My Life Between Silicon Valley and Japan このページをアンテナに追加 RSSフィード

2008-10-17

[] 竜王戦第一局リアルタイムネット観戦記

http://live.shogi.or.jp/ryuou/

こちらが竜王戦中継トップページ(棋譜更新関連情報はこちらから)

http://kifulog.shogi.or.jp/ryuou/

こちらが竜王戦中継plus(画像と文章で綴るもう一つの竜王戦中継)。ここに、中継スタッフ・チームのエントリーとともに、僕の観戦記も、時系列でアップされていきます。

http://kifulog.shogi.or.jp/ryuou/1/index.html

こちらから、僕のネット観戦記を通しで読むことができます。

明日午前9時(フランス時間)、日本時間土曜日午後4時、対局開始です。

2008-09-26

[] 大きなリスクを取ったゆえの勝利。深浦さんおめでとう!!!

深浦さんが二年連続羽生さんとの激闘七番勝負を制し、王位を防衛した。羽生七冠ロードに沸く中、それをひとまず阻止してタイトルを防衛した今日の第七局は、深浦さん生涯の一局と言っていいだろう。

人生には大きな大きな勝負がまれにあるけれど、この第49期王位戦七番勝負は、深浦さんにとってそういう勝負だった。相手はとんでもない強敵で、敗れれば無冠となる勝負。しかも、故郷・佐世保での第四局の勝利のあと、竜王挑戦者決定トーナメント、第五局、第六局と、対羽生戦三連敗を喫して迎えた第七局である。木村大山、中原、谷川羽生といった同時代の王者を相手に、こうした大勝負に敗れ、二度と再びタイトル戦に登場できなかった棋士は数多い。そこを乗り越えての勝利は、深浦さんを、将棋史でみたときに、間違いなく、一つ上のステージ棋士に引き上げたのだろうと思う。

シリーズは、7月14日から始まってひと夏かけての長丁場だった。第二局を豊田市に観戦に行ったのがはるか昔のことのように思える。

第二局、第三局、第四局、第七局が、深浦勝利局であるが、深浦さんは、このシリーズで勝ったすべての将棋で、積極果敢に大きなリスクを取っていた。この王位戦のひと夏を思い返したとき、そのことが鮮やかによみがえってくる。

第二局は、羽生問題提起「2手目△3二飛」で始まった「未知の将棋」において、

深浦時間を投入し慎重に駒組みを進めると、最も激しいとされる大決戦を選んだ。自信がなければ指せない順で、羽生の挑戦を堂々と受けて立ってみせた。奪った飛車羽生陣に打ち込み、初日から早くも終盤の様相を呈してきた。(週刊将棋7/30/2008)

という激しい戦いを選んだ。ただ、その結果は必ずしも大成功とは言えず、一時は劣勢になった末の逆転勝利であった。

第三局も、中盤で深浦優勢となった場面で、

△3三玉からの入玉含みで先手の攻めを余せるかどうかが控室の検討の中心だったが (週刊将棋8/6/2008)

そこで「△3三玉からの入玉含み」ではなくて△6六銀と踏み込む方を選んだ。ここからの7手が、熾烈な攻めあいで、△4八龍で、羽生陣に詰めろがかかった。「△4八龍(108手目)が詰めろでは負けです」が羽生感想だった。

第四局は、優勢になった瞬間の▲9二銀が強く印象に残る。

「急がず指すなら▲2二飛△3一飛成▲2六飛成。先手が相当に負けにくい形だ。ところが驚愕の一手が飛び出した。▲9二銀!」「意表の空間に銀が放り込まれると、終局近しを思わせた。あまりにも鮮やかな銀捨てだったからだ。羽生玉の薄みを見事に突いた手で、粘りは難しいはず。そのまま一方的な決着になるかと思われた。」(週刊将棋8/13/2008)。

しかしその後、

「数手進んでみると周囲の評価は一変。挑戦者の正しい応接に、勢い良く攻めていた流れはピタリと止められいかにも変調深浦優勢どころか、挑戦者の逆転かの声までも出始めていた。羽生の猛追に形勢は混沌。」(同)。

とあるように、リスクを取って攻め込んだ結果は、第二局同様、あまり芳しいものではなかった。

しかし、「▲2二飛△3一飛成▲2六飛成」でやや優勢のゆっくりした戦いに入るのを嫌い、あえて深浦さんは▲9二銀という激しい戦いを選択し、二転三転はしたけれど、「▲2二飛△3一飛成▲2六飛成」という戦いに入るのとは異質な将棋になったのだった。

中盤でかなり優勢になって、ゆっくりと指せば負けにくい形ができたにもかかわらず、そこから急流のように、どうしてそんなふうに指さなければいけないの、と周囲がいぶかるような「勢いのある攻め」の手を指して(当然、反動があって、それはこわい)、さらに形勢は盛り返されたりもしたのだけれど、最後はぎりぎりで勝った。

どの将棋も、対手の問題提起に対して、まったく逃げずに激しい戦いを選んでいた。その結果、一度は難解な局面を迎えたり、はっきり羽生有利になったりもしたが、最終的には深浦が踏み込んで勝つ、という流れになっていた。激流の中を二人で泳ぐような、最後は直感が勝負のカギを握り、最後までどちらが勝つかわからないような、そんな「難解な終盤戦」の読み比べを、二人の対局者は志向していた。

今日の第七局も、一日目の▲7七銀(35手目)という羽生問題提起に対して、深浦は大きなリスクを取って「ぎりぎりの攻め」に出て、そこから一気に激しい終盤戦に突入し、丸一日以上にわたり、終局まで難解な戦いが続いた。

総じて思うが、このシリーズでの深浦勝利の理由は、勝負所で積極果敢に大きなリスクを取ったことに尽きるように思う。

冒頭で、羽生七冠ロードを「ひとまず阻止」したと書いたが、90年代半ばの羽生七冠ロードは足掛け三年にもわたって続いた。羽生が保持したタイトルを防衛し続ける限り、七冠ロードは何年も続く可能性がある。

羽生さんに二年続けて勝たないと、「本物の王位」を名乗らせてはもらえないんですね。

羽生さんの王位挑戦が決まったとき、深浦さんはこう言っていた。

これで正真正銘の「本物の王位」。

深浦さん、本当におめでとうございます。

2008-08-07

[] 深浦さんのこと

佐世保出身の深浦康市王位は昨年、11年ぶりのビッグタイトル挑戦(羽生王位への挑戦)に際し、「九州へタイトルを持ち帰ります」と公言し、見事に有言実行した。

九州の西日本新聞は、そんな深浦王位としての初防衛戦をテーマに、「神が与えた対局 第49期王位戦七番勝負」という四回連載を組んだ。

 深浦さんが子どものころ通った将棋道場の主(あるじ)、川原潤一さん(59)=長崎県佐世保市=の、記憶に鮮やかな思い出が、感想戦の姿に重なってくる。

 一九八二年三月、第七回小学生将棋名人戦出場のため、小学五年生の深浦少年は川原さんと上京した。寝台列車の中で「『夢のごたー』とニコニコしとった」という深浦少年。二回戦で敗れたが翌日は「武者修行だァ」と都内の将棋クラブを回り、大人たちを負かして意気揚々、佐世保に帰った。優勝したのは六年生の羽生少年だった。(2008/07/31 西日本新聞)

羽生善治佐藤康光、森内俊之のライバル関係については、すでにすべて語り尽くされている感があるが、日本中の将棋の天才少年が各地で見出され、彼らが生涯かけて「天才の中の天才は誰なのか」を決めていく棋士の世界では、どんな棋士たちの間にも、子供の頃からのドラマがあるのだ。

「負けが見えても、何とかひっくり返そうと考えとる。粘り強い子やった」。長崎県佐世保市の将棋道場主・川原潤一さん(59)は、小学四年で入門してきた深浦少年の資質をこう振り返る。当時、道場で深浦さんのライバルだった野田真治さん(38)=福岡県大野城市=は言う。「内に秘めてるけど大変な負けず嫌い」

 小学六年の春、深浦少年は九州・山口のアマ棋士が競う宗像王位戦(本紙主催)に長崎県代表として出場する。この年の秋、ポツリと口にした言葉が「奨励会に入ってプロ棋士になりたい」。自分で意思表示するのが苦手な子だったから、周囲は驚いた。(中略)

 一九八四年春、小学校を卒業し、親類を頼って上京、奨励会に飛び込んだ深浦少年にとってもプロの壁は厚かった。最初の六級から五級になるのに一年。次々と抜かれた。自室に戻り、盤を抱えて悔し泣きした。

 中学を卒業すると一人でアパートを借りた。故郷からの仕送りが遅れ、三万円の家賃が払えなかったことがある。「大家さんに泣いて謝りました。情けなかった」(深浦さん) (2008/08/01 西日本新聞)

いま王位戦を戦う深浦羽生は一歳違いだが、今日までの軌跡は、おそろしく違う。

もう十年以上前に、青野九段が、二十代の深浦についてこんな文章を書いている(青野照市「勝負の視点」p153-160)。

深浦が上京したのは十二歳、つまり小学校を卒業したばかりの時であった。十二歳と言えばまだ子供である。

「よく親が出してくれました」

と本人は言うが、私だって十五歳で単身上京した時に、地元の人達はよく出したと言ったそうだから、この三年の差ははるかに大きい。(中略)

深浦が本当に強くなったのは、十五歳で親戚の家を出て一人で暮らし、対局の記録係等をたくさんやるようになってからである。対局に関しては無給の奨励会員にとって、親から送られる仕送りのほかは記録料がほとんど唯一の収入源で、また勉強の場でもあった。

その意味では、深浦は年は若いが昔風の修行を積んだ棋士と言ってよいだろう。(中略)

昨年の暮れ、将棋の普及で長崎の佐世保に行く機会があり、昼間は指導対局で夜は割烹『ふかうら』での打ち上げとなった。無論、深浦五段の実家である。

地元の魚と酒を飲み、夜遅く解散になった。私は御礼を言ってタクシーに乗り込み、しばらくして後ろを振り返ると、見えなくなるまで頭を下げているお父さんの姿があった。

僕が深浦さんと知り合ったのは、今年の四月のことである。将棋の世界のシーズンオフは、順位戦が終わった四月である。深浦王位、行方八段、野月七段、遠山四段の四人が、サンフランシスコとバンクーバーとシアトルに二週間の旅をするという。旧知の遠山四段から「サンフランシスコで食事でも」と誘われ、せっかくの機会なので、一日休みを取って、サンフランシスコに行ったのだった。どうせ夕食だけではすまず、そのあともかなり飲むだろうからと、その日のうちに帰宅するのは諦めて、皆と同じホテルに予約を入れておいた。

昼過ぎにホテルで集合し、軽く挨拶を交わしてすぐ、サンフランシスコ市内の僕が好きなスポットをいくつか車で案内してから、ゴールデンゲート・ブリッジを渡り、サウサリートという海辺の小さな街に行った。

いろいろなところをあわただしく回るより、海辺でのんびり話をするほうがいい、と皆が言うので、少し散歩しては話すみたいにして、午後のひとときをサウサリートで過ごした。

ぶらぶらと散歩しながら、成り行きでメジャーリーグの話題になったとき、

「メジャーリーグの球場で観戦していて感動するのは、観客がとにかく野球に詳しくて、みんな野球に没頭して見ていることなんだよね。たとえば、マイナーリーグからメジャーにその日初めて上がったという選手が、バッターボックスに入ったとするでしょう。電光掲示板にそんな案内なんか何も出ないのに、観客が総立ちでスタンディング・オベイションが始まるんだよ」

と僕が言ったら、行方さんがすぐに反応した。

「あったかいですよねえ。いいなあ。嬉しいだろうなあ。体がふるえますよね」

行方さんは半分泣きそうな顔になっていた。

そのとき、深浦さんがポツリとこう言ったのだ。

「日本でも、地方は、そういうところがあります」

深浦さんの郷里・佐世保への思い、九州への思いは本当に深いのだ、そして深浦さんを応援する地元の人たちは、きっとものすごく熱いのだろう。そう僕は思った。

6月9日、サンフランシスコのメンバー(プラスα)が、東京で再び集まった。まだそのときは、深浦さんが王位戦で戦う相手は決まっていなかった。王位挑戦者決定戦は、翌週の19日に、羽生二冠(当時)と橋本七段の間で行われることになっていたのだ。しかし深浦さんはその日「もう僕の中では、相手は決まっています」ときっぱりと言った。深浦さんの言葉からは、羽生さんと戦いたい、という静かな闘志が強く伝わってきた。特に、今年の王位戦第四局は佐世保での対局。彼は、郷里・佐世保で、王位として、羽生さんと戦いたかったのである。

そして果して深浦さんは昨日(8月7日)、郷里・佐世保で、王位として、羽生さんに勝ったのだった。「会心の笑顔」とは、こういう顔のことを言うのである。

深浦王位防衛まで「あと一番」となった王位戦第五局は、お盆休みで少し間があいて、8月26-27日に徳島で行われるが、深浦羽生の二人は、なんとその前に、竜王挑戦者を決める決勝トーナメントを戦う(8月13日)。

2008年の深浦康市王位には、羽生四冠の「七冠ロード」を止めるストッパーの役割が与えられているような気がします。王位戦で羽生奪取なら「五冠」、それを止めるのは深浦王位竜王戦で、羽生挑戦者になるための最初の大難関は、羽生深浦対決。

この間書いたけれど、まずは来週、8月13日の二人の再びの対決に要注目である。

2008-07-23

[] 棋聖戦を振り返っての観戦記(今日の産経新聞文化面)、ウェブでも読めるようになりました。

http://sankei.jp.msn.com/culture/shogi/080724/shg0807240810000-n1.htm

[] 王位戦第二局二日目

昨夜、東京に着きました。東京での最初の仕事が金曜日の朝からなので、今日は一日夏休みを取って、豊田市まで王位戦第二局を観戦に行ってきます(金曜早朝の新幹線で戻ると朝からの仕事に間に合うので)。

棋聖戦第一局の新潟と違って、リアルタイム・ウェブ観戦記を書かないので気楽です。一将棋ファンとして、大盤解説会などを楽しんでこようと思っています。一日目ですでに激しい面白い将棋になっていますね。

感想はいずれ、このブログで書きます。

2008年の深浦康市王位には、羽生四冠の「七冠ロード」を止めるストッパーの役割が与えられているような気がします。王位戦で羽生奪取なら「五冠」、それを止めるのは深浦王位竜王戦で、羽生挑戦者になるための最初の大難関は、羽生・深浦対決棋王戦の挑戦者決定戦トーナメントでも、羽生深浦は同じ山にいるのです。

2008-06-28

[] 「将棋を観る」啓蒙に人生を賭けた金子金五郎の原点

古書店で昭和17年刊行の「将棋錬成 名局を語る」(金子金五郎著)を入手して読み始めたが、じつに面白い。

金子金五郎、四十歳のときの作品である。

「私塾のすすめ」の座右の書三冊というコラムの中でも書いたように、金子はこのあと、昭和二十五年(48歳)から昭和六十一年(84歳)まで「近代将棋」に将棋解説を書き続けることになるのだが、この「将棋錬成 名局を語る」という本の序文に、金子が後半生の人生を賭けることとなる啓蒙のビジョンが明確に記されている。序を転記しておく。

現在の将棋愛好者は二様の楽しみを持っている。一つは闘はすことの悦びで他の一つは将棋を観る楽しみである。そして観る楽しみの最上なるものは棋譜といふ高段者の作品を鑑賞することであらう。

私は徳川時代の一文化として咲いた御城将棋といふ古名局棋譜に就いて語った。

読者が之によって古典的な将棋の持つ醍醐味を満喫して頂くことが出来れば私の目的は果されているのである。

更に読んで下さった人々が、之によって将棋を鑑賞するの態度を領得せられ、御自身が闘はす場合、闘中に鑑賞の清閑有りといふ態度を持たれる機縁ともなれば、私の悦びは一ツ加はることになる。

何故ならば、将棋を健全に娯楽するには闘はす将棋の外に鑑賞するの一面が不可欠と信ずるからである。


昭和十七年二月十五日 シンガポール陥落の日

八段 金子金五郎