My Life Between Silicon Valley and Japan このページをアンテナに追加 RSSフィード

2007-07-04

[] 今日短編(20) 小池昌代「タタド」(「新潮」07年6月号所収)

休暇は続く。今日7月4日アメリカはお休みあいかわらず本を読んでばかりいる。

「タタド」は同時代の短編小説の中では群を抜いて面白かった。

文芸誌に載っている多くの短編小説を読むとき、まず最初の一ページを読んで、さらに読みたいと思うかどうかで、全部読むかを決める。

この「タタド」は、大きな事件が起こるわけでもなく、ただ中年から初老にかけての四人の男と女の室内劇が最後まで続くだけなのだが、なぜか次へ次へとページを繰りたくなった。静謐な感じと緊張感とが混合された文章空間の背後にとても強い力を感じた。ちなみに最後まで読んでもなぜタイトルが「タタド」なのかわからない。それも不思議だったが、読み終わってみるとどうでもよくなった。

2007-07-02

[] 今日短編(19) 井上靖「生きる」(「石濤」所収)

本を読んでばかりいる。

孔子」にとりかかる直前、著者最晩年の日常を綴ったもの。食道がん手術後、無意識のうちに何度も発していた言葉家族によれば、

地獄はあの世にはない。若しあるとすれば、この世にある。

だったと言う。

それから三年という歳月が流れている現在でも、その断定は、私の心の中の静かな安定の座を占めている、と言うことができる。"地獄"は来世にはなくて、いま生きている、この現世にあるのである。

そして隠遁について。

隠遁しようと思っても隠遁したりすることはできない。若しそういう隠遁者があったら、それは隠遁者とは言えないだろう。隠遁とは、自分が気付いてみたら、いつか、みごとに、世間というものと交渉を断っていた。或いは断たれていた。―それでいて、それが、さして淋しくも感じないし、気にもならない。これが隠遁というものなのだろう。

井上作品は、「異国の星」「本覚坊遺文」「孔子」を繰り返し読む。中でも本覚坊の「隠遁生活」が心にしみる。

異国の星〈下〉 (講談社文庫)

異国の星〈下〉 (講談社文庫)

井上靖全集〈第22巻〉

井上靖全集〈第22巻〉

孔子 (新潮文庫)

孔子 (新潮文庫)


[] 今日短編(18) 多和田葉子「海に落とした名前」

久しぶりの休暇中。

他者の悪夢の中に迷い込んだよう。

記憶がない。自分の名前がみつからない。手がかりはポケットの中のレシートだけ。スーパー本屋ロシアサウナ・・・・・・。」

という帯の文章からは、主人公の「落とした名前」を探す物語が始まるのかと思いきや・・・・

多和田葉子は、想像もつかぬことを書く人である。

海に落とした名前

海に落とした名前

読後、検索したら、管啓次郎氏のこの短編集への書評発見。この短編の直前に読んでいたのが氏の「ホノルルブラジル―熱帯作文集」(この人の文章にはいろいろな意味で豊穣な時間が凝縮されているから好きだ)だった。偶然が楽しい。でも偶然は必然なのかもしれない。

ホノルル、ブラジル―熱帯作文集

ホノルル、ブラジル―熱帯作文集

2007-06-30

[] 今日短編(17) ウラジミール・ナボコフ「怪物双生児の生涯の数場面」

怪物双生児の短いが強烈な印象を残す一人語り。若島正新訳でナボコフ作品を読むと何かまったく新しい「日本語による不思議な作品」と接しているような感想を持つ。

たとえば冒頭でいきなりどきっとして引き込まれてしまう文章。

東洋薔薇とも、白頭翁アヘムの真珠とも謳われた末娘は(それならそれで、あの爺いももっと大切にしてやればよさそうなものなのに)、道端の果樹園でぼくたちの父親に当たる不詳の人物に強姦され、出産後まもなく死んでしまった---恐ろしさと悲しさのあまりに、だと思う。ハンガリーの行商人だという噂もあれば、ドイツの鳥類蒐集家かその探検隊の一員だという噂もあった---剥製師あたりがいちばん怪しい。浅黒く、ずっしりとした首輪をぶら下げ、薔薇油と羊肉の臭いがするかさばった衣装をつけた叔母たちが、悪鬼のような熱心さでぼくたち怪物双生児の面倒を見てくれた。

ぞーっとするような野蛮、悪意、残酷さが物理的な臭いを伴って顕れる、なんとも凄い文章だと思う。サンリオ文庫版の旧訳では同じ部分がこういう文章になっている。

祖父の末むすめは「東洋のバラ」だの「白髪頭のアヘムの真珠」などといわれていた。もし、そうだったなら、あの爺いめ、もっと大事にすればよかったろうに! その娘が果樹園で男に犯された。犯した奴はだれだかわからないが、とにかくぼくらの父にあたる。娘はぼくらふたりを生むとまもなく死んだ---きっと恐ろしさと悲しさで死んだのだろう。犯人ハンガリー人の行商人だという噂もあり、ドイツ人の鳥類蒐集家かその仲間だという噂もあったが、どうやらそのドイツ人が連れてきた剥製師だったらしい。ぼくら怪物双生児の世話は何人もいる伯母たちが猛烈に熱をあげてしてくれた。肌の浅黒い、ネックレースをごてごてぶら下げた伯母たちで、がばがばかさばる服にローズ香水の匂いがした。

話の筋は同じだが、「謳われた」「道端の」「不詳の人物」「いちばん怪しい」「探検隊の一員」「薔薇油と羊肉の臭い」「かさばった衣装」「悪鬼のような熱心さ」という選び抜かれた訳語があることで、まったく印象の違う素晴らしい文章に生まれ変わっている。

若島訳「ロリータ」新訳は、大長編のすみずみまで、まったく同様の言葉の魔術が満載されて緊張の糸が切れない渾身の訳業である。

ロリータ (新潮文庫)

ロリータ (新潮文庫)

[] 今日短編(16) イーサン・ケイニンアメリカン・ビューティ」

映画とは無関係の作品。それぞれに問題を抱えた二十七歳の兄と十九歳の姉と暮らす十六歳のまともな僕。父親は失踪して不在。母親と、その家に入り浸る母の友達を加えた、五人の緊張感に満ちた日常が淡々と描かれる。

兄貴は僕に、すごく大事なことをお前に教えてやろうと言った。「でもすんなりそのまま教えるのはよす。ふだんの話のなかに盛り込むことにする。この夏のあいだに、いつか言うからな。」

家を出ていくことになった兄が僕に言う「すごく大事なこと」とは何か。少年小説を読むと、いつもせつなくなる。

Don't worry boys―現代アメリカ少年小説集

Don't worry boys―現代アメリカ少年小説集

2007-06-28

[] 今日短編(15) レイモンド・カーヴァー「愛について語るときに我々の語ること」

構想に一年ほど時間をかけ、この三ヶ月はそれだけに集中して没頭していた大きな仕事が終わった。あとは微調整だけだ。なんか終わったら世界の色が違って見える。ずっと頭の中が泥の海を這いずり回っていたからだろう。

この「短編小説」というカテゴリーは、短編小説なら毎日一編ずつ読めるだろうという思いつきから始めてはみたものの長続きしない(始めるのはいつも夏だ)が、今日からはいつまで続くだろう。

レイモンド・カーヴァー「愛について語るときに我々の語ること(What We Talk about When We Talk about Love.)」。

四人の男女(三十代から四十代)が台所でジントニックを飲みながら、それぞれの愛について語る。名優を集めたこの芝居を小劇場で見たら素晴らしそう。

2006-08-13

[] 今日短編(14) 堀江敏幸「レミントン・ポータブル」

「河岸忘日抄」を読んでから、堀江敏幸の小説と評論と紀行とエッセイが一体になったような静謐な文章を、好んで読むようになった。

「河岸忘日抄」を読んでいた去年の今頃、「ぐずぐずして何もしないでいられる時間」

http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20050806/p2

と「無為と待機」

http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20050810/p1

でこの本について触れた。その後「河岸忘日抄」は読売文学賞を受賞する。

「『河岸忘日抄(かがんぼうじつしょう)』 ためらいも決断の集積 」

http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20060201bk07.htm

住まいに近いセーヌ河畔を歩いていたら船が浮かんでいる。あの中に入ったらどうなるだろう。小説はそこから始まった。

 「書く前は、船にいる男の人の話ということだけしか決まっていませんでした。船の中のことも全部想像で書いたので、実際とは違っているかも知れません」

 繋留(けいりゅう)された船を借りて暮らす〈彼〉は、古いレコードに針を落とし、本を読み、訪ねてくる郵便配達夫とコーヒーを飲みながら語り合う。たゆたうような日常は、一面お気楽な高等遊民を思わせるが、その向こうではイラク戦争へ続くきな臭い時間が流れ、それに対する真摯(しんし)な〈彼〉の思索が続く。

 「今の世の中で、完全に隠棲(いんせい)することはありえない。横で進んでいる世界の動きがあれば、普通に書いていることの中にも、自然に入り込んで来る」

 「彼はためらっているけれど、うじうじしているわけではない。ためらいとは小さな決断の集積であり、常に動的なことだと僕は思っています」

堀江敏幸「レミントン・ポータブル」

郊外へ (白水Uブックス―エッセイの小径)

郊外へ (白水Uブックス―エッセイの小径)

所収。