My Life Between Silicon Valley and Japan このページをアンテナに追加 RSSフィード

2005-05-13

[] 次の10年はどういう時代か(3)

情報の隠蔽」を組織原理のベースに「情報へのアクセス権をコントロールする」ことで組織内での権威を維持する。これが多くの既存組織情報の関係である。「情報の共有」を組織原理のベースにするとどう物事が動いていくのか。そんな実感を、ほとんどの人が経験したことがない。だから情報がオープンになること、情報が誰にも共有されてしまうことを怖がる。むろん「情報の共有」によって全体としての生産性がおそろしく高まることに気づき始めている人は少なくない。でもそのメリットを打ち消すほど大きな不安が存在する。情報はオープンになった瞬間に価値を失うのではないのか? いや価値を失うどころか、とんでもない災厄がわが身に降りかかってくるのではないのか? そういう不安だ。だから「失うものの大きい」組織ほど「情報の隠蔽」に向かっていく。「隠蔽」というとちょっとネガティブに聞こえ過ぎるとすれば、「情報の限定的共有」と言ってもいい。

「次の10年」を変える「力の芽」を考えるときに僕が一つの拠り所としている判断基準は、その「力の芽」が、「持てるもの」によって忌避される類のものである一方、「持たざるもの」にとってはもの凄い武器であるときにその「力の芽」は着実に育っていく、ということである。「Culture of sharing」なんてその好例である。

僕がシリコンバレーに惹かれるのは、身の回りで常に新しい「力の芽」が生まれ続けているからだ。でも、シリコンバレーに生活拠点を移してまもない頃に気づいた。自分が一つ前の世代の原理原則で動く仕事において「失うものが大きくなっていく」と、それに比例して新しい「力の芽」を面白がることができなくなり、それらを過小評価し最後には否定するようになる、ということに気づいたのである。それで結局、勤めていた大きな会社を辞めた。その会社に勤めたままシリコンバレーに居ても、この地の本当の面白さは実感できないと確信したからだ。

それである事業コンセプトで1997年に会社を作った。そして創業してから8年が経過したが、8年のうちに2回、つまり3-4年に1回だが、うまくいっていた事業を全部捨てている。そのまま育てればまだまだ大きくなるのにというときに捨ててしまうのである。それらを捨ててしまわなければ、新しい「力の芽」の台頭と共に生きていくことはできないし、「捨てる」思い切りみたいなものを持たない限り、「失うもののない」新しい台頭者に必ず負けてしまう。負けなくても、一世代前の仕事に封じ込められてしまい、あんまり面白くない。余談になるが、「The new normal」を生き抜くカギはタイムマネジメントだ、とロジャー・マクナミーは言っていたが、タイムマネジメントでいちばん重要なのは捨てることだ。いろいろなものを捨てない限り、タイムマネジメントはできない。

新しい「力の芽」の品定めをするときに、僕はいつも小さな人体実験を行うことにしている。「雑誌等にモノを書くのをやめてブログにほぼ全部その活動を移してしまうと何が起こるのか」とか「仕事以外で自分より年上の人と会うのはだいたいやめて、自分よりうんと若い世代と付き合う時間を増やす」とか、一つ一つは小さな実験なのだが、やってみないと学べないことは多いからだ。

そういう生活をしていると、やはりだんだんに少しずつ人は成長するもので、新しい「力の芽」に対して、少なくとも同世代の人たちに比べれば恐ろしく敏感になる。

それで今抱いている仮説は、「不特定多数無限大の人々がインターネットでつながっている状態で、情報がオープンになっているということは何か全く新しい意味を持ってくるはず」である。前項でグーグルの社内組織原理の新しさについて触れたとき、

Googleの事例は、インターネット全体の開放的空間ではなく社内という閉鎖的空間の中での限定的な話ではあるのだが、それでも徹底的な情報共有が行われるとこれまでとは全く違うことが起こる

とあえて「限定的」と書いたのは、僕が「組織内あるいは閉ざされたグループ内での情報の共有」ということもさることながら、「来るものは拒まず」的なオープンネスが「不特定多数無限大の人々」に対して開かれている状態が生む価値のほうに、より本質的な面白さ・可能性を感じているからだ。オープンソースだって、身近な知り合いで情報を共有していただけだったらこれほどまでのムーブメントにはならず、世界中の見ず知らずの有象無象たちを「来るものは拒まず」引っ張り込んできた結果の隆盛なのである。(つづく)

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