My Life Between Silicon Valley and Japan このページをアンテナに追加 RSSフィード

2009-04-25

[] 「観る」ことと「する」こと「生きる」こと

「ものぐさ将棋観戦ブログ」で、拙著シリコンバレーから将棋を観る」を早速読んで取り上げていただいた。「「観る」という行為は実は恐ろしく深いのだ」を読み、何だかいくらでも語り合えそうな気がしてきて、ブログを始めた頃の楽しさを思い出したので、思いつくままに、そのテーマとなっている「観る」と「する」について書いてみよう。

単純化すると「観る」というのは客観的な行為、「する」というのは主観的な行為である。人は結局自分人生を生きなければならない。あくまで生きるというのは自分自身の主観的な行為である。自分でしなければどうしても身につかないということは確かにある。だから「する」(生きる)という行為は尊い。だが、そこに客観的な「観る」行為が欠けるのならば、自分を失ったり自分の狭い価値観に閉じこもることになってしまう。

ふと思いだしたのが、将棋ではなくてラスベガスのことだ。

アメリカに来てまもない頃、初めてラスベガスに行ったとき、僕は夜どおしブラックジャックのテーブルに坐って勝負をし続け、そのまま朝になって、一睡もせずに空港に向かったので、飛行機サンフランシスコに向けて飛び立ったのを知らず、気がついたら着陸していて、隣に坐っていた妻に呆れられた。その後も、ラスベガスは遠いのでなかなか足を伸ばせないので、レイク・タホのネバダ側まで、車での一泊旅行もよくした。

アメリカに来て二年半たって会社を創業した。最初のうちは休む間もなくて、なかなかラスベガスやタホに行く時間がなかった。

やっと暇を見つけて、さあ久しぶりに・・・と出かけたとき、僕はもう夜通しどころか、ほんのわずかな時間ブラックジャックのテーブルに坐って勝負することができなくなった。

会社を創業してからの日常は、ぜんぜん意識していなかったけれどじつは勝負・勝負の連続で、ブラックジャックのテーブルの上のチップとは比較にならぬ金額が、自分の判断の一つ一つによって、ちょっとしたことの成功と失敗の違いによって、出て行ったり入ってきたりするものなのだということが、ブラックジャックをやり始めてまもなく、鮮やかに身体でわかってしまったからである。

それ以来、ラスベガスやタホに行っても、ブラックジャックのテーブルに坐ることはなくなった。

「ものぐさ」さんの『人は結局自分人生を生きなければならない。あくまで生きるというのは自分自身の主観的な行為である。』という文章の言葉を借りれば、12年前に会社を始めたときに、僕は本当に「自分人生を生き」はじめ、その代償行為を必要としなくなったのだろう。

そして、ちょうどそんな時に巡り合ったのが、羽生さんの幻の名著「変わりゆく現代将棋」だった。以来、僕にとって、「将棋を観る」ことは、「生きる」という「自分自身の主観的な行為」を、客観的に「観る」ための触媒のような役割を果たすようになった。

だから「シリコンバレーから将棋を観る」という本を書くことになったとき、僕はこの「変わりゆく現代将棋」のことからしか書き始めようがなかった。

「はじめに」でも触れたように私自身は、十代のときに熱中していた将棋から、しばらく遠ざかっていた。

そんな私が、抗すことのできない大きな力によって将棋世界にぐいと引き戻されたのは、将棋未来本質示唆する羽生の魅力的な長期連載と出合い、度肝を抜かれたからだった。それが、羽生・未刊の名著「変わりゆく現代将棋」だった。

この著作を目にした瞬間、羽生の過激な思想は、圧倒的なインパクトを伴って私に迫ってきたのだった。

「変わりゆく現代将棋」は、一九九七年七月から始まって二〇〇〇年十二月に終了するまで、三年半にわたって『将棋世界』誌に毎号掲載された連載である。「第一章 矢倉」と題して続けられた羽生の思考が、毎号十ページ以上を費やしながら展開され、それが延々三年半にわたって続き、二〇〇〇年十二月に唐突に終了した。そして「第二章」は書かれることがなかった。その意味では「未完」の作品とも言え、それゆえか書籍化現在にいたっても行われておらず、残念ながら、幻の名著とも言うべき状況になっている作品である。

この連載が続けられていた二十世紀末、私はシリコンバレーから日本にやってくるたびに、出版社に勤める友人や雑誌編集者たちに「羽生善治が、とてつもない連載を始めたのを知っていますか」と問い、相手が将棋好きかどうかを問わずに、この連載について熱く語ったものだった。

(「シリコンバレーから将棋を観る」第一章より)

会社を始めたのが1997年5月。「変わりゆく現代将棋」の連載が始まったのがその直後の6月。この連載が続いていた間、シリコンバレーではインターネット革命の嵐が吹き荒れ、最後にはバブルがはじけることになった。それとともに、僕自身にとって生涯忘れられないような、怒涛の日々が続いていた。羽生さんと出会ったのは、そんな嵐がやんで一段落した頃、「変わりゆく現代将棋」連載が終わってまもない、2001年初夏の棋聖戦でのことだった。

僕にとって将棋とは、自分自身が「する」「生きる」ために「観る」ものであり、それ以外の付き合い方は考えられなかったのだった。

塚崎彰仁塚崎彰仁 2009/04/25 19:39 梅田望夫様。
始めまして、塚崎と申します。
この度ご出版されました、『シリコンバレーから将棋を観る』
を早速購入して拝読させて頂いております。
私も梅田様と同じように、将棋の観るファン、そして
将棋を指すファンでもあり、梅田様に共感出来る部分が
多々あります。私も梅田様の様に、いずれは将棋界に対する、
評論等を纏められたら良いなと感じております。
来月の13日はサイン会場でお逢いできそうです。
楽しみにしています。

2009 4 26 塚崎彰仁

石川石川 2009/04/28 17:56 日本で将棋仲間に囲まれている老後って、いかがですか?

勝負はいつか引退するしかないんですよ。

大昔みたいに、勝負の終わりが死というなら、これはこれで素晴しいですけど。

日本の将棋が世界に広がらないのは、この仲間観でしょうね。日本に生まれて日本で育つと、日本人としての血は濃くて、なかなかグローバルにはなれないのでしょう。はてなも、社長が外国人になれば、逆になって、世界企業になれる可能性があるし、もし私がお金をもっていたら投資したくなりますね。技術は確かに優秀で、シリコンバレーに負けていません。ただ、やっぱり、外国人の社長がリーダシップとれるか疑問なところもありますけど。

石川石川 2009/04/28 18:12 追記すると、対局中に、羽生さんにサインを求めた記者がいたのが、仲間観のもう一方かもしれませんね。確かに失礼といえば失礼な話だし、チェスの国際試合では絶対に起きそうもない。そもそも対局しているのも、狭い空間と広い空間という違いとかあるでしょうが。

で、たぶん、将棋界から見れば、梅田さんにはもっと日本にいて名文を書いて欲しいのではと思いますよ。

映画「あの頃ペニー・レインと」
http://ja.wikipedia.org/wiki/あの頃ペニー・レインと

こちらは、ロックバンドを書く若者を描いた映画ですけど、なぜ書くのかというのは世界共通だと思うし、将棋を書く人としては、梅田さんは才能の一人だと思いますよ。もっと売れるぐらい書くことにこだわってもいいのではないでしょうか? とくに、最近ずっと将棋界には、伝説に残るような物語がありませんし。物語を書く人がいないということでしょう。

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