ukparaの思索メモ (つねに未完成) このページをアンテナに追加 RSSフィード

 | 

2007-08-26 アニメモ 「『天元突破グレンラガン』第22話とポスト決断主義」 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

天元突破グレンラガン1 (完全生産限定版) [DVD]

天元突破グレンラガン1 (完全生産限定版) [DVD]


深夜。

部室はすずしい。


その片隅で、Bさんは何か物思いにふけっているようだった。


「Bさん、どうしたんですか?」

B「ああ、ちょっとね。どうなのかなと思っていて。いや、今日の天元突破グレンラガンだよ」

「はあ」

B「あれを、『なんでも合体かよw』とか『ニアはツンデレw』とかで一蹴するのは、たやすい。でもさ、もうちょっとぼくらのためになるヒントを、あの22話から得られないものかな、と思ってさ」

「ヒント、ですか」

B「うん。比較的自由度の高い『想像力』だからこそ含意できる、ヒント。ぼくらがこれからの世界をつくっていくために、有益なヒント、をね、得られないかな、とおもうんだ」

「うーん、何か思い当たるところがあったんですか? 22話に」

B「うん、あったような、なかったような。いまそれを考えてるんだ。ちょっとまだ自分でもよく見いだせてないんだけど、ちょっと聞いてくれるかな」

「はい。今夜はAさんいないですもんね。そいえばAさんどうしたんでしょうね」

B「まだ実家に帰ってるんじゃないかな。ま、あいつのことはいいんだよ」


お、これはAさんとの間になにかあったのか!?wktk


B「だけども、問題は、今日の22話。

グレンラガン、おれから見るとさ、

  • 第1部は、熱血漢の超越性たるアニキが、主人公シモンを導いた時代。70年代まで(宇宙戦艦ヤマトまで)の時代の再演かな。
  • 第2部は、超越性たるアニキを失って、シモンが「超越性なき戦い」と「ひきこもり」との間で揺れる時代。80年代の、超越性(リュウ)を失ったホワイトベース乗組員たちの「超越性なき戦い」。それから、90年代の、同じく超越性の失効した(父が亡き妻の面影にすがっている)シンジの「ひきこもり」。それらを再演していたように思う。
  • 第3部は、そういった80〜90年代的なシモンの生き方が、ロシウの決断主義*1によって否定される。
  • ロシウの決断主義は、もともとは80年代末のシャアの決断主義(地球にすがる者たちの粛清)が元ネタだと思うんだけど、あくまで80〜90年代においては、そういう決断主義は「脇役の主義」であり、主人公(アムロ)はその決断主義を食い止める役柄だったね。でも00年代になると、その決断主義が、脇役ではなく主役に躍り出る。デスノートの夜神月も、コードギアスのルルーシュも、決断主義的に、人類の一部を粛清するわけだ。で、それを食い止めようとするスザクとかは、もはや脇役になってしまっていて、2ちゃんやニコニコ動画では「ウザク」と呼ばれてしまうほどに、ウザがられてしまうことになる。時代の変化だね。
  • さて、ここまでは、これまでのアニメ史の再演であり、それはまた、社会史の再演でもあった。で、重要なのは、ここからなんだよ。
  • ロシウは、シャア(や月、ルルーシュ)のように、人類の一部を粛清する(正確にはロシウの場合は「見捨てる」だけど・・)ことによって、人類社会の再興を図る。で、このままロシウのターンがつづけば、これまでの00年代の想像力(決断主義)と大差なく終わっていたわけだ。
  • でもね、今日の22話で、これまでとは明らかに違う想像力が、これまでの想像力を乗り越えるかたちで、登場したわけだ。今回、ロシウの行動がシャア(決断主義)の(穏やかな)再演であることが、明白に描かれたわけだけど、だからこそ、それに対して、シモンの行動は、シャア=ロシウ(決断主義)との鮮やかな対比のもとで、新しい想像力として、ぼくらの眼に映ったにちがいないんだ。
  • では、その新しい想像力とは、どんな想像力だったのか? そこには、ぼくらにとってのどんなヒントが含意されているのか?
  • この想像力の核心は、合体ではなく(なぜなら合体は第1部、第2部の古い想像力においても使われていた解決策だったから)ニアとの対話にあるんだろう。とくに、「ニアがいまだに、シモンからもらった婚約指輪をはめている」ということ、つまり、「ニアがいまだにシモンを求めている」ということに
  • なぜニアは、いまなおシモンを求めているのか。これが鍵なんだろうね。

ニアは、二つの自分をもっている。これは、現代的な設定だよね。

今日のぼくらは、実名の自分を生きながらも、固定ハンドルネームの自分とか、捨てHNの自分、名無しさんの自分、など、いろんな自分を同時に生きている。そしてそれぞれの自分が、それぞれのデータベースをもち、独立(分立)している。すべての自分を統一する超越的な自分は、ない。どれもが「ほんとうの自分」なのだ。だからこそ、コテハンの自分が実名の自分よりも本当の自分であると思えるときもあれば、名無しさんの自分のほうが本当の自分だと思えるときもある。つまり、それぞれが独立している。これは鈴木謙介さんが、『カーニヴァル化する社会』の126-132ページで、「後期近代の自己像」として指摘していたことだよね。


で、ニアの二つの自分とは、「父(螺旋王)に捨てられてシモンに出会い、シモンと婚約した女性」という自分(自分1)と、「DNAの中に反螺旋因子をもつ反螺旋族(アンチ・スパイラル)の使者」という自分(自分2)。自分1は、他者(シモンたち)との関わりの記憶(データベース)をもち、その記憶に規定された自分。つまり、「過去」という不可逆性(宇野常寛さんのいう「重い現実」)をもつ自分だ。他方、自分2は、たんなるプログラムの発動体であるから、他者との関わりもなく、過去もない。

いまのところ、22話時点では、自分2のほうが、自分1よりも強力に機能している。でも、自分1の機能は、消えたわけではない。ていうか、消せないだろう。脳を完全移植でもしないかぎり、過去(重い現実)は、消せない。これこそが、ニアがいまなお指輪をはめている理由にちがいない。

そして、22話の最後あたりでは、この自分1が、自分2を一瞬押し下げて、「迎えに来てくれるのですか?」と声を上げる。ここに、ぼくたちは、「他者との関わりによって否応なく構築される過去」(時間の不可逆性=重い現実)の可能性を目撃する。

とすれば、今後のグレンラガン(第4部)は、ニアの自分1が自分2に打ち克っていく方向で、進んでいくのだろうね。

それによって、人類(+獣人w)の救済(螺旋族と反螺旋族の共生)がなされるはずだ。

(っていうか、おれ、獣人萌えなんだけどw とくに人間と獣人との共同生活になんともいえない幸福感を感じるw)


となると、グレンラガンの物語から得られるヒントは、つぎのように言語化できるだろう。

「他者との関わりによって否応なく*2構築される過去」(時間の不可逆性=重い現実)こそが、00年代の「超越性の衰退」や「ポストモダン化とIT化による公共性の危機」への、突破口となるだろう、と。


でもねー、そう言語化してしまうと、この前確認した鈴木謙介さんの結論と、たいして変わらないんだよねえ・・。

でも重要なのは、今回の想像力は、鈴木さんの抽象的な結論に、ニアの「自分2に対する、自分1の超越」という具体的な物語を、与えている、ということだよね。

その具体性にこそ、ぼくらは注目していかなくてはならないんじゃないだろうか。

・・とまあ、こういうことを考えたりしてるんだよ」

「ふうーん」

B「分かる?」

「うーん、どうもまだ抽象的すぎて、実感わきません・・」

B「そうかー、、」


いつになくBさんは真剣だった気がする。

そんなにこのグレンラガンとやらは深いアニメなんだろうか。

私にはよくわからない・・。

とりあえず、はやく帰って寝よう。


カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書)

カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書)

ウェブ社会の思想 〈遍在する私〉をどう生きるか (NHKブックス)

ウェブ社会の思想 〈遍在する私〉をどう生きるか (NHKブックス)

S-Fマガジン 2007年 08月号 [雑誌]

S-Fマガジン 2007年 08月号 [雑誌]

政治神学

政治神学

存在の彼方ヘ (講談社学術文庫)

存在の彼方ヘ (講談社学術文庫)



*1:ここでの「決断主義」は、宇野常寛さんの語義ではなく、あくまでシュミットの語義であることに注意。宇野さんの論及する決断主義は、「超越性なき時代には、各個人がそれぞれ、無根拠に、他者に影響を与える決断をするしかない」という意味(諸個人の政治性の自覚化)であり、1940年代のサルトルのアンガージュマン思想と同じ(ただしそれは容易に諸個人の暴力の正当化につながる危険性があり、宇野さんはその危険性を批判しているわけだ)。それに対して、1920年代にシュミットが主張した決断主義は、「直接民主制以外の国家における主権者(統治者)は、無根拠に暴力的決断をするべきだ」という意味(統治者の暴力の正当化→ヒトラー独裁の正当化)。で、シャアも月もルルーシュもロシウも、みな、(草の根で人類をアンガジェする諸個人ではなく)「新しい社会の支配者」になろうとしているため、シュミットの決断主義に近い。なので、ここでの「決断主義」は、シャアに始まる系譜を指し示しているから、シュミットの決断主義のことを意味している。宇野さんの論及する決断主義(サルトル、またその暴力化物)とは、ちょっと違う。詳細はhttp://d.hatena.ne.jp/ukpara/20070829を参照

*2この「否応なく」つまり「前主体的に」「主体性以前に」というのがミソ。この「否応なさ」を、デリダは「約束」と呼び、またレヴィナスは「善」と呼び、「主体的決断」(自己決定)よりも重視したのではなかったか?

BigHopeClasicBigHopeClasic 2007/09/11 03:43 はじめまして。

エントリの趣旨とはややずれるのだろうと思いますし、言葉遊びという批判も有り得るのを覚悟しているのですが、ルルーシュやロシウがシュミットの決断主義に連なるかどうかについては、やや疑問を感じましたので、率直にその部分についてお伺い致したく、コメントいたします。

ルルーシュの決断は一見暴力的であるようでいて、実はそうではないのではないかというのが私の考えです。というのは、ブリタニア帝国のあまりに貧弱なレジティマシーが、逆にルルーシュの「反逆」を反逆ではない正当な政治的行動として根拠を与えているとすることができるのではないかと思えるからです。
クロヴィスの葬儀における皇帝の弔辞を聞く限りにおいて、ブリタニア帝国のレジティマシーは暴力以外にあり得ない。歴史上、いかに暴力がそのレジティマシーの中心を占めた政治勢力であっても、それがいかに稚拙な物語であれ、暴力に代わるレジティマシーを創出したというのに、その点に関してブリタニア帝国はあまりに無邪気に過ぎるように見えます。
この貧弱なレジティマシーのもとにあっては、真にルルーシュが皇帝を上回ったとき、ブリタニア帝国は自らのレジティマシーそのものによってルルーシュを全肯定せざるを得ず、皇帝は卑屈な笑みをうかべてルルーシュの足下に土下座せざるを得ない。そのような政治行動はもはや反逆と呼ぶに値しないのではないでしょうか。ブリタニア帝国そのものがルルーシュに対してその行動の正当性を保障しているのですから。逆に言えば、ルルーシュは所詮皇帝の掌の上の孫悟空でしかなく、到底決断主義の文脈として語るに値しない存在なのではないかと思うのです。むしろ、ユーフェミアとスザクの政治哲学こそが、ブリタニア帝国のレジティマシーを根底から揺るがすものであり、反逆の担い手たる無根拠な暴力的決断存在として語られなければならない。

ロシウについて疑問なのは、彼がやったことは、人間の原罪の具現化とも言うべき螺旋力と、いかに持続可能な方法で付き合うかということですよね。そのために螺旋力を必要とするグレンラガンやガンメンを封印もし、その
似姿として「人の手で」グラパールを作った。ロシウの周りに螺旋力を無批判に肯定する人間ばかりが集まっているから彼は抗っているように見えるけれど、ロシウ、あるいはロージェノムの、人間の原罪を抑制しつつ、しかし一方では神にも頼らず、あくまで人を信じつつ同時に地球ないし宇宙の法則と折り合いをつけていこうという考え方は現実的かつ保守的なものであって、(ある意味では未来少年コナンからもののけ姫まで続く宮崎駿のテーマと共通している部分もある)、それが脇役的な考え方であるとは必ずしも言えないのではないか、と思うのです。その意味においては、ロシウの決断はシャア的な守旧への絶望とはむしろ対極にあるのではないでしょうか。また、新たなルールを作ろうとしたのではなく、既存のルールとの妥協を選択した点においても、ロシウは優れた既存政治家でありこそすれ、決断主義の側に立つキャラクターではないとも。
さらに言うと、ロシウが「決断」したのかどうかという事に関しても疑問があります。ロシウが真に決断していたのであれば、彼は自らの正義を法廷において訴えるべきであり、そうしたはずです。しかし彼は、自裁を選ぼうとした。それはロシウが、揺れ揺れながら信念を貫いたとしても、なお信念に反する部分を捨てきれていなかったという点において、決断とは言い難いようにも思えます。
(唯一ロシウが暴力的であったとすれば、ヨーコに対してよこした電話と思います。恐らくは無意識の善意以上のものではないそれは、しかし無意識のうちに生命に優劣をつけ選別しようとした行為であって、その点に無自覚であった点は明らかな彼の瑕疵でしょう)

大変長文のコメントになってしまったことを、お詫び申し上げます。また、この内容はは本来であれば宇野氏に対して直接申し上げるべき内容なのか、つまり、ここに投稿するにふさわしい内容なのかということについても、私の中で解決できておりません。ただ、決断主義という文脈を貫徹するならば、グレンラガンはともかくとして、コードギアスにおいてはルルーシュではなくスザクが、また、DEATH NOTEにおいては月ではなくLとニアこそが(無制限の授権を国家から託されているLやニアは、月の悪がまだしも相対的であるのに比較すれば、存在そのものを否定されるべき絶対悪であって、その位置に一人ある彼らこそが、真に決断している存在ではないでしょうか)その研究の対象になるべきだろうと考えている私にとっては、どうもおさまりの悪さを感じ、その点についてコメントを止められなくなってしまいました

ukparaukpara 2007/09/12 05:13 BigHopeClasicさん、コメントありがとうございました。

まず、コメントいただいたこのエントリーでは、「決断主義」という言葉を、宇野さんのサルトル的語義ではなく、シュミット的語義で用いているため、いただいたコメントは、宇野さんに対してのものでなくて正解であったと、私は思います。

その上で、おそらく問題は、「誰が暴力的行為をしたのか?」という点であると思いました。

そこで浮上する、より深い問題は、「暴力とは何か?」という語義の問題です。おそらく、ポストモダンにおいては、あらゆる行為が、(誰かにとっての)暴力たりうるのではないでしょうか。となれば、「誰が暴力的行為をしたのか?」という先の問いに対しては、「誰もが(誰かにとっての)暴力的行為をしている」ということになります。

すると、この問いはつぎのように修正する必要がありそうです。つまり、「誰が、自らの行為の暴力性を自覚した上で、その行為をしているのか?」と。そして、このような自覚的暴力行為を(全個人にではなく)国家統治者に求めるのが、シュミットの決断主義であったように思います。(ちなみに、サルトルの決断主義は、自らの行為の政治性の自覚化を、全個人に求めていると思います。)

では、このように問い直すとき、答えはどうなるでしょうか。
私の記憶では、シャアやルルーシュや月やロシウは、自らの行為の暴力性をはっきりと自覚していた(あるいは他人に暴力性を指摘されたとき、その暴力性を認めた)と思います。それに対して、アムロやスザクやユフィやLやニアもまた、国家の統治者(の代理者)として行為していますが、自らの行為の暴力性についての自覚が、比較的弱かったように思います。だとすれば、前者の者たちのほうが、後者の者たちよりも、シュミット的な決断主義が比較的強いと言えるでしょう。

こういった文脈で、このエントリーでは、前者の者たちをシュミット的決断主義者の例として挙げています。

こういった文脈は、コメントをいただくまでは無自覚的だったため、コメントをいただくことでそれを自覚化することができ、なかなかに有意義でした。コメントありがとうございました。

 |