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能登のうみやまブシ(西山郷史)

2016年-09月-27日-Tue

三木清ーたつの・龍野、名塩、蓮如池ー


三木清氏

私にとって、最初の龍野は、三木清だった。
学生時代全集宣伝に、
西田門下のマルクス主義哲学者俊英、破防法によって獄中にあった人々が解放された、まず、三木を救えだった、最後親鸞に行き着き未完の「親鸞」がある…等々。
真宗雰囲気がない静岡で、聖人に飢えていた私は、アルバイト料などをつぎ込んで、一冊500円の全集(全19巻)を購入した。

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『三木清全集第十八巻』岩波書店
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「親鸞」目次
第一章と、第四章しかない。
後記にこうある。
「著者の死後、埼玉疎開先に残されていた遺稿である
はじめに発見された草稿は二百字詰の原稿用紙百八十七枚であったが、翌年すなわち昭和二十一(一九四六)年の秋、その一章をなす「歴史自覚」と題する原稿九十七枚(二百字詰)が、デカルト省察』の訳稿といっしょに発見された。昭和十九(一九四四)年三月、著者が官憲検挙された際、警視庁押収されていたのが、敗戦後、自由法曹団の手を通して回収され、遺族の手に戻ってきたのである。(以下略)」
九つの題名を記した一枚の遺稿があり、残された原稿に書かれていた内容を当てはめたのが、目次である。
今になって、一章と四章しかないことに気づいた。

全部完成していれば、河北西田幾多郎竜野風土が受け継いでの勝れた「親鸞」が世に残ったはずだった。

19巻の全集を残しての享年49歳。

西田、三木、戸坂

※三木の死によって、1945年は、西田幾多郎、三木清、そして戸坂潤の三人の師弟が同時になくなるという、哲学界にとっても実に喪失の大きい年となった。法名は、真実院釋清心。なお蔵書は法政大学に所蔵されている。1997年龍野市から名誉市民称号が与えられた。(この部分、ウキペディア)
西田は宇ノ気、戸坂は富来、そして三木。
エー!なんだこのすごい取り合わせは…!だ。
1968年3月18日刊。


若き頃、大谷龍谷教師もしていたそうだが、清沢満之ばかりで三木清の研究は聞こえてこない(たぶん私が知らないだけだろう)。

全集にもどると、
早い配本の巻にドイツ語で書いた論があった。
全巻読もうと購入しだした本だったので、
ドイツ語から勉強しなくてはと、岩波の「ドイツ語入門」を買って、数ページ勉強した。
英語で言うとWhat is this?にあたる、バスイストダスまで進んだところで、挫折した。
18巻は先の先だったけど、読んだ形跡がある。

友の後輩

学生時代卒論を書くために、かつて叔父下宿していた下宿先にお世話になりながら、大谷大学へ行って、図書館学内本屋さんで参考文献を捜した。
高校同級生が谷大におり、全てを頼り切っての数日だった。
その彼が、児文研(?)とかいう児童教化サークルに入っていて、その部活もついていった。その時のながれに本山参詣があったようで、本山へもついていった。そこで、自然に合掌される姿の美しさに出会った。
自己否定、ラジカル、誰の何のための大学か?
微妙なズレを遅くまで語り合い、主義・主張がぶつかりあっていたその頃、)
堂内に「ぜんまいののの字ばかりの寂光土」(川端茅舎)を感じさせる場が生まれたことに驚いた。
その方は、全学封鎖中の大学からやってきて、たぶん勇ましことを言っていた先輩の同級生に、うさんくささというか相容れないものを感じられたのだろう、
一・二度質問なさったはずだ。
その方が、同級生から龍野の人と聞いた。

元正樹師

住職になってから、多くの著作があり、多くの方々に影響を与えた藤元正樹師が龍野だと知った。
能登教務所連続教学講座の講師をなさっていたから、あるいは
どこかでお会いしているのかも知れないが、同朋大会などの講義も含めて聞いたり、出会った記憶はない。


平成8年(1996)2月15日、龍野など

龍野へは行ってるはずだ。
蓮如上人足跡を尋ねて、各地を巡っていた頃、
確か、6歳で別れた上人の母親が、西国の人とのことで、上人が龍野あたりに御坊を建て、お探しになられた、という話しがあった。
それで、訪ねたはずである。
「蓮如習俗論」には、一言だが、西宮名塩の「蓮如池」、出口光善寺なども取り上げたから、それらの御旧跡を訪ねる旅でもあったはずである。


その頃の記録をあらためて調べると
平成8年(1996)2月12日山科勧修寺随心院別院守山ー金森ー赤野井
13、14日本山教導(蓮如上人)研修
15日、姫路ー龍野ー姫路ー神戸三宮深川公園
16日、ー有馬温泉三田ー名塩ー教行寺ー蓮如池ー大阪京橋ー出口光善寺ー京都金沢帰宅
となっている。電車・バスで巡ったのだから、行動力があった時代だ。
写真も出てきた。
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竜野駅

三木露風

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赤とんぼ」の三木露風も龍野だと知ったは、三木清を知った頃ではなかっただろうか…。
赤とんぼを、ねえやに背「負われて」見たので、「追われて」見たのではないことを知ったのは、いつの日だったか…。

如来寺三木露風碑
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竜野御坊・円光寺
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有馬温泉御所

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教行寺へ
御文もっともあるお寺。教行寺版御文。

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名塩教行寺
前年の1月17日、ほぼ一年前に「阪神・淡路大震災」が襲った。
石垣が崩れているのは、その地震による。

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文明7年お箸

名塩・蓮如池

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蓮如池
18年前、宅地造成景観が大きく変わろうとしてる、その中に、ぽつんと池があった。
今は、どうなっているだろう…。

*平成8年(1996)2月15、16日ー2014(平成26)年ブログ部分再録のつもりが、他の部分(西脇修氏との思い出など)消してしまった。

2016年-09月-26日-Mon

西田幾多生誕地ー西田幾多・三木清・戸坂潤と真宗ー準備

27日(火)、富来町活性化センター(14:00〜)で富来郷土史研究会が開かれる。
それに発表する「西田幾多・三木清・戸坂潤と真宗」の資料用に幾多の生家を訪ねて、写真を撮ってきた。
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発表資料(22枚、写真は含まず)を、館長さんにお渡しして、
お話しもくこと出来ればと思って「西田幾多記念哲学館」を訪ねたのだが
月曜日休みだった。
記念館から実家方向を望む。
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書斎「骨清窟(こっせいくつ)」。
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西田家跡。付近一帯。
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公民館、幾多銅像。横の石は磐持ち石
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西田家跡地説明
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相撲取り碑に揮毫している。
極めて珍しい。
『唐戸山相撲史』(昭和46)で調べると、
昭和九年上山大関に「若ノ浦外吉、宇ノ気森」と出ている。
かい間違いの多い本なので、浦ではなく故郷「森」すなわち「若ノ森」のはずだ。
ちなみに、この年の下山大関は能登ヶ浜政一(羽咋郡上棚)である
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西田家墓地

2016年-09月-23日-Fri

木仏安置御免・貞享二年七月四日

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20日、家の歴史を調べておいでる御当主が訪ねてこられて、御内仏の写真を見せていただいた。その一枚。
木仏の向かって左に先のご本尊である六字名号が掛かっており、いわゆる蓮如上人(〜証如)の草書名号である。
その家は、旧若山荘中心地の中心の家である。
この木仏御免の年号が貞享二年であることに興味を持った。
貞享二年(1685)は、加賀藩がまとまった寺社由来(貞享の書上)を書き上げさせた年で、
能登四郡は、
羽咋郡が八月廿日、
能登郡が七月十九日、
鳳至郡が八月二十九日、
珠洲郡が六月二十三日付けで書きあげている。
この木仏は、珠洲郡が終わって間もなく免許となったものである。


同じ旧若山荘鈴内には、前田利家出身地尾張一楊(ひとつやなぎ)庄荒子道場」「宣如」「寛永八年(一六三一)」とある古い木仏もある。
これは中世の役人名・正司を家名にする家であり、
村の中心的姓を持つ家に貞享の木仏があり、
まだ紹介していないが、別エリアの、やはり集落本家筋の家には証如版・御文もあった。

加賀藩政に農民代表が十村や肝煎として関わっているが、
そのような家には、本願寺からの木仏安置がステータスとしてあったのかも知れない。
江戸初期の在家仏

時代は下るが、大谷派本願寺第十九世達如上人室が鷹司正熙の長女・依子で、
次女の隆子が加賀藩第十一代藩主斉広(なりなが)だったことが思われる。
藩・本願寺・門徒関係は相当深かった。
親鸞聖人550回忌御遠忌追慕和歌

雨池家

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訪ねてこられた目的は、古い親戚である雨池家について分からないだろうか?
だった。
その家については、2009年ブログよみがえる岩坂村の旧家と題して紹介していた。
家がそのまま残っていると思っておられず、大変驚いておられたが、調べられたのを聞いていると新たに分かったことがある。
雨池は、文政頃の記録では「甘池」家となっていた。
宝篋印塔は、雨池家墓地から移したのだそうだ。
などなど…

お彼岸

昨日はお彼岸の中日
お参り、お説教がある。
お彼岸に拝読するお経は、どこでも阿弥陀経なのだろうが、
当寺の場合、上げ御講のお参り(正信偈・同朋奉讃)があり、御消息宣如御書を拝読する。
本来、野々江地区の御門徒が寄り集まり、お斎料理の準備をし、お斎をいただいた。
その後に、お彼岸のお参りとなり、いわば2つの仏事を中日様には営んでいるいることになる。

お斎は0〜の食中毒話題になった頃から学校でのバザーなどと共に急激に行われなくなった。
当寺の立地地は町域なので、野菜などを持ち寄って精進料理をいただくお斎は、無理があった。
それで在所御講は、上げ御講という形を取っている。
在所門徒さんから見れば、一緒に正信偈・御和讃を読み、御書様を聞き、お供え物をいただき
引き続いてのお彼岸のお経をいただき、説教・法話を聞いて恩徳讃斉唱、となる。

それで、お説教も布教師を招待せず、私が話している。
「地語り」という。
それでも一座・二席。
話す内容をメモ書きにし、締めに「彼岸御文」を拝読する案を立てた。
身の回りがゴチャゴチャで、彼岸の御文を『蓮如上人行実』から探し出してコピーする前に、お参りの時が来た。

あとでブログを見ると、「彼岸の御文」を全文載せている。
お彼岸ーデーター
この場でプリントアウトすれば解決していたのだ。
必要資料をすぐ出せるようにこのブログを始めたのではなかったのか?
と、自分に問いかけている。
つまるところ、自分のやっていることを信じていない、ことが分かった。

能登立国1300年講演ー9月25日於「番伊」

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北陸中日新聞・朝刊、能登版。
新聞を見て、こういうことがあったのを知っていれば出かけたのにと思うことがしばしばある。
このように、先に知らせていただくのは有り難い。
私の紹介が、「珠洲市在住の真宗大谷派西勝寺住職で、能登の民俗歴史文化研究家(として活躍している)西山郷史さん」
と書いてある。
こんな分かりやすい紹介の仕方があるのだなぁ、と感心している。
肩書きは、「能登」25号あたりから日本宗教民俗学会委員」で通している。

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記念誌「絆」が届いた。
毎年一ページを割いて、数枚の写真を載せた写真集である
和気藹々。
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今度の企画

2016年-09月-22日-Thu

五来重先生と真宗ー3ー『五来重著作集』全12巻の編者・月報執筆者、そのジャンル

著作集に関わった方々の専門を確かめる。
宮本さんのようにお亡くなった方も含め、知り合いは11人。

各巻タイトル、編者・解説、月報執筆者

※以下は、発行時の肩書き、専攻である
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ちなみに編集担当の上別府茂氏は三昧聖の研究者

第1巻、日本仏教民俗学の構築(解説=鈴木昭英)※日本宗教民俗学会代表・修験道

1仏教民俗学の提唱
2仏教民浴学の方法
3仏教民浴学の回顧

[月報1]

五来先生と角川の出版高取利尚 ※元角川書店編集部
仏教民俗学から日本宗教民俗学へ…豊島修 ※大谷大学教授熊野修験
仏教民俗学と五来重先生…藤井正雄 ※大正大学名誉教授・葬・浄土宗

第2巻、聖の系譜と庶民仏教(解説=伊藤唯真) ※仏教大学名誉教授 ※浄土宗

高野聖
善光寺まいり

[月報2]

日本から出た柳田國男と五来重…根井浄 ※龍谷大学教授・補陀落渡海
五来重先生に民俗学を学んだころ…浦西勉 ※奈良教委・宮座
五来民浴字と狩猟研究…永松敦 宮崎公立大教授・狩猟

第3巻、日本人死生観と葬墓史(解説=赤田光男) ※帝塚山大学教授・アニミズム

1日本人の死生観・他界
2葬法と葬儀
3墓と供養

[月報3]

五来重先生の学問と私…田中久夫 ※神戸女子大名誉教授・古代仏教
五来重先生を囲んで.…奥村隆彦 ※医師近畿民俗参与金石文
高野山麗の両墓制から…宮本佳典 ※橋本市文化財保護委員・両墓制

第4巻、寺社縁起伝承文化(解説=福田晃) ※立命館大名誉教授・説話 

1寺社縁起
2縁起絵巻
3仏教文学
4伝承文化

[月報4]

五来先生の路を辿って
元興寺から高野山へー…阿部泰郎 ※名古屋大院教授・中世文芸
学恩…大島建彦 ※東洋大名誉教授・民間文芸
五来先生との出合い木村至宏 成安造形大学長・近江
墓守の禅僧…五来重 ※朝日新聞

第5巻、修験道の修行と宗教民俗(解説=宮家準)※慶応大名誉教授・修験道

はじめに
1修行
遍路と修験
3木食・念仏と修験
4修行のあかし一験競べ
5聖火・聖と宗教民俗
おわりに

[月報5]

修験道研究における先生の足跡…宮本袈裟雄 ※武蔵大教授・里山
大峯山取材行…服部友彦 ※淡交社副社長
五来先生の採訪旅覚…藤田定興 ※福島県文化財保護審議委員・近世修験

第6巻、修験道霊山の歴史信仰(解説=鈴木昭英) ※(前出)

1偽甬ξ郢海山岳信仰と修験道
諸国霊山九峰の修験道と信仰
3修験道文化・伝承論

[月報6]

僧と巫のあいだ…佐々木宏幹 ※駒澤大名誉教授・シャーマニズム
五来重先生の〈熊野信仰〉研究の広がり…山本殖生 ※新宮市学芸員熊野三山
能登の海と五来先生…西山郷史 ※元珠洲資料館館長・真宗民俗・能登.、私

第7巻、民間芸能史(解説=山路興造) ※民俗芸能学会代表・中世芸能

踊念仏風流
2民間芸能の諸相
3芸能史と民間芸能

[月報7]

五来先生の門下生から…吉田清 ※花園大名誉教授・真宗民俗・善光寺まいり解説
思い出すまま…武内範男 ※元畠山記念館学芸員・茶花
五来先生との出会いー『山岳宗教史研究叢書』の編集・取材より…岡倉捷郎 ※「あしなか」編集・房総
妄想するなかれ…五来重 ※朝日新聞・夕刊

第8巻、宗教歳時史(解説=藤井正雄)※大正大名誉教授・先祖祭祀

1宗教歳時記
2歳時記の宗教行事〈解説〉
年中行事と宗教民俗学

[月報8]

三輪山のむくろが谷…谷川健一地名研究所所長
五来重先生とご母堂、そして奥様についてー「五来学」の意図するもの河野豊 ※トータル・システム代表・門下生
母ありきーー五来先生、母を語る ※朝日新聞

第9巻、庶民信仰と日本文化(解説=小松和彦) ※国際日本文化センター教授・陰陽道妖怪

1元興寺極楽坊と中世庶民信仰
2庶民信仰の論理
3付論

[月報9]

高野聖の一側面…薗田香融関西大学名誉教授・古代仏教
五来先生に字んだ四年間…下坂守 ※奈良大教授・中世寺院
私にとっての柳田國男…五来重 ※東京新聞

第10巻、木食遊行聖の宗教活動と系譜(解説=伊藤唯真) ※(前出)

1弾誓の宗教体系
円空の造像の軌跡
3木喰の造像の軌跡

[月報10]

五来先生と円空…池田勇次 ※元美並村史編纂委員・円空
「火」と「水」と「風」関根秀治 ※平安女学院客員教授茶道

第11巻、葬と供養・上(解説=赤田光夫)※(前出)

1葬法論一凶霊魂と鎮魂
2葬具論一その宗教的観念

[月報11]

五来先生と融通念仏…浜田全真 ※融通念仏宗勧学林教授・融通念仏
五来重先生と立山芦峅寺の布橋大灌頂ー立山博物館福江充 ※立山博物館学芸員・立山曼荼羅
業の世の美しさ…五来重 ※朝日新聞

第12巻、葬と供養・下(解説=赤田光夫)

2葬具論一その宗教的観念
3葬儀論1一臨終儀礼
4葬儀論2一殯飲儀礼

[月報12]

短くも最要の御縁…頼富本宏 ※種智院大学学長空海・曼荼羅
父を想う…吉田龍子 ※長女
「本巻」完結にあたって…法蔵館

別巻年譜・著作団録・全巻索引

以上


こうしてみる限り、真宗と五来重の関係はなさそうであるが、
念のため親鸞覚如、その他真宗関係用語を調べてみたら、
何と、全巻に親鸞名が載っている。その他の語も、結構多く取り上げられている。

具体的にどの場面で用いられているのか、これから検証し、五来重と真宗、という未知のテーマ資料を作ることになろう。

そこで、五来ゼミ出身の真宗僧たちが身近にいないか、勉強会を立ち上げてもいいかな、と
古い名簿を見ると、すぐ近くのお寺の住職で、高校時代の教え子が五来先生のお弟子だった。
彼は五十歳過ぎ。
寺役で出会い、早速その話しをすると、五来先生に習ったのは私の父で、私は五来重というかたは話では聞いていますが見たこともありません、という。
現実は、そういうことなのだ…。
一人でやるしかない。

木仏安置御免・貞享二年七月四日

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20日、家の歴史を調べておいでる御当主が訪ねてこられて、御内仏の写真を見せていただいた。その一枚。
木仏の向かって左に先のご本尊である六字名号が掛かっており、いわゆる蓮如上人(〜証如)の草書名号である。
その家は、旧若山荘中心地の中心の家である。
この木仏御免の年号が貞享二年であることに興味を持った。
貞享二年(1685)は、加賀藩がまとまった寺社由来(貞享の書上)を書き上げさせた年で、
能登四郡は、
羽咋郡が八月廿日、
能登郡が七月十九日、
鳳至郡が八月二十九日、
珠洲郡が六月二十三日付けで書きあげている。
この木仏は、珠洲郡が終わって間もなく免許となったものである。


同じ旧若山荘鈴内には、前田利家出身地尾張一楊(ひとつやなぎ)庄荒子道場」「宣如」「寛永八年(一六三一)」とある古い木仏もある。
これは中世の役人名・正司を家名にする家であり、
村の中心的姓を持つ家に貞享の木仏があり、
まだ紹介していないが、別エリアの、やはり集落本家筋の家には証如版・御文もあった。

加賀藩政に農民代表が十村や肝煎として関わっているが、
そのような家には、本願寺からの木仏安置がステータスとしてあったのかも知れない。
江戸初期の在家仏

時代は下るが、大谷派本願寺第十九世達如上人室が鷹司正熙の長女・依子で、
次女の隆子が加賀藩第十一代藩主斉広(なりなが)だったことが思われる。
藩・本願寺・門徒関係は相当深かった。
親鸞聖人550回忌御遠忌追慕和歌

2016年-09月-21日-Wed

五来先生の真宗◆/申ヾ愀乎書

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五来重(先生省略)の真宗関係著書は、
1回目に取り上げた『歎異抄』の他に、次の著作がある。
  時代順に※( )は通仏教 ○は『五来重著作集』所収

北陸門徒関東移民(著作集第9巻)1950・昭和25年

伊勢三日市の「おんない」と真宗高田派の大念仏(著作集第1巻)1961・昭和36年

 高野山における親鸞聖人像 1961昭和36年

 阿弥陀如来使者妙好人 1966昭和41年 

 『日本を知る辞典』項目、親鸞、浄土真宗、(彼岸会)、報恩講 1971・昭和46年

 (仏教の供花生け花) 1973・昭和48年

 『慕帰絵』に見える趣味生活 1978・昭和53年

○歎異抄 解説 1977・昭和52年 (著作集第4巻)

  本文

 民俗文学 親鸞と庶民信仰野間宏 1978・昭和53年

 (日本料理と仏教) 1979・昭和54年

 善光寺ー庶民信仰・親鸞機15 1984・昭和59年

 (対談)親鸞の実像を求めてー佐藤正英 1985・昭和60年

○『善光寺まいり』平凡社 1987・昭和62年   (著作集第2巻)

 『鑑賞歎異抄』 東方出版 1991・平成3年

 親鸞の実像を求めて 再録 『親鸞の核心を求めて』青土社 1993・平成5年

 『文学と民俗を語る』(宗教民俗集成8)角川書店 1995・平成7年
以上『五来重著作集別巻』による。
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『文学と民俗を語る〈対談〉』
「親鸞と庶民信仰ー野間宏」所収
角川書店、平成7年刊
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対談者。右上から
五来重、瀬戸内寂聴田辺聖子新田次郎
左上から
松谷みよ子
野間宏
秋元松代
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現代思想1985、6
特集=親鸞」青土社、
対談「親鸞の実像を求めて」五来重、佐藤正英
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『親鸞の核心をさぐる』
1992年平成4年、青土社
上記対談再録
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『善光寺まいり』平凡社、1988、昭和63年
解説:吉田
『五来重著作集』第2巻所収

五来重先生の真宗−

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歎異抄」目次
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仏教文学の窓・執筆者


まり知られていないようだが、五来重(ごらいしげる)先生の著に『歎異抄』がある。
角川書店刊・五来重編『鑑賞日本古典文学 第20巻 仏教文学』所収のもので、仏教民俗学樹立し、庶民仏教研究第一人者だけに、極めて示唆に富み、例えば悪人正機悪人を、多くの研究書はこね回して、結局よくわからない悪人像を描き出すのだが、五来歎異抄の分析は、外連味(けれんみ)がない。

この本は絶版で、歎異抄部分が『鑑賞歎異抄』として1991年東方出版から刊行されているものの同様で、五来重著作集大成『五来重著作集』全12巻・別巻1(法蔵館)に含まれているかどうかを見た。
著作集のタイトルを見ただけでは親鸞聖人関係の論・本が載っているようには思えないのだが、別巻の索引、著作目録がしっかりしていて、第4巻『寺社縁起伝承文化』に『歎異抄』の解説だけが載っている ことがわかった。
『仏教文学』歎異抄は21ページ〜138ページ。
解説文はそのうちの5ページである



一部をここに採録する。

五来重『歎異抄』

(『鑑賞日本古典文学』第20巻仏教文学、角川書店、昭和52年刊)

解説(部分)

 『歎異抄』撰述の動機は、しばしば序と法語にかたられているように.親鷺没後の異義を歎き、自分が直接きいた先師の真意を書きのこしたかったからである。
その時期も『慕帰絵詞』(第三巻)に、
  正応元年(一本延慶元年)冬の比、常陸国河和田唯円房と号せし法侶上洛しけるとぎ、対面して日来不審の法文にをいて、善.悪二業を決し、今度あまたの問題をあげて、自他数遍の談にをよびけり。かの唯円大徳は鸞聖人の面授なり。鴻才弁舌の名誉ありしかば、これに対してもますます当流の気味を添いけるとぞ
とある(と欠か)ころに、本願寺宗主覚如に語ったところを記したものとするのが妥当であろう。
それは覚如が本願寺教団を統一するために、親鸞の真意を面授の弟子から聞く必要があったからである。覚如は十八歳の時、弘安十年十一月十九日に、親鸞の孫、東山如信からも「他力摂生ノ信証」を口伝され、血脈を相承している。
 また延慶三年、二十一歳のとぎは関東に赴いて面授の弟子たちに会い、如信ばかりでなく、慈信房善鷺にも会った。このようにして曾祖父親鸞の法語から浄土真宗教理構成しようとした。(『仏教文学』26ページ、『五来重選集』第四巻ー寺社縁起と伝承文化ー、177ページ)
「慕帰絵詞」と歎異抄の関係に触れているのは少ないのでは…。

【善人】

この一条の文では「自力作善の人」のことである。
ところが現代の『歎異抄』讃美者は.本質は悪人であるのに善人を装う人、偽善者というふうに解する。
これは文脈を全部読まないで、独断する入に多い。現代的異安心である。
「善人なをもちて往生をとぐ、いはんや悪人をや」のあとに「自力作善の人は、ひとへに他力を頼む心か(欠)けたるあひだ、弥陀の本願にあらず」とあって、親鸞が善人は「自力作善の人」を指したことはあきらかである。
そのような善人が、他の仏菩薩の救済にあずかることは否定しない。
しかし弥陀の救済にあずかろうとすれば「自力のこころをひるがへして、他力を頼む」ことが必要だといっている。(『仏教文学』42ページ、)

善人と悪人

この条(第3条)は「悪人正機」を説いたものとして、『歎異抄』のなかでもっとも有名である。しかしそれだけにいろいろの解釈がされている。
そのもとは善人と悪人の解釈の相違によるものといってよい。
これを親鷲の意図とは関係なしに、「我かく思う」という独断が多いが、これは親鸞を材料にして自分の思想をのべたものといえよう。この場合は自分の思想や哲学の弱点を、親鸞の名で補うといったような使い方もなされる。
ある作家の文学や思想家の忠想は、全体の文脈に沿って忠実に把握した上で、自分の思想や文学表現にその由を断って引用することは可能だとおもう。しかし自分の好ぎな箇所だけを、好きな意味につかうことは、原作への冒涜(ぼうとく)といわなければならない。
その意味で「善人なをもちて往生をとぐ、いはんや悪人をや」は、それだけとりあげると、善人蔑如、悪人讃美という反社会的破壊的思想につながってゆく。そのようなラジカリズムにこの言葉は使われすぎた。こ
れは親鸞の本当の意志でないことは、親鸞の消息をあつめた『末灯鈔』や『御消息集』に善乗坊らの造悪無碍の誡(いまし)めとして語っている。
すなわち「浄土宗まことのそこをもしらずして、不可思議放逸无慚のものどものなかに、悪はおもふさまにふるまふべしとおほせられ候なるこそ、かへすかへすもあるべくも候はず」とある。
またもう一つは悪人というのは社会底辺人間で、居沽(とこ)の下類」すなわち殺生するものや商人のことだとする。
あるいは「群萌」とか「群生」とかいう大衆こそ「悪人」だという説もある。
そのような大衆を味方とするジェスチュァは、大衆にすぐ見破られてしまう。
また「人間とは、悪人の別名だ」というような立言をする者もある。
一種の擬悪主義なのだが、これは「宗教立場からすれば」という限定がなければ、酔っ払い放言でしかなくなる。
しかし親鸞がここで言っているのは、原罪とか根本悪という意味の悪人でないことは勿論である。
ここで善人というのは、四二ページにのべたように、「自力作善の人」なのであるから、ここの文脈からいえぱ「自力作善をしない人」、あるいは「自力作善ができないと絶望して、自分は悪人だと自覚した人」ということになり、親鸞はまさにこの意味の悪人にあたる。
そのような自覚をして弥陀の本願だけにすがる悪人こそ、他力往生の正機なのである。
(『仏教文学』43、44ページ)


私は静岡大学卒論に「親鸞和讃の文学性」(指導南信一教官)を書き、教師資格住職)を取るため大谷大学修士課程を目指した。
受験の場で分かったのだが、大谷大学修士課程の枠組みは「仏教文化」といい、試験問題の国文系が「説話文学の流れについて述べよ(?)」、隣に「庶民仏教の流れについて述べよ?」とあった。
どちらかというと民衆宗教については、いろんな本を読んでいたので、せっせせっせと書いて提出し、口頭試験を受けた。
数名の試問官に答えていくうち、私が書いた論は、国史の問題だということが分かった。
縁は異なもので、そのまま五来重先生に学ぶことになった。


学生研究室は国史・日本仏教史共有でそれぞれに佐々木孝正、大桑助手がおいでになり、特研生で中川泰伸さん、のち豊島修さん、佐々木令信さんがおいでた。
これは違いが分からず、国史・仏教史が補完し合っているものと思っていた。
研究室にはあらゆる文献が揃っていて、分からないことは佐々木さん、大桑さん(のち大桑先生)その他に質問できるので、ある時期まで入り浸っていた。
この研究室とは別に国史に五来重主任教授柏原祐泉、堅田修、日本仏教史に藤島達郎主任教授、北西弘、名畑崇先生方がおいでた。
ちなみに私の父が国史を出ており、その時の助手が藤島先生だった。

このようなことを書いたのは、安居の関係からである。
書棚にある安居テキストに北西、堅田、名畑、柏原、木場明志先生分がある。木場氏は後輩で、国史の教授になったはずだ。

そこで???…………、五来先生は?

国史に於いて真宗との関係は、上記の方々の他に佐々木さんが真宗と民俗学を一手に引き受けておいでたのである。
若くして還帰され、その後を木場君が継いでいたのに、彼も体調を崩している。


かすかな記憶だが、住職になるための勉強で、五来先生に尋ねたことがあった。
その時、先生は柏原先生に聞きなさいと紹介してくださった(ような…)。
新しい学問体系の構築に忙しく、真宗分野まで関わっておれなかったようだ、と考えたいところだが、
その時の印象は、真宗に関してもどれだけでも答えられるのだが、敢えて役割分担をなさっておいでる、と感じた。
先生の著書目録を見ると、柏原先生の博士論文「日本近世近代仏教史の研究」の審査要旨も書いておられる。


小川一乗先生の安居テキストに、網野さんの『日本の歴昭を読みなおす』を引用され、社会的蔑称されている悪人(悪党海賊など)ではなく、仏法に背く「悪人」である、と結論づけられている(『顕浄土真実実証文類』「悪人とは」p95〜p103)。
そこで五来先生はどう書いておいでるだろうと見直したのが、五来重の真宗学を訪ねはじめるきっかけである。
「仏法に背く」よりはっきりと「自力作善」が出来ない、自力作善を知らない存在位置づけておいでる。
これは、真宗僧も用いがちな「追善」とも関わる身近な問題提起語なのである。
それが、今からほぼ40年前にすでに書籍になっている。あまり勉強しているわけではないが、五来重の「歎異抄」によると、の文に出会ったことがない。