My Life Between Silicon Valley and Japan このページをアンテナに追加 RSSフィード

2005-06-18

[] 「これからの10年飲み会」で話したこと、考えたこと

今野純くん

http://jkonno.exblog.jp/

主宰の「これからの10年飲み会」に昨夜招かれた。早寝早起きの僕としては珍しく帰宅が深夜になった。とても楽しい会であった。「ウェブ社会[本当の大変化]はこれから始まる」

http://www.shinchosha.co.jp/foresight/web_kikaku/u105.html

でも詳述したように、コンテンツ世界の需給バランスがこれから崩れる。コンテンツとはデジタル化可能な情報すべてを意味する。そしてそれは「次の10年はどういう時代か(6): Peer Production」

http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20050614/p1

で紹介したエール大学Yochai Benkler教授のこの発言でわかるように、

There's a subcategory of things that can be produced in relatively fine-grained, modular units that are amenable to this production. It so happens that a lot of the most valuable products of the Information Economy can be produced this way: software, most information, most knowledge, a lot of computation, a lot of storage, a lot of connectivity. And that's quite significant. But it's not a threat to business as a broad category.

「software, most information, most knowledge, a lot of computation, a lot of storage, a lot of connectivity」といった「a lot of the most valuable products of the Information Economy」において需給バランスが大きく崩れることと同じ意味である。「次の10年」を我々一人ひとりのサバイバルという観点から見たときに、ここが最も重要である。

「知の時代」とか言われて久しいわけだが、「頭のいい秀才くん」たちが一人で机に向かい一人でコンピュータに向かいその結果生み出される「a lot of the most valuable products of the Information Economy」の価値は、「次の10年」で間違いなく下落していく。そういう実に「皮肉な事態」が到来するのである。「頭のいい秀才くん」タイプの人間は、世界中を見渡してみたら、あるいは世界中がつながってみたら、想像していた以上にたくさん存在していたのである。ここを直視しなければならない。むろん大天才は別だ。

少し大雑把な比喩を使おう。

たとえば、野球が好き、将棋が好き、音楽が好き、勉強が好き、という四人の少年のうち、野球が好きな少年将棋が好きな少年音楽が好きな少年の大半は、その三つでプロになって飯を食っていくことがどれだけ大変なことかをだんだんと知り、野球将棋音楽で飯を食うということをあるとき諦めて、それは趣味として、仕事は別に持つようになる。でも勉強が好きな少年は、何だかずっと勉強みたいなことをする仕事をして一生を送れるのではないかとこれまでは思ったし、ここ数十年はそういう仕事がけっこうたくさんあった。そういう状況自体が今後厳しくなって、勉強が好きな少年も、野球好きの少年将棋好きの少年音楽好きの少年と同じような「人生の厳しさ」に直面するようになる。

それが「次の10年」なのではないか。

そんなことを最近よく思うのだ。

たとえば僕の場合でも、本を読んだり勉強したりモノを書いたり、そういうことは子供の頃から大好きだった。でもそれだけでは食えない。いま僕の事業を、ひいては生計を支えているのは、僕の「勉強能力」ではなく「対人能力」もっと言えば「営業能力」なのである。「勉強能力」は必要条件ではあっても十分条件にはならない。「勉強能力」こそが必要十分条件だった職業ほど、「次の十年」で脅威にさらされるのである。特に生活コストの高い先進国では、その傾向が顕著になろう。

勉強が好き」で「勉強さえできれば」・・・という時代は残念ながら終焉し、10年経とうが20年経とうが、人間が生きて暮らしていくこの社会において絶対不変の価値である「対人能力」「営業能力」を身につけた人(Toplineを稼げる人)が、「チープ革命」や溢れかえる情報やITツールの恩恵を受けて(Toplineを稼ぐために必要なコストは年々下がっていく-->Bottomlineは改善されていく)サバイバルする時代に入る。

それが「次の10年」なのではないか。

今野くんのような抜群の「対人能力」「営業能力」を持ったビジネスマンから刺激を受け、「飲み会」ゆえにビールワインをたくさん飲んでいるうちに、こんなことを考えた昨夜であった。

morichumorichu 2005/06/18 16:26 逆に聞きたいのですが、「勉強が好き」「勉強さえできれば」でよかった時代というのは、いつぐらいの時代でしょうか?学生時代はともかく、社会に出ても「勉強が好き」「勉強さえできれば」だけで通用する時代があったとは思えませんけど……。

とおりすがりとおりすがり 2005/06/18 17:45 学者やらのことでは・・・

谷村 正剛谷村 正剛 2005/06/18 19:50 チープ革命について私から注意を入れておきたいのですが、チープ革命といえども下げられるコスト幅は有限なのではないでしょうか? 先に出した証券業界の例では、「従来の証券会社が *そこそこ* の中間コストを搾取していたものを、ネット証券は搾取せずに顧客に還元した」のが効いているんです。逆にいえば「従来の証券会社が、コストが見合わないと言って放り投げてきた商売は、ネット証券といえどもチープ革命を起こすことはできていない」のです。おそらく、顧客が「欲しい」と言い出すまで動けないでしょう。
この問題は「知の世界」でも現実に起きているのではないでしょうか? 私が一番鮮烈に覚えている事例は、9.11テロの直後、アメリカの行動を非難するために誰かが国連で中東の古典詩を引用した演説をしたことです。その後調べてみましたが、テロの前にも文学者や趣味人が中東の詩をそれなりにウェブに載せてはいました(英訳もついているものはついてました)。ところが、多くのアメリカ人はテロの前はそれに対して見向きもしませんでした。テロが起きてから、みんなあわてて「勉強」し始めたのです。いくらチープに提供されていても、それが必要でなければ誰も関心を持たないのです。もっと厳しく言えば、いくらチープに提供したところで、それをあまねく人に「押しつける」「理解を急きたてる」ことはできないのです。なぜなら、知りたくもないことを意図的に知ろうとする人はいないのですから。
私は、ウェブがもたらす革命の議論でこの命題がほとんど意識されないことを強く警戒しています。ブログなどをやっていて、「知識は常に万人へ広がらなければならない」という人は、よくこんな比喩を出します。
『ある者が、他人に決して知られてはならない秘密を知ってしまった。秘密がばれたら、殺されるかも知れない。そこで、彼は世界のあらゆる人達に秘密をばらし、秘密を秘密でなくしてしまった。そのお陰で、彼はもはや秘密を持たず、ゆえに殺されることを逃れた。』
これを、あっさりと信じる人が多いのは想像に難くありません。確かに、秘密を誰もに知らしめることができるような世界ならば、これは成り立つでしょう。しかし、本当に現実にそんなことをする人が果たしているのでしょうか? まずいません。なぜかというと、秘密をばらされるであろう人達の中には先の命題をどこかで意識している人がいて、「そんなこと関係ないだろ、ほっといてくれ!」と切り捨ててしまうからです。それが予想できるから、現実にはこんなことはできないのです。
もっとも、ウェブの世界だと、そんな反応をする人は少ないかも知れません。場合によっては、ゼロかも知れないでしょう。しかし、それでもなお、先の比喩が成立するとは限りません。地球上、すべての人達がウェブへのアクセスを持ち、ウェブを通して知識を得ることができるわけではないのですから。ウェブが持つパワーに酔いしれ、いつしかそれがウェブを使えない人達にまでも勝手に広がっていくというのは、どう考えても危険な幻想です。旧約聖書にある「バベル(バビロン)の塔」の話を思い出します。地球上の全人類が結集し、天まで届く塔を建てようとした。神はそれを防ぐため、人類の言葉を混乱させた。その結果、塔の建設は中止されたというお話。聖書を初めとする千年単位の古典には宗教的な意味もあるとは思いますが、人類が犯した過ちを記し、それを繰り返さないようにするという役割もあるのは間違いありません(だからこそ、今に至るまで頻繁にスピーチに引用される)。ウェブの世界でも、知らず識らずのうちにみんなでバベルの塔を建てようとしていて、気が付いたらウェブの世界の外にいる人達の知識が取り込めなかったなんて失敗が起きないとは断言できません。
もちろん、やり方次第ではウェブが素晴らしい知識に宝庫になるかも知れません。が、我々が思っている以上に、世の中にはすでに実用になっている知識の宝庫がいろいろあるのです。先に出した聖書(旧約、新約ともに)は間違いないですし、シェークスピアもそうでしょう。コーランや四書にも、我々が未だ知り得ない知識が眠っているのかも知れません。ウェブを「知の時代」「知の革命」の先鋒だと主張するなら、ぜひともウェブを聖書や四書と肩を並べるような思考の拠り所にならしめて下さい。

谷村 正剛谷村 正剛 2005/06/18 20:21 念のため、聖書やコーランなどをウェブに載せるだけではダメですよ。それじゃ聖書やコーランに書いてある知識しか得られません。聖書やコーラン、四書やシェークスピアなどの古典名著に一切書かれていない知識がウェブで得られなければならないのです。それができないなら、ウェブは人類の歴史に残るような知識を生み出さなかったと結論せざるを得ません。

青天井青天井 2006/05/25 02:08 ど素人が言うのは何ですけど、話がソースとメディアをまぜこぜにしてはおられませんか、過去には勉強が出来た人はソースで有りメディアで有ったのでそれだけで存在価値があったものが、メディアの発達でそうもいかなくなった、グーテンベルグの活版印刷の時にも起こった事だと思います。

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