生産者として扱われないことが不当かどうかということはさておき、消費サイドからの経済の観察というのは現在でも主流ではない。経済理論を学ぶ際通常は消費理論から入門するが、これは生産に関する分析のための布石として用いられるにすぎず、実際の消費がどうなっているのかということに対してはかなり無頓着であるように思う。各時代において消費がどうなっていたのかということはデータに残りにくく、無視される理由のうちの一つになっているのだろう。資本主義において株式と情報がセットで公開されている以上家計簿よりも企業の会計簿の方がデータとして残りやすいしアクセスしやすいは当たり前だ。しかし、資料が残っているもの、アクセス可能なものがデータのすべてではない。そんなときに何気ない視線で同時代の雰囲気を反映した文芸作品は貴重な資料になる。

るきさん』は88年から92年にかけて『hanako』に連載された高野文子の作品である。彼女のキャリアの中では今のところ中期の作品といったところだろうか。特筆すべきは連載の開始と終了がちょうどバブルをまたいでいる点である。バブルのさなか、稼ぎもせず、消費もせずにささやかな趣味に生きる「るきさん」とバリバリ働いて流行のブランドものを買いまくる「えっちゃん」という二人の仲良し独身女性が対比されながらも日常を織りなしていく。世代としては団塊よりも少し下の僕の親世代。読書家だけどノンポリの「るきさん」の消費の仕方はミニマルで極めて21世紀的、原発食品添加物を嫌いつつもバンバン遊びまくるちょっぴりファッショナブルサヨク(左翼ではない)な「えっちゃん」は戦後20世紀的なのだけれども、独身女性がきままに生活を送りつつも、携帯電話やパソコンはなかったりして、とてもゆるやかに変化する時代の中に2人はいる。作品は「えっちゃん」からの視点を通してちょっと世間を超越しているように見える古くて新しい「るきさん」を観察するというスタイルが連載ひとケタ台で確立し、その調子で最後まで進んでいく。両者を対比させながらも「えっちゃん」をマジョリティとして設定し、非対称的な関係に持ち込む高野氏の観察眼は素晴らしい。時代は高野氏の暗示どおり、完全にえっちゃん的にもるきさん的にもならずに、えっちゃんがるきさん的な生き方を羨み、無理して真似するというスタイルが定着しているように思う。いいな、いいなと羨みつつも最終的なオチ、ひっそり貯金してイタリアでのんびり生活を始めるというるきさんの最後のオチを実際に追遂できる人が現在どれだけいるだろうか。この先どうなるかはわからないけれども。

高野文子の作品はこれで全部読んだことになるのだが、彼女の描くバイクは最高にかっこいい。自転車屋さんが乗ってる(オイルまみれの自転車屋が乗っているというところが重要なのだ)カブの丸みというかツヤというか、最高。カブの見るまなざしが僕が生まれたころ、昭和と平成の連結部分、成長と維持(停滞だと勘違いされていた)のはざまの雰囲気を21世紀においても実感させてくれる。ネオサザエさん