「他力」という「悪」

もはや「誰が」と限ることも難しいまでに進行する、格闘への忌避と無謬性への信仰。
――これはどこから来ているのか。


韓流がジャンルとして定着し、そして嫌韓流もまたその影として色を濃くしている。
だが、中身がお粗末なのはどちらも同じである。


「我が信じるものが無条件で正しいのだ」とする、その一点に於いて、双方が双方ともに優劣の差をなくして――粗末なものである。
――これはどこから来ているのか。


一言で言うことは可能だが、もし言ったとすれば、それこそ「信仰告白」に過ぎないことになる。


その間違った断定をあえて表に出すならば、「それが日本人性というものだ」といったようなことになる。


だが、それではあまりに愚かに過ぎる。
それが、ただ一つの回答を提示すると同時に、他のあらゆる因果律の網の目を曇り隠することになるからなのは、言うまでもない。


――「民族という信仰」


それがもはやフィクションである時代に生きることとは何なのであるか。
人々は考える振りをして……その「振り」をすることに疲れたのだろうか。


だが、意図をして、作為をして生きる時代とは、そもそも終わりのない「振り」を続けることにこそ、その「振り」という振る舞いのプロセスにこそ、答えを垣間見ようとしていたのではなかったか。


――だが、人々は疲れたのか。
いや、ひとびとに徐々に与えられた「ゆとり」が、人々に「振り」をやめさせ「癒し」へと誘導したのか。


知的格闘ではなく、無謬性信仰に。


その信じる先にあるものが、いったいどのような「神」であるかを問い直す「力」は、「ゆとり」によってあいまいに癒され、篭絡されつつある。


誰もが皆、「信じるもの」へと後退しつつある。


まるで、信じることで真実、救われるかのように。


だが、救われるのは「信じられるもの」であっても、決して「信じるもの」ではない。


信仰の対象となるものは、信じられることによって、信じられれば信じられるほど、救われていく。
――だが、その逆はない。
信仰の担い手は、信じれば信じるほど、その対称に裏切られていくものなのだ。


「信仰」とは、「問い」を捨てることである。


自らの「力」を放棄することである。


「他力」とは、決して「この世」ではもたらされない救いを、「あの世」へと映し出して見せたものであり……
――それは「この世」の尺度に於いては、本来、「悪」の名で呼ばれるべきものである。