「脱オタ」という名の「自己責任論」

〜大乗主義の自覚〜
どこまで言っても僕は、こぼれ落ちる人間がいると感じたらそれらを自らに重ね合わせることをやめられないのだ。どうしても。
どう違うというのだ?彼我の間にいかなる決定的要因が、差異が存在するというのか?


なぜそうも簡単に、こぼれ落ちる人間を見逃すことができるのか?


なぜそうも簡単に、小乗主義の人々は「助かる人間だけ助かればいい」などと言えるのか。


この違和感、この不信感――どこかで感じたことがある。


そう、「脱オタ」の名で説かれる多くの説のほとんどは、結局、
 「 自 己 責 任 論 」 なのだ。


あの忌まわしい、「自己責任論」なのだ。




それは、大学という空間にも、より踏み込んで言えば教授陣の心性の中にも含まれている。
「大学とは勉強する人間だけが勉強すればいいのよ。私は研究者なんだから私の思い通りに自分で勉強する人間の面倒しか見ないわ。」


その結果できあがるのが、「ピアノ教室の発表会」的なグロテスクなえこひいきの風景だ。


結局、「脱オタ」というのも、
ファッションという「差異化の構造」を再生産するための補完材料としてオタクが食い物にされているだけではないのか?


未開拓のフロンティアを、無理やりグローバルな市場に組み込んで利益を上げるための方便になってはいないだろうか?