誤読としての批判への批判〜都合のいいときばかり「子ども」を持ち出す大人〜

都合のいいときばかり子どもに憧れる大人たち
それこそ、「そういう話じゃないだろう、と思う。」だ。


ここで槍玉に挙げられているのはLife is beautiful: 大人になると誰も間違いを指摘してくれなくなるという記事だが、さて、いったいこの記事の要点はどこにあったのだろうか。


肝心なのは、そもそも文章における要点というものは、文章量の多寡とはまったく関係が無いということである。いかに膨大な量の文章量があろうと、その中に込められたメッセージ――要点が、たった一言であるということはよくあることだ。
モヒカン族というのも、「お前は間違っている」というただ一言を、いかに婉曲的に表現するかというものだとも言える。


それを踏まえるならば、悪役(ヒール)を担わされた記事の要点が、長々と示された「ワイン通の間違いついてのエピソード」で無いことは明らかである。


もちろん、テクストは「開かれている」。
ひとつの文章からひとつの「正しい結論」をのみ、読み取らなければならないということはない。それでは、悪しき「国語の試験」になってしまう。
つまりは、いかなる誤読であろうと、それは「テクストの範囲内」だということである。あらゆる「読み」の可能性までを含めて「ひとつのテクスト」なのだ。


だが、開かれているからといって、その文章の要点を誤読して批判にかけるということに対しては、それが間違いであるとして指摘をしてしかるべきだろう。


さて、その要点とは――ただひとこと言いたかったこととはいったい何か。
と、ここでは先に否定的に見据えた国語の試験的なテクニックが生きてくる。
つまり、ある水準にある文章においては、その核なりその結論なりというものが、往々にして文章の結部において示されており、そしてそれこそが文章の要点である確率が高い、ということである。
また、ある水準にある文章というものには、それにつけられたタイトルというものに、結論への、つまり要点への補助線が引かれている、ということである。


であるとするならば、さて、「大人になると誰も間違いを指摘してくれなくなる」というタイトルの文章における結論部は以下のようであった。

その時にも思ったのだが、「間違いを指摘してもらえる大人」にならなければいけないとつくづく思う。このブログでも、しょっちゅう誤字・脱字を繰り返している私だが、それを指摘してくれる人には本当に感謝しなければいけない。遠慮がちに、「あげ足を取るようで申し訳ありませんが…」と指摘してくれる人がいるのだが、大歓迎なので、これからもどんどん、遠慮せずに私の誤りを指摘していただきたい。


いかがだろうか。
この文章の80%が読まなくてもいい修飾部――かざりであることは、はっきりしているのではないだろうか。
肝心なのは上に引用した部分のみである。


これは、「度量のある懐の深い人間になろうと思う」という宣言であり、あるいは「みなさんもいかがですか」という呼びかけでもある。
もちろん、何をか宣言するのは自由であるし、また、それが「呼びかけ」であるとしてもそれが強制力を持つものでないことは明らかであることから、それをもって否定することもできないはずである。
――もちろん、誤読もテクストのうちではあるが。


そして、この文章に対する批判が「都合のいいときばかり子どもに憧れる大人たち」というタイトルで投げかけられた。


のだが、


この批判は、何気にさらりと、しかして、最もやってはいけない誤りを犯している。


それは、「当の文中に書かれていないことを勝手に読み込んでそれを「要点」だとして批判している」ということである。
それは、「子ども」という概念にまつわる批判、「子ども」という概念を軸にした批判である。


この誤読としての批判が「どこから来ているのか」は確かに理解できる。
だが、それがこの文章に対する批判としてまったく不適切であることも確かである。


その誤読としての批判の出所は、確かに「大人」という言葉である。しかし、その言葉に対する批判として「子ども」という言葉――「子ども」という概念を導くことは、まったく当たらない。
なぜならば、批判先の当の文章の中に「子ども」という言葉は一度たりともでてこないからである。


もちろん、書かれていないのだからそこには明にせよ暗にせよ対概念的な意味は含まれていない、書かれていないことは言及の対象にならないなどというような、ことを言うのではない。もちろん、書かれていないことこそが重要なテーマとなりうることも十分にある。


が、しかし、


先の要点における「大人」という言葉の使い方、その概念の文中における意味合いを見る限り、批判の核となった「子ども」は、単なる対概念として想起されることが許容され得るというレベルでしかないのではないか。


ここで言われる「大人」とは、「人間」という意味合いの使われ方ではないのかというのが、私の理解だ。
先の要点のまとめに示した「度量のある懐の深い人間になろうと思う」というのは、そのような理解に基づいている。
もっとも肝心なことは、当のsatoshiさんの文章の中に、「子どもの間違い」云々と言う文章が一句たりとも出てこないと言う点にある。


であれば、それに対して何をことさらに言上げようとするのか。

satoshiさんは、なんだかありがちな言葉をタイトルに付けて、納得されてしまったようだ。

と言うが、ありがちな間違い――誤読に陥っているのはどちらなのか。それも、要点を外した誤読である。
誤読を基にした批判に、ここまで書かれるようないわれはないだろう。

「間違いを指摘してもらえる大人」にならなければいけないとつくづく思う。と satoshi さんはいう。私は、少し気になる。
satoshi さんは、子どもなら間違いを指摘される、と考えている。

と言うように考えているのは、「satoshiさん」ではなく、「徳保隆夫さん本人」である。
それゆえに、その考えを核として、そこから批判をとうとうと述べることが出来得ているのだ。


ここでまた誤解の内容に言っておくが、私は何も徳保隆夫さんの考え方自体を批判したいのではなく、それがsatoshiさんへの批判として提示されていることに対して批判をしたいのである。


両者の文章は本来、まったく別々に書かれてしかるべきものだ。
徳保隆夫さんの「都合のいいときばかり子どもに憧れる大人たち」と言う観点にしても、「なんだかありがちなタイトル」ではあるが、それはそれだけ広く共感を得られるような視点だということでもある。
であればこそ、その文章が批判として書かれたことに対して、非常に惜しいと感じるのだ。


「人としての度量」を語る文章に、「子どもを肴にして大人の賢しさを言祝ぐな」というのは、当の度量に甘えた揚げ足取りにしかなっていないと思う。


実際、徳保隆夫さん自身もこういっているのではないか。

目下の者、自分が御せる相手の生意気は、可愛い。対等の相手の生意気は、ムカつく。本来は目下の相手が制御不能の生意気ぶりを発揮すると、ぶっ殺したくなる。


この「ぶっ殺したくなる」と言う衝動に安易に走らない度量をこそ、satoshiさんは訴えていたのではなかっただろうか。


それに対して「尊敬」とか「感謝」などという「なんだかありがちな」言葉を持ち出して、道徳的観点から周囲に自らの優位性をアピールしようというのは、正直いただけない。


ブログはディベートゲームじゃない。