1986年生まれの大学一年生が来た

シリコンバレー・ツアーを自主企画して夏休みにシリコンバレーをまわっている大学生8人(東大の1-2年生)が、昨日、僕のオフィスにやってきた。
はてなでいつも会っている連中が1975年から1978年生まれくらい。先週会ったグーグルの日本人インターン5人は皆大学院生なので1980年から1982年生まれくらい。昨日の皆はそれよりもさらに若く、1985年から1986年生まれ、というわけで、世代の違いを実感して楽しかった。大学の先生って仕事は、自分は毎年一つずつ歳をとっていくのに、相手は同じ年代で固定、だんだんに少しずつ学生から年齢が離れていく感覚ってどういうもんなんだろう。
質問の内容は「大学について」が多かった。確かに半年前まで高校生だったんだもんね。
「大学時代は何をしていたか」「大学時代に得たことは何か」なんて質問に対しては、人それぞれ全く違う答があるわけだけれど、そんなこと久しく考えたことがなかったんで答に窮してしまった。
僕は大学から大学院の途中くらいまでは、理系の学問の世界で何者かになりたいという志を抱いていたから、かなり真剣に勉強していた。でもそういう勉強中心の生活で結局何を得たかというと、「理系の世界は自分に全く向いていない」という確信だった。結局費やした厖大な時間は無に帰し、蓄えた知識は風化し、頭にはほとんど何も残っていない。でも今振り返って思うと、ギリギリまで勉強してみてはじめて、人よりも早く「自分の適性」と真剣に向き合うことができるようになったんだと思う。それが大学時代に得たことのすべてだ。残念で辛い結果だったが、後悔は全くしていない。
そんな話をしたつもりだったんだけど、わかってもらえたかな、ちょっと自信がない。(皆の反応についてはあんまり覚えておらず、僕が「理系的」でないことをよく知っている渡辺千賀が、横で腹を抱えて笑っていたのが印象に残っているだけだ)
文Iだ、理Iだと言ったって、高校時代の進路選択なんてあてにならない。自分が本当にその延長線上にある職業に向いているかなんて、わからないわけだし。
この間、正真正銘のハッカーT君と、同じような話をしていたら、
「大学院で、自分に才能がないってちゃんと見極めて、別の道を模索したのは偉いです! 大学院でけっこうちゃんと勉強していた人で、そういう決心をする人って本当に少ないですよ。日本の大学や研究所には、ぜんぜん向いていないのに研究したりプログラム書いてるふりしてる人が多いから」
と褒められた(?)が、ハッカーのT君から見ると周囲が「向いていない」人ばかりに見えるんだろうな。
また話は飛ぶが、アメリカの大学院の博士課程で面接試験で成績が悪かった人を2-3割落とす(つまり退学させる)仕組みについて、ある別の友人とつい最近議論した。彼は、
アメリカの一流の大学の大学院には、遊んでばかりいてほとんど勉強してない学生なんかおらず、皆、必死で勉強しているわけで、その2-3割が面接で落とされるっていうのはちょっと厳しすぎる」
という意見だった。僕も学生の頃だったらそんな感想を抱いたと思うのだが、今はちょっと違う。大学はともかく、やっぱり大学院は「厳しすぎる」くらいのほうがいいのだろうという気がする。「向いていない人」が早く自分を発見する機会にめぐり合えるから。