同世代の企業人を見つめて悩んでしまうこと

「「知の創出」のコモディティ化への戸惑い」
http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20050622/p2
を含む一連のエントリーには、たくさんのコメントやトラックバックをいただいた。まだきちんと言葉にならないもやもやしたことを「考えるために書いてみる」という試みを続けているわけだが、そういう作業をするにはBlogというのは最適なメディアだなと思う。たくさんの編集者に囲まれて原稿を書く仕事をしているみたいだ。もちろんその過程を公開して恥ずかしいという気持ちを払拭できればという話ですが。アメリカのジャーナリスト/物書きの中に、本や記事の草稿をBlogで公開して、読者からフィードバックをもらいながら書くというアプローチを取ろうとしている人がいるが、その気持ちがよくわかる。まぁ僕の場合、以前にも書いたように、新しい現象に直面すると「人体実験」してみようとすぐに考える「おっちょこちょい」だからそう思う、ということも多分にあるのだが。
ところで、「僕のエントリーに対する意見が書かれたBlogのブックマークについた一言コメントの集積」というのがけっこう面白い。「本エントリーへのコメントやトラックバック-->本エントリーをブックマークしての一言コメント-->本エントリーを巡るBlogへのコメントやトラックバック-->そのBlogをブックマークしての一言コメント」と並べてみると最後のほうになればなるほど、「もともとの筆者」(僕)から何段階か遠く、「ここまでは読まねぇだろうな」的な気楽さが出てくるのであろうと思う。その広がりが面白い。
さて、ご意見の中のある種の共通点として、「内容に何か違和感を抱く-->それは実はこういうことを言いたいんじゃないの-->でもそれだけだと前から言われていることと何が違うのかねぇ、本当は何が言いたいの?」 みたいな構造をしているように思った。
「英語で読むITトレンド」なんかと違って、かなり普遍的なテーマなので、難しいですね。いただいたご意見は僕の中に取り入れ、発酵させたいと思います。
ただ僕も「言い古されたことを改めて繰り返したい」とはあんまり思っていなくて、先日フォーサイト誌に寄稿した「ウェブ社会[本当の大変化]はこれから始まる」
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.shinchosha.co.jp/foresight/web_kikaku/u105.html
の延長線上で、じゃあこういう大変化の中で個人としてサバイバルするにはどうしたらいいんだ? ということを、それなりに必死で考えているのだ。大きなお世話だと思う人は、読まなくていいです。そこがBlogのいいところでしょう。
そしてもう一つ前提となる価値観として「これから寿命もどこまでのびていくかわからないし、老いた時に昔みたいに自分より若い世代に養ってもらうというわけにもいかない世の中で、やっぱり稼げるときには稼がなくちゃ仕方ないんじゃないの」と強く思っている。これも根本で価値観が違えば議論が噛み合わなくなる。「飯を食う」という表現を前エントリーでも多用したけれど、大事なことなんだよ、本当に。たまたま今は何かの理由で飯が食えていても、その環境が激変したって、最初にしなければならないことは「飯を食う」ことなんだから。そしてそれが毎日毎日続いていくんだから。「人生はサバイバルゲームだ」という価値観を、好むと好まざるとに関わらず、僕は持っています。それははっきりさせておこう。
なんか前置きが長くなったが、今日は背景となっている僕の問題意識の一端を書く。
「なんで昔はあんなに凄かったお前が、こんなにつぶしの利かない、組織の外では(実は組織の中でも)何の役にも立たない奴になっちゃったの? それは、この「20年間の過ごし方」が間違っていたからなんじゃないの。でもその「20年間の過ごし方」って、今でも「それでいい」って思っている人がけっこう多い生き方なんじゃないの」
同世代の企業人を見つめて、最近心の中で悩むのはこういうことだ。
僕の世代は1980年代半ばが就職の時期だから、同窓の就職先リストを見ても、就職先が日本の大企業って人がけっこう多い。転職したこともない人ってのもけっこう多い。今みたいに外資系やベンチャーはほとんどなかったから。
「日本の一流大学を出て日本の一流企業に勤める」良さというのは他の人生の選択肢と比較して相変わらずある。だから気をつけなくちゃいけない。大組織の大組織たるゆえんは、大きな枠組みの中で広義の「知の創出」に専念してさえいれば、そこから先の「泥仕事」(「勉強好き」で「勉強ができて」高学歴の人たちは「組織の外に開かれた対人能力」を必要とする「カネに絡む」ような仕事をよくこう表現する)は誰か別の人がやってくれる(効率のよい分業みたいなものかな)、という仕事がかなり多く存在していたし、今も存在しているからだ。けっこういい仕事なのですよ、これが。見ていて羨ましくなるほどに。元「勉強好き少年」たちにとっての温床であり続けてきたが、ここがこれからは危ない。
「次の10年」の大変化が直撃するのはこの層であり、この層の予備軍だ。そして変化が直撃するともろいのもこの層だ。口では「したたかなサバイバル戦略として大企業に入った」とか言う若い企業人たちも、組織になじむにつれてだんだんに変わっていく。自分では意識しないのかもしれないけれど組織の外に向かって体が動かなくなる。いずれ思考を停止して、だんだんと保守的になっていく。
「ねぇ、こんなことやってみたら?」「こうしたらどう?」
良かれと思って何かを提案したって、返って来る答は「出来ない理由」ばっかりだ。人から何か提案されたときのとっさの反応は「じゃあ誰かに相談してみる」だ。
「なんでこんな小さなことすら自分で決められないの? 昔はそんなふうじゃなかったんじゃないの」
僕は心の中でそう思う。・・・・・
「ねぇ、それは大組織の中での話でしょ。それならばよくわかるよ」
という読者の声が聞こえてくるような気がするけれど、日本には多かれ少なかれこういう危険が溢れている(大組織の悪いところだけ引き継いだ小さい会社というのは、加えて発展性も可能性も少ないという意味で大企業よりもっと悪くて、そういう会社もたくさん存在するのでご注意を)。よほど意識して生きていかないと、社会のいたるところに、村の掟に従いさえすれば変に甘い「村社会」的ルールが張り巡らされていて、若くて優秀な人材が体よく消費され、だんだんと組織の外で使い物にならない人に変えられていく。ハーバードに社費留学して帰ってきたら、会長や社長のスピーチライターになった、なんていうとんでもないキャリアパスが相変わらず一部に存在しているわけですから。これは極端な例だけれどね。
ちょっととりとめもなくなってきたので、今日はここでおしまい。「勉強能力」という言葉の定義も含めて、このテーマについては、いただいたご意見を発酵させた上でいずれまた書きたいと思います。