My Life Between Silicon Valley and Japan このページをアンテナに追加 RSSフィード

2007-10-01

[] 今月の「私の履歴書」: 青木昌彦

今月は日経新聞が届くのが楽しみだ。「私の履歴書」が、「日本外国を行き来するような生活をかれこれ四十年以上も続けてきた」(連載)青木昌彦氏(スタンフォード大名教授)だからだ。連載,諒乎罎法

ところで、文化心理学者のカール・ユングは、次のような印象深いエピソードを語っている。スイス人でありながら長い滞在で中国人になりきってしまった中国研究の友人が母国に帰ると、普通スイス人にもどってしまう。そのことにユングは深い危惧を覚えるが、案の定、やがてその友人は深い精神の病に陥り、命を落としてしまう。ユングは、違った文化の狭間にあって、その二つを理解するということはそれほどの精神的な危険を伴うものだという。

とあり、わが身を振り返られて、

だからユングの説明に妙に納得してしまう。二つの世界の行き来とは、社会科学者としては得難い経験であるが、心理的な負荷もあるのだろう。ただ母国を賛美したり外国人になりきるだけなら楽だろうが。

と書かれている(人生を振り返っての冒頭にこのエピソードを持ってくるのだから、きっと重い意味があるのだろう)。

青木氏の「四十年以上」には及ばないが、こちらでの生活もそろそろ丸十三年。渡米以来、このブログタイトルそのままに、日本シリコンバレーという「二つの世界の行き来」を続けているけれど、たしかに「違った文化の狭間」の経験は、厳しい精神的緊張を強いることがある。ただ僕の場合はまだ、それもせいぜい「心理的な負荷」という程度で「精神的な危険」からはほど遠いのだが。

そして青木氏は自らについて、

社会問題や国際的なかかわりへの関心、よくいえばベンチャー精神(シニカルにいえば軽はずみ)→コミットメント引きこもりリセットの懲りない繰り返し。

と総括されているが、この感じはとてもよくわかる。この地に惹かれた人に共通する雰囲気だとも言える気がする。また「よくいえばベンチャー精神シニカルにいえば軽はずみ」というのは、シリコンバレー全体の雰囲気の形容にもぴったりである。

連載をすべて読み終えたところで、また感想を書こうと思う。

ubsp1977ubsp1977 2007/10/01 19:25 青木さんの「比較制度分析」は、私の論文の参考にしました。難解な数学を自在に操る青木さんを雲の上の存在のように感じていましたが、学生運動で思い切った行動をしていたことを知って、イメージがだいぶ変わりました。

ニシケンニシケン 2007/11/09 04:12 マルクス主義同志会のホームページに青木さんへの批判がありました。

青木昌彦、お前もか
「私の履歴書」の破廉恥
沈黙を守るべきではなかったか

 青木昌彦が、日本経済新聞の「私の履歴書」という欄で、自らの青春時代の、つまり“ブント”(一九五八年十二月から六〇年八月まで存在した共産主義者同盟)や六〇年安保闘争の思い出について書いている。

 もちろん、青木は七十歳になんなんとする自分の人生の全体について書いているのだが、自分の主要な人生などほとんどそっちのけで、夢中になってブント時代の思い出に、あるいは自慢話に紙面を使っている。もう半分に来ているのに(今十四回目である)、やっと「ブント勢の見送りを受けて」、羽田からアメリカに出発するところで、その後の人生などまるで大した意義もないかであり、その後の“近代経済学者”としての“立派な”経歴や仕事も徹底的に空虚なこけ脅しにすぎないことを(それは確かにその通りなのだが)、自ら知っているからだろうか(“賢明なる”青木が、しかもかつてマルクス主義に染まり、その思想や方法で思考した青木が、それを知らないはずはない、だからこそ、彼の思いはブントの時代に、つまり自分がいくらかでも“輝いていた”過去の青春時代に戻っていくしかないのである)。

 もちろん、私は青木の文章を読んで、まるで道端で犬の糞をふんづけたかのような、この世で一番汚いものを押しつけられたかのような、不快で、いやな気分に打ち震えた。

 青木は少なくとも他の連中――例えば、西部邁など――とは違って、自分の“転向ぶり”などについて語らず、沈黙しているからまだましだ、もう少し利口であり、いくらか恥と遠慮の気分くらいは持っているのかと思っていたが、彼もまた西部等と同等の卑しい人間であり、単なるばか者(流行の言葉で言えば、“KY”人間)でしかないことを暴露したのである。

 青木も西部等と同じく、ブントの闘いや六〇年安保闘争を“若気の至り”としてかたつけ、それから転向してブルジョア陣営に移ったことをまるで手柄話であるかに語り、正しい、まともな選択であるかに言いはやすのだが、ただ自らの志操の低さと俗物根性と責任能力の皆無を暴露しているだけである。

 それでいて盛んに、ブントを作ったのは自分だとか、その思想的、理論的な根底は自分に負っているとか、自分の「日本国家独占資本主義論」はかなりのものだったとか、吉本隆明にほめられたとか、自慢たらたらなのだから、まったく何をか言わんやであり、あきれて口がふさがらないの体である。

 そんなに自慢したいのなら、自らが鼓舞し、振りまき、多くの学生活動家を扇動してブントの闘いに駆り立てた自らの理想や思想を、なぜそんなにも簡単に放棄し、裏切るようなことをしたのか、できたのか。青木は答えるべきであろう。

 青木はブントを作ったのも自分だ、その理論も自分のものだと言いたいようだが、しかし実際には、そのブントの指導部と理論的、実践的な立場は、安保闘争の後に開催された一九六〇年の夏の会議では、すでにほとんどすべてのブントの活動家から厳しく批判され、あるいは糾弾され、否定されたのであり、だからこそ、非難を一身にあびた青木は“いやけがさして”――根性も何もない“お坊ちゃん育ち”の本性を出して――、ブントと左翼運動から逃走したのではなかったか。

 実際、六〇年の安保闘争の末期から、闘争直後の時期における、島や青木に対する、ブント活動家の非難と攻撃は激烈であり、執拗であって、その時期にはほとんど一握りの“お仲間”以外は、誰も青木や島や清水らを信用していないような状況になっていたのである。

 もちろん、当時の“革通派”――服部信司とか星野中とか長崎浩とかいった連中――のヒステリカルな非難があったが、しかしそれだけではない、青木等よりも二年ばかり遅れて活動に参加した私や、それ以降の年代の活動家たちもみな、島や青木にとことんあいそをつかしたのであった。

 我々の青木や島に対する批判は、服部や星野とはまったく別のものであり、むしろその反対のものからであった。つまり服部らは、青木、清水らのラジカリズムは中途半端で、にせものだと告発したのだが――したがって彼らはブントの急進主義以上の急進主義を持ち出し、それを欠いていたからといって青木らを攻撃した、すなわち青木や清水と同じ地盤に留まっていたにすぎない――、我々はむしろ青木らの根源に対して、つまり彼らが“学連主義的”であって(つまり学生運動の枠内でしか問題を立てられないで)、少しも「労働者的でなかった」ことに対して、そのいつわりの、口先だけの急進主義に対して反対し、そのプチブル的本性を告発したのであった。

 いずれにせよ、青木や島はブント同盟員の集中的な、圧倒的な批判を浴びて敗れ去ったのであって、青木が自分がブントを作ったのだとか、その理論は自分のものだといっても、少しも自慢にも“功績”にもならないのである。

 彼は“革通派”つまり「東大系が雲散霧消したのは当然だった」などと言うのだが、実際には、ブントのほとんどの活動家から厳しく批判され、総スカンを食って、すごすごと退散せざるを得なかったのは青木らの方だったのだ。青木は活動家としての、こうした不名誉で、無念やるかたなき敗北の“経歴”を隠している。

 そして頭は空っぽで、政治技術的にしか動くことができない清水とか唐牛とか北小路とかいった連中は、青木の“理論”ではもう持たない、権威をたもつことはできないと悟ったからこそ、青木を“見捨てて”、大急ぎで黒田寛一の破れ衣のもとに緊急避難したのであった。清水らに見捨てられては、青木がやる気を完全になくしたのも当然というものであった。

 この卑しい人間は、自分の転向を“世渡り”の上手な証拠として自慢し、清水や北小路は「必要な時には、人生のリスイッチを試みる勇気が欠けていたのではないか」などとえらそうに言うのである。つまり“ブル転”(ブルジョア的転身)こそ「勇気」ある行動だと開き直るのだから、こうした連中の破廉恥さ、人間的卑劣さには限度というものがない。

 彼はうれしそうに、転向後のブルジョア陣営の“暖かさ”や寛大や“厚遇”をあげつらい、それに感謝するにやぶさかではないが、国家やブルジョア・インテリたちが青木らの“転向者”をチヤホヤするのは当然のことであり、昔からのことである、というのは、青木や西部やその他“ごまん”といる学生運動からの転向組は、まさに反体制運動の、労働者階級の社会主義、共産主義の闘いの不毛性、不可能性等々を証明するに一番説得力があり、役に立つ道具だてだからである。ブルジョアたちは青木とか西部とかその他、諸々の“裏切り者”たちを利用することを、その“価値”を十分に知っているのである。

 青木は一九六一年三月の青木の下宿における、“プロレタリア通信”派の最後の会議について語っているが、真実の一部しか明らかにしていない。

 青木はこの会議に、黒田派へ乗り換えると主張した連中と、「そう、我々は戦線逃亡する」と開き直った、恥ずべき青木とか西部とかいった連中しかいなかったかに言っているが、実際には、黒田派には決して行かないが闘いを継続すると明確に宣言した活動家も、私を入れて少なくも三人いたことを隠している。

 つまりこの会議には十人ほど参加していたが、黒田派に乗り移ると言い張った清水、北小路、奥田らと、「戦線逃亡する」と開き直った青木や西部やその他一、二名と、黒田派になど決して行かない――その思想はプチブル的であり、単なる主観主義的なドグマの一種だから――が、闘いを断じてやめないと言った三人ほどの、三つの傾向に分かれたのである(十人ほども参加し、円座になってかなりゆったりと座っていたから、この部屋は青木がいうのとは違って、四・五畳よりももっと広く、少なくとも六畳くらいはあったように思われる――こんなことはどうでもいいことだが、まあ、この“会議”の雰囲気を知るには重要かもしれない)。

 もちろん、この時も清水は「黒田派に行かないということは、“別党コース”なのか」と例によって我々を恫喝したが、しかしそんなものは、すでに“青木幻想”だけでなく、“清水神話”からもすっかり解放されていた我々には(我々はすでに新しいグループを組織し始めていた)、蚊が刺したほどの影響もなかった。

 青木はまた、誰かにカネが入ったときには、新宿で楽しく飲んだとか書いているが、これも嘘である、というのは、青木のような“ブルジョア”出の人間はいざ知らず、清水や唐牛のような“ルンプロ”らには、どんなカネの入るところもなかっただろうからであり、新宿で“豪遊”するようなときは、しばしば全学連のカネで飲んでいたからである。もともと清水は公然と全学連のカネで生活していたが、これを非難する者は誰もいなかった、というのは、彼の全学連における指導的な役割は余りにはっきりしていたからである(私も、このことで清水を非難するつもりはなかった)。

 しかし清水とか島とか青木とか唐牛らは、青木がきれい事にしているのとは違って、もっぱら全学連の費用で“飲み食い”していたのであって、あるとき、清水は私に「昨夜は一晩で新宿で五万円も飲んだ」と自慢したので、どこにそんなカネがあったのかと尋ねると、全学連のカネだとぬけぬけと白状したことからも、このことは明らかである。

 私は「おれにそんなことは言わない方がいいぞ、いつかぶちまけるかもしれないからな」と警告を発すると、清水は、「いいよ、そんなことは嘘だと言うから。俺の言うことの方が林の言うことよりも信用される」などとうそぶくのであった。当時の五万円は現在の金額では数十万円で、私などが、都学連の執行委員をしていた間、つまり安保闘争の全期間中を通してずっと月二、三千円くらいのバイトをして「生活費(の一部)を稼いでいた」ことからしても、この金額の大きさが了解いただけるだろう。今清水との“約束”を果たして、ここに、この事実を「ぶちまけて」おく。

 青木のように、多くの活動家を「世界革命」とか「共産主義」とか「スターリン主義者の打倒」とか大声で扇動しながら、また権力との闘争に駆り立てながら(樺美智子のように死んだ“同志”もおり、傷つき、障害を残した“まじめな”活動家も山といたのだ)、たちまちブルジョア的に“転向”し、しかもそれを誇り、偉そうに語るような人間は本当に卑しい人間、最低のクズ人間ではないのか。

 青木はこれまでずっと、自分の“革命家”としての“経歴”や思い出について一切語らず、その点ではいくらか増しかと考えていたが、しかし青木もまた西部とか、その他山ほどいる――私の兄もその一人だが――くだらない連中と何ら変わらない俗物であることを自ら暴露し、かくしてブントという存在のプチブル的本性を確認する上で、最終的な仕上げをしてくれたのである。

 恥というものを知らない、青木とか西部といった心根の濁ったクズ人間たち連中よ、せめて諸君は沈黙を守るべきではなかったか。諸君には、えらそうなことを言える資格は全くないのだから。我々の怒りと軽蔑は深い。

(林 紘義)

ニシケンニシケン 2007/11/10 06:55 ついでに、「マルクス主義同志会」のホームページは、http://www.mcg-j.org/ここから「海つばめ」の、以前の掲載、1054号で、林氏の青木氏批判あります。林氏は、青木氏よりは遅れましたが、同じブントの一員。林氏は、1960年代後半から、ソ連の体制は国家資本主義と喝破。中国の文革派の黄金時代、中国が、いわゆる、文革派は没落し、資本主義の復活、今の中国の現状の来る由縁を、ずっとも昔から、分析されてました。林氏には、以前から、注目していましたが、虚名の青木氏のノーベル賞受賞候補より、在野でも、並の学者には及びつかないほど、の業績あげられたと思います。月とスッポンです。スッポンは青木氏です。青木氏全く、自己反省ないと、「私の履歴書」読み思いました。

さかはら あつしさかはら あつし 2010/03/17 18:59 青木先生が作られたスタンフォード日本センターの恩恵に最も浴したのは私だと思います。シリコンバレーのベンチャーと映画の両方に携わる機会を得たのですから。

ひかなさくひかなさく 2018/10/10 05:43 その林氏も今ではもう老残を晒しているのは悲しいですけどね。学者としての能力は優れてました。1990年代初めに、左翼が朝鮮民族主義に追随していると、日本民族主義を刺激して排外主義の勃興を招くぞと警告していたのは忘れません。いや私は左翼じゃないから、そうなるだろう事は林氏に言われるまでもなく予想してたよ。ただ左翼で言った人はたぶん林氏だけだ。そして当時の左翼の連中は林氏の警告の意味に全く気付かなかった。そして今まさにそういう時代がやって来た。林氏はもっと自分の業績を誇っていいんだよ。あと古代史の話を書いてて、邪馬台国東遷説が正しいのではないかと示唆した事があったのも感心した。でも古代封建制の存在を頭から否定したのは、マルクスのドグマを守るためで愚劣だったけどね。並の左翼には到底出来ない事だったのは確かだよ。
ただ林氏は本心ではもうマルクス主義は信じてないです。労働の解放をめざす労働者党ブログの記事
「西部邁の自死」
http://blog.livedoor.jp/marxdoushikai2016/archives/29227592.html
に、この人らしくもない感傷的な話を書いてます。林氏の本心がぽろっと出てしまってます。
「付言すれば、58年5月、私を共産党に──従って社会主義、共産主義運動と名のつくものに──誘い込み、誘導し、私の運命を狂わせた悪い男は青木で、」「また彼らのような器用な生き方のできない私は?転向?できず、彼らと道が分かれ、それ以降、どんな学生運動当時のあれこれの仲間意識の会や集まりに全く出なかった。 だから、個人的な付き合いは一切無かったが──これは兄に対しても同様である──、?あの世?に行ったら、彼らとも話すことができるかも知れないとも思う(樺美智子も交えて?)。」
まあ人の敗残の姿をわざわざ取り上げて言い募るのも底意地が悪いのだろうよ。でも林氏が転向しなかった本当の理由は「不器用」だからじゃないよね。樺美智子の仇を取るために闘ってたから転向出来なかったんだよね。あの世に行ったら樺美智子には敗北の報告はしておいて下さい。

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