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能登のうみやまブシ(西山郷史)

2016年-06月-28日-Tue

能登はやさしや土までも

「能登はやさしや、土までも」は、『三日月日記』(元禄9、1696)に初めて見える、
杵歌の7・7・7・5下二句、7・5。

いわゆる国風(くにぶり)を詠ったもので、その前には加賀越中の国風が詠み込まれている。
それ以外の歌詞伝承もなく、…能登はやさしや土までもの例文についても
以下に挙げ尽くしていたと思っていた。
能登はやさしや土までも

ところが、能登を取り上げた泉鏡花作品を見ていたら、次の「能登はやさしや…」があることに気づいた。
言葉を縦横に操る鏡花のことだから、7・7は創作だろうが、紹介しておく。
「女ばかりか草さへ菜さへ
能登は優しや土までも」
『河伯令嬢』昭和2年4月
河伯は、能登で言う,水主(みずし)、河童である

この話(『河伯令嬢』)は、飾り職人羽咋郡大笹の旅館で,藩政期の俳人が書き残した「能登路の記ー河裳明神縁起」を見るところから始まる。
今、車の通る大笹の地は旅館などあったようには見えないところだが、山道を行くと
思わぬ街道町が現れる。
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国道はこの牛ヶ首を通っている。
バス停が、
北陸鉄道は「牛首」
コミュニティバス(町営)は「牛ヶ首」
表記が違うのは珍しい。


独り言ー案外あるのかも知れない。
白山麓に「牛首紬」がある。これはウシクビ紬(つむぎ)。
大笹の地名は「ウシガクビ」。
ということで、どちらもOKなのだが

2016年-06月-27日-Mon

『土徳流離』上映-25日-そして…


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北陸中日新聞
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北國新聞

見た人は、すべて感激、何度も涙
そして、それぞれの地でーうつむいたところが台やすみれ草ーのささやかさだろうが、土徳を伝えていくのだの、力、身に満つ。

25日はいろんな行事が重なり、また祠堂経を営んでおいでるお寺もあり、折角当地で見る機会がありながら、日程の理由で見ることが出来なかった方々がおいでる。
それで、午前・午後の日程の代わりに、もう一度上映の機会をいただいた。
30日、午後1時から当寺で。
どなたでも、都合がつけば来ていただきたい。

原監督は、宮本常一姫田忠義の流れを汲み、姫田氏との作品も多い。
これだけ聞いても作品の誠実さが伝わってくる。

2016年-06月-22日-Wed

彦根 6月10日(金)

6月11日の日本宗教民俗学会総会にあわせ、
長年の念願だった能登川町墓地竹生島訪問をかなえようと
1日目は彦根、2日目は能登川、3日目に金沢泊の行程を考えた。
結局、能登川と、京都での用事を済ませたが、竹生島と学会は縁がなかった。
9日午前中の用事を済ませ、金沢から彦根へ向かう。
散策
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ポストがいい。
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堀の水が豊か。夕景に刻々と色を変えていく。
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滋賀経済学部前のポスト。

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落ち着いた町並み。
びわ湖が近そうなので、歩いている人に聞くと、歩いて10分ほどだという。
びわ湖ではない方向に歩きははじめたようで、
ホテルにたどり着いたのが夜八時。
先達はあらまほしきものなり。
流行りのスマホがあれば調べられたのだろうが、
使うのはこのような時で、年に一回あるか無いか…いらない。

才田ー蓮如上人の里ー巴陵宣明師碑、御亭(おちん)山 4月23日

蓮如上人御影が吉崎に到着する4月23日、
私は才田を通って京都からの帰途についた。
近くには木越町があって、蓮如上人五色の梅で知られる福千寺、
休みになったと伝える御亭山(おちんやま)がある。
近郊を散策してみた。
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ビル金沢医科大
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須須幾神社
スズのいわれをいっぱい載せた『珠洲散策ノート』1には、須須吉(芒、万葉集)、須須許理名(古事記)が載るが、須須幾はない。
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講師宣明 姓巴陵氏

4月16日南砺市太田氏と会った時
巴陵姓の話をした、というか聞いた。
巴の陵である木曾義仲最後にも登場する巴御前の陵墓を守っていた
いわば時宗(じしゅう)系聖と関わる姓ではないだろうか、という話なのだが、説得力がある。
その南砺の帰りに、高岡の開正寺によって住職の巴陵氏とその事などを話し合った。
その巴陵宣明講師の碑に出会ったのだ。
よりによって、この才田法圓寺のご出身だったとは…。
帰って写真文字を確かめてビックリしている。
もちろん、巴陵氏に電話。碑があることは知らなかったが、法圓寺の出であることは知っていた。

碑文は大谷大学第6代学長上杉文秀師。
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以下、お亭山。
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虎石かも知れない。

もう一つ、法園寺坊守さんの素晴らしい絵を取り入れた本をもっていることにも、調べているうちに気づいた。
石井澄江氏画

2016年-06月-21日-Tue

六部データー、ふるさとふれ合い能登校講座「能登文化の広がり」6月20日

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石川県中島町史』資料編上巻(平成7年3月刊)
中島町の民俗p837
七尾の六部
六十六部回国塔
20日能登ふれ合い講座の折、石仏学会の方にお会いして、六部についてほんの少し話し合った。
中島町史で書いた記憶があったので、その旨をお話ししたのだが、バタバタと講座の日を迎え、
25日の「土徳流離」の打ち合わせ・準備や、空海伝説の伝説地地図落とし、
地消地産情報誌「能登」の原稿、27日の同朋会推進員会の案内文作りなどを抱えていたのと、
帰って手紙のやりとりなどを見れば連絡はすぐ付くと思ったのが甘かった。

今日21日は宮犬に調査に入られるとのこと。
上記のすべきことが今朝9時までに出来てしまい、そうなると、かねてから気にしていた宮犬の庚申塔を一緒に探したくてたまらなくなった、が、手紙などは資料の山に埋もれていて探しだせず連絡のしようがない。


思い当たる地を案内できないのなら、せめて「中島町史」の該当場所をと、ここにデーターとしてお付けした。ご利用いただきたい。
町史のこの文は私が書いたのだが、「寄進札」をいつ見たのか(あるいは何で知ったのか)思い出せない。
中島町史は、教員を辞め、父が亡くなり、他の民俗執筆陣がことごとく事情があって原稿を書けなくなった時の仕事だった。


講座に戻ると、この講座が始まったころから担当の元先生方を知っていたこともあり、連続5回の講義や、バスでの史跡巡りなどを行い、この3月まで途切れることなく担当の先生方と親しくつき合わせていただいた。
今年になって、担当者が全て代わり、昨日は知らない場で話しているような気分でいたのだが、今回のお約束をさせていただいた私にとっての最後の担当者たちは、そろって講座に顔を出してくださった。そのメンバーのうち2人が、「中島町史」を一緒にやったメンバーだったのである
彼らは近世、私は民俗。余裕のあったころで定期的に全体会がもたれた。そのメンバーの一人とは、ことあるごとに「北上夜曲」を歌った。
それから20年、中島町はなくなり、それぞれがそれぞれの道を歩み(といっても、3人とも校長さんだがー1人は飯田高校百周年でおせわになったー)、数年前にこの場で再会した。
今、寄り合って総合的な調査をすることはまずない。
その懐かしいメンバーが3月に去り、私は、その前に決まっていた約束を、誰に知らせることもt特にせず、昨日果たした。
今までだったら、NさんやKさんが講座を聞きに来られたはずだとの思いと、慣れた会場で語りかける相手が見つけられない、間の持ち方がたまらない。
今日は夏至
夏至の前の日が、わたしにとっての大きな節目となった。

今後は、知りたい人がいるなら、長年色々調べたエリアを案内したり、文献を知らせたりする道を歩むのことになるのだろうなぁ、と漠然と思っていた、
そのことが、すぐに、庚申塔、六部という形で現れたのである。
そして、力になれなかった…。
それで、あせっている。

能登文化の広がり

能登校講座
レジメ4-1
レジメ4-2

2016年-06月-20日-Mon

水と信仰ー能登川(滋賀県)へー6月10日、11日

昭和46年12月21日。後輩の相馬信行君がガンで世を去った。
ドンヨリとした寒い日。葬儀の後、彼の亡骸を、集落土葬地へ野辺送りをした。
そのことも含め、昭和54年に「水と信仰」(コミュニティジャーナル「いしかわ」7月号)を書いた。
この文によって、某誌の記者さんと知り合いになり、今もつきあいが続いている。
時折、相馬君を思い出しては、あの埋められていった地はどうなっているのだろう、と考えることがあった。
今年の宗教民俗学会6月11日京都で開かれるのを機に、訪ねてみることにした。
学会の方は、家で用事が出来、参加できなかったが、相馬君の想い出はたどることが出来た。
「水と信仰」2-1
「水と信仰」2-2

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土葬地だったところ。あの頃一基だけお墓があった。
この一角に埋めていくと、ほぼ33年くらいで、一周して元地に埋めることになる、と聞いた。
そして、2、3年経つとお棺が腐り、土が沈むのだとも話してくれていた。

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彼の地は洪水で流れたことがあり、新たな地に墓地が設けられた。
火葬地帯の墓地になっている。
45年の歳月を想う。

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最初駅前ホテル荷物を預け、お寺の名を言って調べてもらった。
お手と同名の地名があるとは知らず、調べてくれたのが目的地とは反対方向にある地名の場だった。
そんなことはわからないから、思っていたよりも遠いと感じだし、
昭和46年は多くの友たちと野辺送りをしたので、それほど遠くは感じなかったのだろうか、とか、
体型が変わりすぎて、遠く感じるのだろうかと思いながら、暑い中を能登川高校を過ぎ、東海道線沿線に沿ってひたすら歩く。
ようやく着いたところが地名の安楽寺と天台寺院だった。
あとでわかったのだが、目的地とは反対の方向に向かっていたことになる。
しかし、さすがに滋賀
見所がぽつぽつとある
まず、地蔵

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伊庭御殿遺跡
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名がいい。望湖神社
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安楽寺。
ここで引き返す。
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能登川駅
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このブログ記事を書いたのを機に、相馬君の遺稿集「小さき鮎の歌」を取り出して見た。
あらためて、すごい文が並んでいる。
相馬君は言うに及ばず、同世代だろう吉村しをりさんという人の文など、「すっげぇきれるじゃん(ついていけんぞ)」と思いながら読んだ。
そして、彼と病院で合わせてくれた人物がいるはずなのだが、母親の思い出の記に出てくる、武藤さん(武藤紹生)という人が、その人だったはずだ、とぼやーと思い出しつつある。
10日は、能登川高校の横を通りながら、彼はここを卒業したのだ、と感慨に浸りながら歩いたのだけれど、経歴では彦根東高校卒業になっている。
前日、彦根東高校付近を歩いたぞ。
彦根東の名に感じていた懐かしさは、「小さき鮎の歌」の記憶があったためだったのだろうか…。