『トライブクルクル』2話の演出を語る 後編

3.主観化する背景

・主観化する背景
ロングショットが主観化すれば、背景ショットも主観化することがある。たとえば、感情的なシーンでよく見られる「背景にカメラを逃がす」といった演出。そうして映った背景には「状況説明用の背景」以上の意味があるのではないだろうか、ということだ。

上のシーンでは、C-5とC-6の背景ショットが主観化している。一つ手前のC-4でリズムをとり始めるカノンに呼応するかのように、続く背景ショットでは、自販機のランプや発車標がBGMに合わせて点滅するのである。現実ではそんなこと起こり得ないわけだが、アニメではよくある。重要なのは、カノンの「踊りたい」という感情に、続く背景ショットが感化されたということだ。つまり、C-5とC-6の背景はカノンの感情に従属している。C-3のような、ただの背景ではないということだ。


・主観化するカメラワーク
付け加えると、C-4〜C-7においてカメラが動いているという点も感情表現的である。2話ではカメラは闇雲に動かない。カメラが動くのは基本的に「話のムードが変わるとき」か「場面転換・視線誘導のとき」だけである。ここでのカメラワークはむろん前者の場合である。カノンの「踊りたい」という感情・ムードの変化に同調し、PANしている。そういったPANの連鎖は、FIXのときとは異なる統一感あるムードを演出する*1


・感情表現は表情だけじゃない
前章からの話をまとめると、感情表現には色々あるということになる。アップショットだけではない。ロングショットや背景ショット、顔以外のショットも感情表現たりうる。現実では表情が豊かな人は総じて感情表現も豊かに見えたりするものだが、アニメでは少し違う。表情が良く見えないロングショットや表情が映らない背景ショットが人の感情を代弁することがある。2話はそうした点を演出にしっかりと落とし込んでいる。ゆえに、カノンやハネルの感情は鮮明に映る。

演出の着眼点
・ロングショットと同様に、背景ショットも主観化する場合がある
・カメラが動くのは話のムードが変わるとき
・感情表現は顔のアップ以外のショットも併用することで鮮明さを増す

4.ムードメーカー的演出

当然だが、物語には盛り上がる箇所がある。2話もまた多分にもれず、Aパートの終盤に盛り上がるシーンがある。

Aパートの構成は上のようになっているが、そのうち盛り上がるのはScene 8〜Scene 10である。しかし、上の展開だけ読んでも、同じことを繰り返すばかりで、特段何かしているようには見えない。つまり、Scene 10まで基本的にハネルはカノンのことを話し続け(Scene 1, 3, 6, 7, 10)、カノンはダンスのことで悩み続けるだけだ(Scene 4, 5, 9)。しかし、この繰り返しは「葛藤」や「些細な変化」を描くために重要であり、2話の肝である。変化には乏しいが、ムードを盛り上げることでその乏しさに意味を与えたい。



そこでセリフなどの「言語」の代わりに、シチュエーションや演出、音響といった「非言語」が重要となってくる。たとえば「物語的に重要な場所に赴く」といった行為は言葉以上に当事者の心境に影響し、ムードを転換させるトリガーとなることがある。そして、BGMはそうした転換を捕捉し、持続させる。その上で、最終的にムードをピークにまで盛り上げるのがムードメーカーだ。Scene 8がそれである。



Scene 8が描くのは時間経過だ。その中でハネルとカノンはそれぞれ物思いに耽る。情緒的に見せたいシーンだ。そこで非言語の力が大きく作用する。具体的には(1)セリフをいっさい入れず、(2)BGMを流し、(3)ハネルとカノンを「窓際の構図」で交互に映しながら、(4)PANを繰り返し、(5)ディゾルブで繋いでいる。通常とは異なる、ある意味で非日常的な演出。シームレスでムードが統一されていくこのような演出は、まるでハネルとカノンの感情が同期していくかのようだ。そもそも二人はダンサーとして互いのことを常に意識している。シームレスな演出はそんな両者を接近させるかのようにも見える。シナリオ的には時間が経過しただけ。物思いに耽っただけだ。しかし、その「物思い」は非言語を通してより鮮明なものとして物語に落とし込まれる。そのようにして盛り上がりはピークへと到達する。

脚本・演出の着眼点
・「繰り返し」は変化に乏しいが、主体の機微を捉える
・「非言語」はときにムードメーカーとなり、「言語」では困難な表現をカバーする
・連続PANとディゾルブの併用はカット間を限りなくシームレスなものにする

5.横の構図の不自然さ/自然さ

・日常から非日常へ
ムードのピークはBGMとともにScene 10まで継続する。それが変化するのはBGMが止んだときだ。Scene 11、Aパートラスト、物語が転換の兆しを見せる場面である。

BGMが止み、電車が遠くで通過する音が流れる。その環境音はさきほどのムードとは一変して、強烈な日常感を演出する(C-1)。続くカットは交通標識(C-2)。「止まれ/進め」というシンボルがカノンの心境を象徴するとともに、日常に紛れる記号性がカノンを非日常へといざなう。そして、登場するのがマスターT(C-3, 4)。ここまでの段取りは得体の知れない彼を出すためのお膳立てでもあったわけだ。


・横の構図の不自然さ
そして横の構図となる(C-5)。横の構図は平面的で演劇的であるがゆえに、交通標識などと同様に非日常感を演出することがあると前編で述べた *2。マスターTのアップからロングの横の構図への移行。この極端な繋ぎはどこかで見た。そう、前編で触れた「アップからロング」の繋ぎだ。しかし、それだけではない。このシーンでは、「縦の構図」と「横の構図」も混在する。


つまり、ここには「縦/横」と「アップ/ロング」という二つの二項対立がある。いずれにせよ、それらによる極端なカッティングは、与える印象もまた極端で劇的なものとするだろう。「演劇」と「映画」が行き来し、「日常」と「非日常」が行き来し、「感性」と「理性」が行き来するような感覚。それはまるで、カノンの揺れ動く心境と同調するかのようである。



ところで、五十嵐卓哉は横の構図を頻繁に使用する。横の構図では雰囲気が一転する。五十嵐卓哉の場合、横になるときは決まって重要なシーンである。アクションなどの見せ場ではなくとも、そこで交わされた会話には被写体の境遇に迫ったり、機微を捉えるようなニュアンスが含まれる。『トラクル』2話の横の構図も同様に重要なシーンであった。横の構図はここぞというところで使うものなのだ。


・横の構図の自然さ
横の構図において、左右に配置された二者は、最初のうちはまるで対等であるかのように描かれる*3。しかし、展開が進むにつれて、対等でなくなる場合がある。『トラクル』2話では、C-5とC-10はいずれも横の構図だが、位置関係が変化する。つまり、そこで対等性が崩れる。

横の構図は二者が近づいたり、離れたりするのを実直に描く。つまり、二者の距離を実直に描く。縦の構図では幾らでもごまかしが利くようなところが「横」ではその性質上できない。その意味において、横の構図はリアルだといえる。「縦がリアルで日常的、横が非日常的」といった概念は捉え方によっては逆転しうるものなのだ。


2話の場合は、横の構図を通して、マスターTがカノンに近づく。彼はいわば助言者だ。悩みを抱えるカノンに助けの手を差し伸べる。そこでの距離感というのは重要だ。初対面の相手だから、最初のうちは距離がある。カノンは警戒している。しかし、マスターTが一気に距離を詰める。その差は横の構図によってより実直に描かれる。近づいたという事実が強調して描かれる。その接近は強引に見えるが、壁をつくって悩み続けるカノンに対して、その強引さは突破口となる。横の構図は、その強引な接近を演出的に補強する。

演出の着眼点
・横の構図は平面的で演劇的であるがゆえに、不自然で非日常的。
・横の構図には、縦の構図などにはない中立性がある
・横の構図は二者の距離を実直に描く。ゆえにリアル

結言

『トラクル』2話で描かれる葛藤や憂い、それらはセリフだけ書き起こしてみてもややインパクトに欠ける。つまりそこで演出の出番となるわけだが、では演出が具体的に何をしているかというと、たとえば「日常/非日常」のようなギャップを描くのに使われる。色々書いたけれど、2話の魅力はそういった逆張りの上手さにあるのではないかと思う。ただギミックがあるから良いというのではなく、ギミックを逆張り的に差し込むのが良い。ミクロでは逆張りしつつ凹凸を演出し、一方でマクロに見ると段取りがしっかりと組まれている。2話はミクロなギミック、マクロなモチーフ、段取り、そのすべてが上手く噛み合っていたように思うのである。

*1:このように連続PANでムードを固めていく演出家に長濱博史がいる。現在放映中の『蟲師 続章』は音響や作画の質もさることながら、そのPANワークも非常に洗練されたものであると感じている。

*2:たとえば、『少女革命ウテナ』の影絵少女が横の構図だったことを思い出してほしい。

*3:「上手(かみて)」「下手(しもて)」の原則を考慮すると、対等とは言えないかもしれないが……。