悲観主義とオプティミズム

一週間東京に行って帰国したところ。これからしばらく寝たり起きたりで、消耗しきった身体に体力が戻るのを待とう。今年二回目の東京だったが、こちらに戻ってくるとすべてのモードが全く変わって、ブログを書く力もようやく沸いてくる。
ある日、東京で気のおけない親しい友人たちとオプティミズムの話になった。「ウェブ進化論」のオプティミズムを誤解する人が多いね、という話がよく出るが、その日もそんな話になった。オプティミズムとは、生来人間は素晴らしいものなんだから「世の中、ほっておいても何とかなるさ」みたいな呑気でいい加減な考え方とは全く違うものだ。オプティミズムの本質を全く理解せぬまま、オプティミズムはけしからんと言う人が多いね、というのは僕もよく思う。
ところで別の友人との集まりで、話がなぜかそちらのほうに流れ、アランの「定義集」の話になった。僕が敬愛してやまない森有正(ぼろぼろになるまで読んだ四冊の本)は、哲学者アランを師と仰ぎ、ライフワークの一つとして「定義集」を翻訳した。

定義集

定義集

僕はこれまでにたくさんの本を読んできたが、内容を記憶するという習慣がなく、そのときどきの人生における喫緊の問題に何か指針を得たいという一心で、そのときどきの自分が欲している信号を求めてさまようような読書をしてきた。精読して知を溜め込むということにはいっさい興味がなく、生きるために飲む水を求めるような読書と言えば近いだろうか。アラン「定義集」も過去に何度か読んだが、その内容を記憶していないため、読み返すたびにかえって新鮮だ。学者先生たちの本の読み方と、我々市井の人間の本の読み方は全く違っていてよいものだ、といつも思う。記憶には残っていなくとも、生きるうえで強く影響を受けることができれば、それで十分だ。
シリコンバレーに戻って、ベッドに横たわりながら「定義集」をぱらぱらと開いていたら「悲観主義」という項があるのにぶつかった。

悲観主義 PESSIMISME
[これ] は自然的なものであってその証拠[PREUVE]に満ちている。何となれば人は誰でも煩悶[chagrin]、苦悩[douleur]、病気、或いは死を決して免れ得ないからである。元来悲観主義は、現在は不幸ではないがこれらの事柄を予見している人間の判断である。悲観主義は自ずから体系の形をとって表現され、(そう言ってよければ)好んであらゆる計画、あらゆる企て、あらゆる感情[SENTIMENT]の悪い結末を予言する[:PREDICTION]ものである。悲観主義の根底は意志を信じないことである。楽観主義は全く意志的である。

読んで驚いてしまったというより、感動した。
これこそがまさに「定義」だ。
アラン「定義集」の裏表紙には、「定義」についてこう書かれている。

哲学者アランにとって、定義への試みはその出発点であり、目的であった。簡潔さ、厳密さに到達した定義は、静かな力づよさを獲得する。これはアランの一生の仕事であった。(中略) アランが本書で表した210語の定義は、ものとことばと思想との関連をみごとに示した実例である。

「感覚」から「経験」へそして「定義」へと進化していった森有正の思想とアラン「定義集」の接点は、この悲観主義についての「定義」を読むだけでも十二分に伝わってくる。そしてアランが選び抜いた210語の中には、この「悲観主義」に加えて、「楽天主義 OPTIMISME [・楽観主義]」も存在することを知った。オプティミズムは、

生来の悲観主義[PESSIMISME]をしりぞける為の意志的判断。

で始まる十行ほどの文章で「定義」されている。
ウェブ進化論」のあとがきで、僕はこう書いた。

シリコンバレーにあって日本にないもの。それは若い世代の創造性や果敢な行動を刺激する「オプティミズムに支えられたビジョン」である。
全く新しい事象を前にして、いくつになっても前向きにそれを面白がり、積極的に未来志向で考え、何かに挑戦したいと思う若い世代を明るく励ます。それがシリコンバレーの「大人の流儀」たるオプティミズムである。
もちろんウェブ進化についての語り口はいろいろあるだろう。でも私は、そこにオプティミズムを貫いてみたかった。これから直面する難題を創造的に解決する力は、オプティミズムを前提とした試行錯誤以外からは生まれ得ないと信ずるからである。(p246)

オプティミズムとは、まったくもって「意志」の問題なのである。死や病を免れ得ない人間にとって、悲観主義こそ「自然」で「生来」なものなのであって、オプティミズムとはそれを超えていく意志のことなのである。「これから直面する難題を創造的に解決する」ためには、我々一人ひとりがオプティミズムという「意志」を持つことがどうしても必要不可欠なのだ、ということを、僕はいまも相変わらず言い続けたいのである。