混乱の二重奏【書評】『アーティスト症候群』【広告】その2

そして、その「問い」への回避が生み出した本書が抱えるもう一つの困難は、今言ったアート問題とそれとは別の「アート」問題が混雑したまま展開された内容にある。
すなわち、「アートというジャンルにまつわる問題」と、「消費される「アート」という現象にまつわる問題」とが織りなす混乱の二重奏。それこそが、読者からの称賛と非難という副旋律を生み出しているのだ。
そしてそこでこそ、第7章における著者の告白が再び重要な位置を占めるようになる。「アートという問い」の文脈においては、「問い」を放棄したとの告白に過ぎなくなる内容が、「アート」現象――著者のいう「アーティスト症候群」の文脈においては、問題の重要な核心として浮上するのだ。先に書評した『自分探しが止まらない』の欺瞞性と対極をなす誠実さとして。
44ページと4ページ。この差は大きい。両者の間には、単なる文字数という量的な差異の上に、一章を割いた記述とあとがきでの言い訳的な記述という質的な差が歴然として存在している。もちろん、前者が『アーティスト症候群』であり、後者が『自分探しが止まらない』だ。
だが、それ以上にもっとひどい1ページ強という例がある。その「もっとひどい例」を紹介しよう。

あとがき
「大卒の出来損ないこそがテロリストになる」などと結論づけたことから、筆者を随分嫌みなエリートだと思う人がいるかもしれない。実際には私もかつてその「出来損ない」の一人だった。大学を出たものの就職もできず、ザカリア・ムサウイのごとく自分探しの旅に出て、崖っぷちをふらふらしていたのが、二十年前の私の姿だったからだ。
私もまかり間違えればテロリストになっていたのだろうか。当時流れ着いたパリでイスラム過激派はまだあまりはやりではなかったが、出会いときっかけ次第では新興宗教や右翼、左翼のカルトに入って仲間を勧誘して回っていたのか。
「もちろん、その可能性はあったでしょう」。テロリストを生み出す構造について対話を重ねたフランスのセクトカルト教団)専門家アンヌ・フルニエは否定しなかった。「でも、あなたも私もそうはならず、今こうして向き合っている。セクトに絡め取られない何かが備わっていたのではないでしょうか」。
同じような境遇にいながら組織に引っかかる者と引っかからない者がいる。テロリストになる者とならない者がいる。どこに違いがあるのか。フルニエは、それが「自我」ではないかと推測する。つまり、テロリストとなるには、私はあまりにわがままだったらしいのである。(以下はお決まりの関係者へのお礼なので省略)
*1

これは、国末憲人『自爆テロリストの正体』のあとがきである。200ページ強を費やして「自分探し」を否定した後に示されるささやかな同情じみた、体のいい言い訳である。
ここから、「自分探し」語りにおける著者の不誠実性という問題が存在していることがわかる。それは逆に言えば、「自分語り」をすれば誠実さの証明となり、それがなければ不誠実だとみなされるという問題だ。
もちろん、「自分探し」語りにおいて「自分語り」を差し挟むことは、「本論」の趣旨から外れることにもなり、また文章を完成させるという目的の前に余計な困難を抱え込むことにもなる。切り捨てる方が簡単なのだ。社会から「自分探し」バカを切り捨てる方が簡単であるし、本論から「自分語り」を切り捨てる方が簡単であるし、あらゆる意味においてそれは確かなのである。
だが、そこにこそ「問題」があるのではないのか。それこそが「問題」なのではないのか。
ここに先の「アート」とまったく同じ構造が再び浮かび上がる。すなわち、「自分探し」という問題そのものを保存したまま、「「自分探し」というものが存在する」ということを「答え」にしてしまうという「問題」が。
「問題」そのものを積み残したまま、メタ批判的な位置から語ることを「答え」としてしまうその態度は、控えめに言ってトートロジーであるし、有り体に言えば欺瞞である。「自分探し」語りにおける著者の不誠実性とは、問題回避を問題回避として認識しないその態度にこそある。
そして、本書が奏でる混乱の二重奏はここでクライマックスを迎える。
「自分語り」の告白によって誠実さを担保しているにもかかわらず、「アーティスト症候群」を語る中で著者は再び「問題」を回避するのである。
「アーティスト症候群」とは若者の内面の問題であると、「オンリーワンのアイデンティティを求める承認欲求」であると結論づけるのである。これはどういうことを意味するのか。
「アーティスト」になりたいのは「オンリーワン」になりたいからだ、と言い換えればおわかりだろうか。
「アーティスト」が「オンリーワン」のものだとみなされているからこそ、それが求められるのだとすれば、それは「オンリーワン」になりたいのは「オンリーワン」になりたいからだ、と言っているのと同じなのではないのか。「アーティスト」を「アイデンティティ」にしたいから「アーティスト」になりたい、でもいい。「承認欲求」が足りないから「承認欲求」を満たしたい、でも同じことだ。
この「○○になりたいのは、○○になりたいからだ」という説明を聞いて、何かわかることがあるだろうか。
「自分語り」を告白しているのにも関わらず、本書が他の「自分探し」語りと同様の批判を免れないのは、トートロジートートロジーとして提示することを「答え」にしてしまっている点にこそある。
「なぜそのトートロジーが発生するのか」という問題を回避するからこそ、他者の内面という不可知の言い訳に「答え」を見いだしてしまうのだ。
本書のロジックは次の一文に要約できる。「アート」には何かすごいものという「イメージ」がある。それは、本来のアートが持っていた権威がイメージの源泉である。しかし、現在では敷居が引き下げられ、範囲が広げられ、アートが「アート」になっている。だから、「アート」には何かすごいものという「イメージ」がある。
……で、っていう。
わずか一冊の本でアートについての「わかりやすい答え」が出せないことは、先にも言ったように理解できる。しかし、「アートという問いから降りている」ことが原因となって、この本にはアートについての「とりあえずの結論」すらないのである。
では、「アート」についての答えならあるのか。しかし、それもまた本書のロジックからは導けない。「アーティスト症候群」として語られる心理が、カッコ抜きのアート志望者の心理としても通用してしまうからだ。
「アートと「アート」には垣根なんかないんだ。」辛辣に批判されていたはずの読者が、アートは「アート」なんだ。「アート」はアートなんだ。僕はここにいていいんだ!――こう思ってもなんの問題もないまま、本書は幕を閉じている。アートという自意識から上から目線でレベルの低い「アート」を批判していたはずの著者が、まるで「すべてのチルドレンにおめでとう。」を言っているようにさえ感じられる。これを歪んだ愛情表現という言葉で済ませていいのだろうか。
「アーティスト」が「オンリーワン」だという問題については、本書で語られているように「そうではなく、そうである」。誰でもがなれるものであるが、誰もが到達できるものではない。アートと「アート」。前提となるはずのその線引きがあいまいなものだった故に、「アーティスト症候群」批判は、その足場を確保しえていないようにみえる。アートから降りたつもりで、「アート」に着地している。いや、これは「アーティスト症候群」称賛の本だったのか。
アートと「アート」という問題の積み残しがどこまでも暗い陰を差している。
もちろん、一つ一つの事例を丁寧に拾っていくなら、その作業を経て、確かにアートと「アート」の違いを、とりあえずの「わかりやすい答え」を、読み解くことはできる。だが、それは読者の仕事なのだろうか。問いが問いのままの形で投げかけられ、ちりばめられたヒントから「答え」を拾い集めるという作業は、「問い」への答えとして提示された本の読者が当然予想するべきものなのだろうか。
読者にはあらゆる意味での読解という可能性が開かれている、という文学理論的正論を盾に取られて、それで納得できるというものではないだろう。これは書籍なら校了で許されても、論文なら初稿で突き返されるレベルの内容だ。前提と結論がそのまま直線的につながっているなど、卒論でも許されないありえないロジックだ。
「とりあえずの結論」くらい著者自身がつむぎ出しておくべきだった。一読者として、そう言ってもバチはあたらないだろう。
その意味では、著者本人が言うように、本書も『自分探しが止まらない』と同様の一時代の事例集という史料的な内容に止まっているといわざるを得ない。いや、内容の混乱が二重奏を描いている分、余計にタチが悪い。とりあえずの批判的印象すら、読み終わった後にはポストモダン的に相対化されてしまうのだから。


だがもしかすると、「自分探し」語りが不誠実なものである理由とは、この「混乱」にあるのかもしれない。
不誠実さが著者に与えるメリットというものがあるのかもしれない。
その観点からこの欺瞞=トートロジーについて考えてみたとき、まず考え付くのが、不誠実でなければ「答え」がトートロジーであることが明らかになってしまうから、というものがある。すなわち、「問いの存在そのもの」をメタ批判するという不誠実さがなければ、「答え」が導けないのである。当たり前と言えば当たり前だが、「問いを回避する」ためには、「問いそのもの」について語れば紙幅は費やせてしまうのだ。そしてもちろん、その方がお手軽なのだ。
では、「自分語り」をしないという不誠実さについては、どうだろうか。一般的に「自分探し」批判者はなぜ「自分語り」を拒否するのか。それは、自らがすでに安心・安定を得ているからであり、またその自覚が、現在の自分を語ることが「彼ら」に対する間接的差別意識の発露になると認識させているからである。あるいは、より根源的な部分では、自分を語ること、今の安心・安定を語ることそのものが、「語る」という行為が、「自分探し」そのものであることを直感し、その「語る」という行為が、すなわち自らへの懐疑無しには成しえないものであることを理解し、そして、「語る」という行為が今の安心・安定を足元から突き崩すものであることを体感しているからであろう。
「自分語り」がされない理由は、「自分語り」をすることから「自分探し」への「答え」を導こうとすることが、「わかりやすい」はずの批判、「やりたかった」はずの批判、上から目線の非難を、足元から瓦解させてしまうからに他ならない。
そして、その不誠実さを乗り越え、誠実さを担保する告白を挟んだ上で本論を組み立てたとしても、そこにはさらに困難な「問い」が待ち構えている。「自分探し」の果ての「自分発見」「本当の自分」を信念として認めるというのであれば、「いったい何が問題として残るのか」という問題である。
これこそが本来、問い突き詰められねばならない「問いの核心」ではないのか。
だが、それを語ろうとするのはもはや書評の内とはいえないだろう。




<追記>
次回【広告】【書評】予告
『思想地図 vol.1』
オレが刻の涙を見る……*2

*1:ちなみに、このテロリスト「自我」起因説については、私はそれが悪質な心理主義であると断罪する。そのことは、「犯行は極めて自己中心的で酌量の余地は全くない。」という有罪判決におけるお決まりの文句を提示するだけで証明できる。テロリストあるいは犯罪者とは、常にその「わがままさ」をこそ罪とされるのだ。

*2:物理的にかつ物量的にツライ。もらったんだから書かないとしょうがないだろ!!と思うんだけどマジツライ