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2015-01-30

『四月は君の嘘』13話の演出を語る

脚本:吉岡たかを

絵コンテ演出:倉田綾子

作画監督:野々下いおり、浅賀和行(演奏)、愛敬由紀子(総)


『君嘘』13話はカメラワークでムードを出していくようなところがある。

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最初はカメラを動かさず、ムードが出てくるところでカメラを動かす。そのようにして「静」と「動」のギャップをつくり、エモーショナルなシーンを演出していく。


本エントリではそんなカメラの動/止に着目し、以下3項目に渡ってその演出効果を見ていく。


1. シチュエーションに付けられるカメラワーク

13話における有馬の演奏シーンは前半はFIX優位、後半はPAN優位な構成となっている。

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前半部。この時点では有馬の演奏はまだ堅い。力任せに弾いており、観客の心もつかめずにいる。カメラワークを見ると、カットの大部分をFIXが占めているのがわかる。

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それが後半ではカメラワークが優勢となる。これは有馬の演奏が先ほどとは変化したからだ。PANによって、演奏が淀みなく客席へ響き渡り、観客らが聴き入っている様子を表現しているように見える。


重要なのは、演奏が変わる瞬間を境にFIXとカメラワークの優劣が逆転しているという点だ。つまり「演奏がノってきたら、カメラも一緒に動き出した」ということなのだが、これは感覚的にも馴染みやすいのではないだろうか。ノっている感覚をカメラの動きで表現したというわけだ。


上記のシーンをもう少し詳しく見てみたいと思う。後半部の連続PANには、実はカメラワークの方向にある法則が存在する。どういうことか、以下の図で説明する。

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つまり、上の図ようにカメラは基本的に「ステージから客席へ」向かうのである。その逆「客席からステージへ」カメラがあからさまに動くようなことはない。

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カメラの方向にそのようなルールがあるのは、ひとえに演奏がどこからどこへ伝わるか、その流れをカメラの動きで汲み取ろうとしているからだと思われる。つまり「ステージから客席へ」ということであるが、有馬の演奏が客席にちゃんと届き、聴衆が聴き入っていることを示すために、この向きを統制することは重要なのだろう。これが逆では、観客からステージの有馬へ何か働きかけていることになってしまう。これではシーンの意図としてはアベコベだ。


閑話休題。再び演奏シーンに戻って、カメラワークの構成を追っていこう。

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演奏終盤。当然、カメラワークが優勢。最後は回り込みで大胆に動かしていき、テンションをピークにまで高めていく。

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そして演奏が終了すると、カメラワークがピタっと止まる。このメリハリだ。動かす時は動かす、止める時は止める。徹底している。


こういったカメラとシチュエーションを上手く連動させることで、映像は彩りを増す。特にカメラの動止という差は視覚情報として大きく映ることだろう。だからこそ、そこで描かれるギャップもまた視聴者にクリティカルな効果を与えることになる。


まとめ1

・演奏前半部(演奏ノっていない)…カメラ動かない

・演奏後半部(演奏ノっている)…カメラ動く(カメラの向き:ステージから客席へ)

・演奏終了…カメラ止まる


以上の例は、シチュエーション(演奏がどんな状況かという)に付けられるタイプのカメラワークだったが、カメラワークが威力を発揮するのはそこだけではない。シチュエーション以外にも、たとえば心情に対してカメラが動く場合がある。


2. 心情に付けられるカメラワーク

例えば以下のシーンを見てみよう。演奏を終えた有馬は感極まって紘子と抱擁を交わす。

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そこで有馬は母の愛を思い出し号泣するのだが、このときの心情の変化(高まり)に合わせてカメラも連続的に動き出す(CUT9〜)。つまり、ここでのカメラワークは心情変化に対して付けられたものと解釈することができる。同時にBGMもこの変化を境としてテンションが上がる。カメラワークとBGMで心情の高まりを表現している。

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続くシーンでもカメラはほとんど止まらない。有馬は回想シーンを通じて、母に別れの言葉を述べる。ラストは怒涛のじわTB3連発(CUT4〜6)。そして、有馬の感情が落ち着くのに合わせてカメラの引く速度がスローダウンし、最後「さようなら」の言葉とともに静止する。カメラの動き始めから静止までの一連は、感情の高まりから落ち着きまでの流れと綺麗に一致する。BGMも同時に鳴りやむ。


こういったムードの演出はカメラが止まったままでは出せないものだろう。動かすタイミング・止まるタイミングがずれてもいけない。無論、視線誘導のためだけに動かしているわけではない(視線誘導のためだけならPANやTBがなくても成立する)。感情の動きやムードに合わせて、カメラが動いているように見えるのである。そういったシンクロもまた、感覚的に馴染みやすいものであるように思う。


まとめ2

カメラワークには「シチュエーション」に付けられる場合と「心情」に付けられる場合の2パターンがある(本稿では触れなかったが、視線誘導のみに使われることもある)


3. 一対一対応するトラックアップ(TU)

先にPANの向きについて述べたが、ここではTU/TBのよる効果の違いについて考えてみたいと思う。ここまでTBはたびたび出ているのだが、TUはあまり見られなかったと思う。というのも、TUは使われ方がやや特殊だったためだ。しかし、このTUもまた13話の演出には欠かせない要素の一つである。


ということで、まずはTUとTBを区別するために以下の概念図を用意した。

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アップするかバックするかだけの違いなのだが、そうすることで得られる効果というのは非対称的に違うように思う。つまり、TB被写体から観察者の側へ拡散的に視覚効果が広がるのだが、TUの場合は観察者から被写体へ、一対一対応的に繋がる感覚がある。


これはTUに視線誘導の効果があることとも通じる。TUは「誰・どこを見てほしいか」という作り手側の意図を反映させたり、あるいは登場人物が「今誰・どこを見ているか」というのをクローズアップして伝えるのに好都合な手段だ。こういった視線誘導の効果はTBにはない。TBはあくまでも拡散的に絵の効果を広げていったり、引くことで全景を映していくような場合に使われる。ある一点に収束することがないということだ。


「一点に収束する」、そこにTUにしか出せないニュアンスがある。『君嘘』13話は有馬と母が過去の回想を通して、互いに意志疎通を行う回だ。そこで要所要所でキーとなってくるのは、拡散的なTB表現以上に、たとえば「今誰をみているか」という強固に一対一に収束するTUの表現だったりする。


実際に、有馬親子がTUによって結び付けられるシーンがいくつもある。

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たとえばこのシーン。心象風景の中、有馬は生前の母に視線を向ける。その様子をTUで切り取ることで、有馬の主観ショットとしてみせる。そこで、公生から母への強い意思疎通の効果が見て取れる。

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対する母・早希に関しても、我が子を心から想っている様子をTUで応答してみせる。公生に対してTUすることで、早希の想いが公生に強く向いていることが強調される。収束するTUだからこそ強調されると言うべきか。

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ここは一対一対応ではなく、視線誘導のTUだが、母への強い想いをTUで撮るという点で先の例と共通している。セリフ的にもTUが最適だ。強い想いは拡散させない。TBで撮らない。アップにしていくことで、有馬の強い感情とシンクロさせていく。キーとなるシーンやセリフではTUを使って収束的に見せていく。

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演奏終了後。ここが最後のTUになる。会場を見まわしながら、ある場所にTUで視線を送る有馬。この場所はかつて車椅子の母がいつもいた専用の鑑賞席だ。そこにTUで視線を送るのである。一対一対応の強い想い。しかしいくら強いTUを送り続けても、母はもうそこにはいない。演奏中は常に一緒だった(TUで繋がることができた)母もひとたび演奏が終わればどこにもいないのだ。そのことを有馬は強く実感する。誰もいない場所へTUされることでより強調される。演奏の中で母と出会い、現実に戻って母と別れる。その劇的な過程をTUをフック(目印)として切り取っていく。


実際のカメラワークの構成としては、TUをフックにしつつ、間にはTBやPANを挟み、緩急をつくっている。TBやPANはあらゆるシーンで登場するが、TUはきわめて限定的に使われる。それは使いどころが難しいというのもあるかもしれないが、13話の場合は有馬親子の関係を特別なものとして他とは区別して描きたいという意図があったためであるようにも感じられる。TUを強い感情を示すショットとして使っていたように思うのである。


実際に息子はTUを通して母を見て、母もまたTUを通じて息子を見ていたわけで、この対称な関係は象徴的であり、何にも増して美しい。TUには、母あるいは子への強い想いが託されているように見受けられた。それは拡散するTBではなく、一対一に収束するTUだからこそなせるワザであったように思うのだ。


まとめ3

TU…観察者から被写体へ一対一対応

TB被写体から観察者たちへ拡散

有馬親子の対称的な関係を描く上で、TUによる一対一対応が象徴的に使われていた


◇◇◇


最後にカメラワーク関連でもう二例。

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13話終盤。演奏を終えた有馬に椿たちが駆け寄る場面。屈託のない微笑みを見せる有馬に対して、心がざわつく椿をカメラワークがしっかりと捉えている。椿のカットのみにおいてカメラが動く。有馬のカットでは動かない。つまり、このカメラワークは椿の心情(有馬に対する動揺)に付けたものと見ることができる。このカメラワークがあるからこそ、椿の心情はより鮮明なものとして画面に宿る。


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13話ラストカット。かをりの入院を聞きつけ駆け付ける有馬。両者をTBで撮っていく。TBであるため、両者が離れていくような演出効果も見て取れる。あるいは急な入院に対して、有馬が呆気にとられているようなニュアンスも感じられる。TUにならないのがここでは重要だ。有馬親子とは違う。かをりと有馬、二人の間に何かしらの溝を感じさせる。繋がり切らない感覚。二人がTU的に繋がるためには、「嘘」という名の溝を取り除いてやる必要があるのかもしれない。


いずれにせよ、演出的に重要なのは被写体の心が揺れ動く時、カメラもまた揺れ動いたりする、というところだと思う。カメラの動きやその向き(あるいは速度なども)はただやっているわけではない。シチュエーションや心情に沿うようにしているのである。13話はその点、かなりシステマチックに作り込まれているように見えた。

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