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能登のうみやまブシ(西山郷史)

2016年-08月-27日-Sat

『能登の揚浜塩田』刊行ー新聞ー

今朝の北陸中日新聞・能登版。
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北陸中日新聞・能登版17
2016年平成28年8月27日土曜日
記事(PDF)
いくつかの事情があって、暑い日に庫裡での取材


書店では、
七尾市中能登町 きくざわ書店
都町 千間書店
飯田町 いろは書店で販売している

執筆者の中心、故・長山直治さん(2014年7月9日逝去)の長年の研究成果を少しでも多くの人に伝えたい思いがあり、もちろん内容的にも揚浜塩田のすべてを網羅している決定版ということもあって、取り上げてもらった。

8月17日記事ブログ引用

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北國新聞」2016(平成28年)8月17日(水)、能登・きた版
『能登の揚浜塩田』刊行
書店では、
七尾・きくざわ書店
珠洲飯田・いろは書店
で購入出来る。

17日と27日の記事の間の10日間に

証如版『御文

10組同朋会推進員協議会、『あなたにあえてあえてよかった』(大浦静子氏著)

歴代墓のある真宗寺院、『御文』(2帖目9通)の背景

半村良氏の疎開先、ご母堂の実家

真継伸彦氏の思い出ー今までのブログ記事

をブログ上に書いた。
頭の中では、随分、時が流れているのである。
しかも、
昨日は音楽CDから好みの歌をひとまとめにしようと、「誰か故郷を想はざる」あたりからはじめて、
橋幸夫舟木一夫安達明、三田明、北原謙二村下孝蔵五輪真弓あたりを聞きまくっていたのだから、思い出への旅も深く甚だしい。


そして、この間のブログに関しては
『御文』(2帖目9通)の『御文来意鈔』の文・見解は来意鈔をお持ちの方は住職ぐらいしかおいでないだろうから、内容を載せておかないと、辞典のようには扱えないなァ…
とか、
証如版に関しては、
「実如収集、円如編纂、証如開板」の言葉がある(「吉崎開創理念文明五年九月御文群ー『五帖御文』の思想序説」大桑斉氏ー『蓮如大系第一巻 蓮如の生涯』平成8年法蔵館刊)ことを知ったので、この論も読まなくてはならないのかなァと、
秋の気配濃いなかで、ボアーーーーとした頭の片隅で思っている。


今朝は、5時に道路に落ちているタブの葉を掃いた。
今時は、この時間夜明け。
掃いている時、街頭の明かり昨日からの役目を終えて消えた。

2016年-08月-25日-Thu

真継伸彦氏の思い出ー今までのブログ記事ー

26年前、平凡社編集者故・内山直三)さんから、平凡社選書に一冊書かないかと話を頂いたことがあった。
選書にするには「月刊平凡」に連載し、それをまとめるのだという。
教員を辞め、住職になり、声明勉強、『中島町史』民俗主任調査もあり、とバタバタの頃で話は立ち消えになったのだが、余裕があってやるとすれば、江戸期の真宗門徒の巡拝を考えた。
そろそろ余裕が出てきたので、門徒たちが巡拝先で手に入れた刷り物、講師講義録の写しなど、かなり手元にあるのをブログに記録しておこうと思っている。
あの頃は、門徒の巡拝地を訪ねようくらいの気持ちだったのが、今は整理するぐらいの気力しかない。
その前に、最古の御文書写本である蓮崇本御文が市の指定にもなっていないいきさつや、一般にはに「ヘンジャ(瓶子屋)御書」と呼ばれていること、また、蓮如上人の字と見まがう蓮崇本書写本の存在、版木本などの存在があり、蓮崇本の広がりについて書こうと思い整理を始めたのだが、その先に蓮崇を扱った真継伸彦氏の『無明』を読もうと、一日一枚ペースで読み始めた。昨晩までに読んだところが、ここー「この加賀の湯涌谷、破門された下間安芸殿の籠居に身を寄せ…」のところである。
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そうして、今朝、朝日新聞を開くと、真継伸彦氏御逝去が報じられていた。
亡くなられたのは聖徳太子歓喜光院乗如上人ご命日、22日だった。
どうしておいでるかな、と思いながら氏の本を開いている時の報、奇遇というしかない。
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2016年平成28年8月25日(木)朝日新聞朝刊
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2000年平成12年10月22日
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2000年11月4日
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真継伸彦氏の本

今までのブログで触れた真継氏。

20141001水 究其涯底(くごがいてい)

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本を整理していて、「真宗大谷派大聖寺教区「蓮如上人五百回忌御遠忌」記念
 大谷暢顯門首御染筆」とある、綺麗な包装紙に包まれてある字を見た。
そこにあるとおり、大聖寺教区でシンポジウムに参加したときに頂いたのだが、勝手に御染筆コピーだと思いこんでいた。
御染筆とあって複写の言葉がどこにもないのだから、御門首の字なのに、ついこの前まで気づかなかった。
染みが出来はじめていて慌てて表装した。
染み抜きも施され、30日、写真のように綺麗な軸に仕上がってきた。

この大聖寺教区御遠忌には、真継伸彦氏たちとシンポジウムを行い、それをきっかけに真継氏が我が家に泊まり、御示談を聞くため、中島蓮浄寺さんで行われた御崇敬にお参りしたのだった。

それにしても、本の整理をしなかったらそのままになってしまったかも知れない大聖寺での御遠忌記念。
つのことだったのだろう?
当時のパンフが見つかった。
2000年9月2日(土)だった。
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この日、私が最後に待ち合わせ場所喫茶店につき、初めての方々と顔を合わせた。
お互いに知らないのだから、誰が一番年寄りなのか、といった話題になり、たぶん西山さんが年配ではないかと話し合っていたとおっしゃる
真継伸彦、伊香間祐學、そして私。司会は伊勢谷功氏がなさった。
聴衆の中に、大聖寺高校社会科先生、その他の教員が聞きに来ておられた。
真継伸彦氏の話が終わると、彼らは帰っていった。その時、私が話し始めていた。
私でも、あの「真継伸彦を見てこよう」となるよな…。
真継氏は、蓮如上人御遺言にある、病気に対して加持祈祷などをしない、それを守って真宗が現代に到っている、ことを高く評価されていた。、

覚えているのは、これらぐらいで、御染筆をその時に頂いた記憶は消えていたのである。
包みに大聖寺教区とあるので、そうだったなのだが、
この2000年は、
能登教区教区会副議長珠洲資料館館長、七尾市史専門委員民俗部会長などの職にあり、
それぞれに忙しかった。
歴博特別展・若山庄の準備にも関わっており、定期的な8組坊守会講師、「臥龍の集い」という夜の勉強会も行っていた。
5月13日金沢教区同朋大会の講師をはじめ、講義もそこそこあった。
原稿の方も
共同体とお年寄り」『老熟の力』早稲田大学出版(400字詰め原稿用紙28枚)
昭和38年から43年の飯田高校の歴史」『飯田高等学校90周年誌』(120枚)
書評日本史の中の女性仏教」「宗教民俗研究」(25枚)
連載「珠洲の風物詩」1〜5「季刊能登」(10枚)
「珠洲焼」「御影道中」『日本民俗写真大系』8 (4枚)
阿部判官伝承」『若山庄を歩く』県立歴史博物館(22枚)
他に数点の新聞記事を書いている。
1つの行事が終われば、次々と先を見なくてはならず、終わった行事の余韻に浸っている暇はなかったのだ。
そのうち、忘却の彼方。
御門首の書かれた「究其涯底」には、以下のような説明書が入っている。
「大谷暢顯門首御染筆
究其涯底
この句の出典は『仏説無量寿経』上巻の「嘆仏偈(たんぶつげ)」(真宗聖典十一頁)の一句てある。
 「嘆仏偈」は、四言八十句からなり、阿弥陀如来が法藏菩薩である時に、その師仏である世自在王仏の徳を讃歎(さんだん)された偈文である。
 仏は、深く甚深の道理を窮(きわ)め尽(つ)くし、真実を完全に悟っておられるということであり、仏は私ー人間ーの本当の姿の奥底まで見きわめておられるという意である。、
大谷暢顕門首は一九九六年に真宗大谷派第二十五代継承され、法名を釈浄如、雅号を愚岳という。」

20140715夏休みー白山麓ー

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『大地の仏者』大桑斉、福島和人氏。能登印刷出版部、昭和58年刊。
序文を真継伸彦氏が書いておられ、特に任誓を評価しておいです。
久しぶりに取り出してみて、真継氏にも驚いたが、
選ばれている僧がかなりユニーク
泰澄と臥の行者」「日像と加賀太郎・北太郎」「瑩山と峨山」「蓮如をめぐる女性たち」「願得寺実悟」「任誓」「能登の頓成」「加賀の三羽烏」「山本清嗣」「西田幾多郎鈴木大拙

20130516  5月9日関山和夫師逝去

真継伸彦「ナンセンス伝統ー仏教と落語ー」(北國新聞昭和54年(1797)1月11日
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(PDF)

2013年04月17日 教如上人ー400回忌ー

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真継伸彦氏の監修で、総論親鸞と現代(真継伸彦)
親鸞(広瀬杲)、覚如と存覚(梅原隆章)、蓮如(五木寛之)、教如(大桑斉)、清沢満之(福島寛蓮
執筆陣。教如、清沢満之と大谷派関係者が多いが、福島氏は龍谷教授で、派にとらわれない強さを感じさせる編集だ。
本を開くと、真継氏からの葉書が二枚、はさまっていた。
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2000年の12月、氏と一緒に中島町で行われた歓喜光院殿御崇敬(かんぎこういんでんごそっきょう)の「御示談」を
聞きに行ったときの、やりとりの葉書だった。
大聖寺教区の蓮如上人550回御遠忌のシンポジウムで真継氏とご一緒し、
その時に、まとまった話だった。
私の家で一泊され、御崇敬の後は、和倉のビジネスホテルに泊まったのだった。
私の家では、学生時代のファンだった高橋和巳氏、その回りの人々(高橋たか子埴谷雄高氏)の話をしてもらい、贅沢な時を過ごした。
今、あらためてみると、五木寛之氏と同年生まれ。
14日には五木氏の講演を聞いたのだが、2000年の頃の葉書の文は、
今の五木氏以上の老境に立っておいでになるようだ。
今年も、最近になって賀状の返事が届き、一言、「お元気で!」と、添えられてあった。
字の勢いは、その頃と変わらない。
お元気なのだろう。

2006年06月27日(火) 聞法ーたんにお参りすることーの難しさ

ご門徒と同じ場で聞くのが好き、なのだ。
ところが、 能登のちょっとした行事に行くと、
世話をする人々の中に大抵知り合いがいる。

真継伸彦さんと御示談を聞きに行った御崇敬では、
奥座敷に案内され、
中島町史で御崇敬の準備段階を調べに行ったときには、
住職の代わりに御崇敬の歴史を語らされ、
門前町史の時は議長だったもので、
組長さんが見つけて、議長が来ています挨拶を…。
と、いうようなことまであった。

というわけで、
能登で、本堂の雰囲気を味わいながら、
法に親しむのは、結構難しいのだ。
僧籍にある人間が、
聞法に各地を歩く風習が育っていなかったのだと思うのだが…

2006年03月20日(月)真継伸彦氏と著書

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真継伸彦さんも、一晩、当寺で過ごして行かれた。
河出書房新社の新鋭作家叢書は好きなシリーズだった。
この本には『鮫』『石こそ語れ』『死者への手紙』が収められている。
1971年の刊。
私の学生時代に出た本だ。

高橋和巳の諸作品と共に、真継さんの本も何冊か読んだ。
高橋和巳、高橋たか子、埴谷雄高氏などのエピソードを、
ビールを傾けながら、いっぱい聞いた。

学生時代ファンだったことは隠して置いた。
本にサインも貰っていない…。

2005年12月26日(月)著者の賀状・真継伸彦氏

「賀正
一昨年来、親鸞の和讃について執筆したり、
教行信証」の勉強会をつづけたりして、
いよいよこのお人の信心に傾倒しております。
頭はしだいにボケてきて、
念仏の行者は愚者と成りて往生すべし」という、
法然→親鸞を貫く金言が、いよいよ身に沁み、
ぼんやりウットリしております。
皆様にはご健勝を!
真継伸彦 七十三才の春」
こうありたい。

鮫 (河出文庫 104A)

鮫 (河出文庫 104A)

ISBN:4309400248:detai、l

親鸞 (朝日選書)

親鸞 (朝日選書)

2016年-08月-23日-Tue

半村良氏の疎開先、ご母堂の実家

ウキペディアー半村良
2006年1月31日にこのブログに書いた半村良作『能登怪異譚』書評に関する記事である

『能登怪異譚』

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半村良。
昭和62(1987)年。集英社刊。
この写真1993年刊の文庫本のもの
解説
「世にも不思議な九つの物語が能登方言で物語られている。
方言による怪異譚集といえば、すぐに柳田国男の『遠野物語』が思い出されるが、
(中略)民俗学研究書であって、厳密な意味での物語ではない。
この『能登怪異譚』にも、原型となる伝承はあったかもしれないが、それを物語に仕上げたのは、あくまでも作者自身である。
また、会話の部分に大阪弁京都弁などの方言を使った小説はたくさんあるが、
この作品集のように語り口まで方言で統一したものは、
詩や戯曲を含めても、ほとんど前例がない。
私の知る限りでは、高木恭三氏の津軽方言詩集『まるめろ』ぐらいなものである。
(中略)津軽在住の高木氏と違って、半村氏は東京生まれの東京育ちなのだから
これはもはや方法冒険家の方法的な勝利を示すものといわなければならない。」
遠野物語が研究書?
方言詩集が一冊?
宮沢賢治の「アメユジュトテチテケンジャ…」は部分的方言なのか?
何よりも、東京生まれの東京育ちが能登弁を駆使して小説を書いたら、
誰に手ほどきを受けたのか考えなくちゃならない…と思うのだが…。


半村の母は能登町三波の人であり、
半村が母の実家に疎開していた頃、出会った本=『蔦葛木曽桟』(国枝史郎)が、
彼の伝奇小説家として大成していく中で、大いなる影響を与えたというのは、
調べあげられている。
(『ふるさと石川文学』p244:水洞幸夫)。


東京育ちかも知れないが、家ではオッカーの能登弁が飛び交う日々であらしゃったに違いないげぞけ
(おっと、方言が乱れた)。


ところで私が読んだ本(研究書なんだろうが)には、母は三波の人としか書いてない。
細川たかし出身地は釶内〈なたうち〉、
なかにし礼の母の珠洲(実際は旧珠洲郡)と同じくらい大雑把だ。
三波は藤波、波並、矢波地区総称である。


もう一度「ところで」、
今日のTVに半村良作の『戦国自衛隊』を流していた。
これは見なくてはなるまいと、怖いところでは指の間から目を出し、
見呆けていたので、こんな時間になってしまった(今一時半)。」
以上。

現在

戸坂潤の富来など、人生に大きな影響をあたえている母親の実家が忘れられていることに気づく中で、半村良もそうだたったなぁ…と思いだしていた。
その頃から、状況は変わっていない。
水洞氏に問い合わせ、三波小学校校長をなさった方にも聞いたが藤波、波並、矢波のどこかは判然としないままだった。
ただ、私はどこかで母の実家は三波の一地区名であると聞いたことがあり、そこにお住まいの先輩教員に問い合わせたところ、彼は、半村良が母の実家に来た時、町長をしていた父とともに訪ねたことがある、と話してくださった。
 私としては、〜の〜家が母の実家で、作品に大きな影響をあたえた少年時代読書した家と蔵はここ、と残しておかないと、三波のままに忘れ去られてしまうのではないか、との危惧はあるのだが、
実家は資料館ではないので、ご実家へ半村ファンや研究者が訪ねて来たり電話してきてもお困りになるだろう。
今日2度訪ねてお年寄りにお会いできたので、そのあたりのお話をした。


良はどの参考文献を見ても、文庫の解説のように東京生まれとなっている。
戸籍上それでいいのだが、今日おばあさんがお話しなさったように、ここで生まれた、のであろう。
ウィキペディアのように能登の疎開していた程度であれば、我が家にも何組も疎開しておいでたので、同じレベルになる。
母の実家が、重要なのだ。

半村良を紹介している文

『ふるさと石川の文学』より
「東京下町深川に生まれた半村は、小学校一年の時、父を敗血症で亡くす。彼と彼の弟の二人の子供をかかえた母親は、戦中、戦後の困難な時期を苦労の末に女手ひとつで乗り切っていくのだが、その母の郷里が旧三波村(現、能都町)であり、戦争末期に一時、半村は母の実家に疎開していたことがある。その祖父の家の白壁の土蔵には本や雑誌がつまっており、そこで半村は自身の生涯を決定した国枝史郎『蔦葛木曽桟(つたかずらきそのかけはし)』に出会う。これをむさぼり読んだ半村は伝奇小説の強烈な魅力にとらわれたのであり、母の実家の蔵の中でのこの幸福記憶が、後に『石の血脈」、『産霊山秘録』、『妖星伝』等の長編伝奇小説を生み出す原点となった。」(水洞幸夫執筆)。


 この本より12年前に刊行された『北陸・名作の舞台』小林輝冶監修、平成3年北國新聞社刊には、著者名はないがほぼ同文が載っている(p114)。
 「土地の有力者であった祖父の家」などとこちらの方が情報が丁寧で、疎開中の子供が「伝奇小説の強烈な魅力にとらわれたのであり、」と、伝記作家だけではなく、「雨やどり」などの人情作品、それ以外にも勝れた作品の多い半村を伝奇だけに規定してしまう文もなく、同じ人が書いたにしろ、こちらの方がいい紹介だと思うので、併せて紹介する。
「半村良(昭和8年、東京生まれ)にとって奥能登は特別場所である。小学校一年時に父を肺血症で亡くして以来、彼と弟の二人の子供を戦中、戦後の困難な時代に女手ひとつで育ててくれた母の郷里が旧三波村(現、能都町)であり、戦争末期にその母の実家に疎開している。土地の有力者であった祖父の家には、中にいっぱい本や雑誌がつまった白壁の大きな土蔵があり、そこで国枝史郎の「蔦葛木曽桟」(大正11〜15年)に出会う。この長編物語を土蔵の中でむさぼり読んだ幸福な記憶が後に「石の血脈(昭和48年)、」「産霊山秘録(昭和46年)」、「妖星伝(昭和48年)」等の長編伝奇小説の傑作をを産み出した原点となっている。つまり能登は彼にとって二重の意味で母なる土地なのである。」

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「中にいっぱい本や雑誌がつまった白壁の大きな土蔵」がこの土蔵。
基盤部の石など豪壮と言ってもいい土蔵で、「土地の有力者であった祖父」を輩出した旧家であることが頷ける

『能登』次号の伝説のふるさとー間島山田太盛院取材
9月25日に富来郷土史研究会で話す、「西田幾多、三木清、戸坂潤と真宗」の資料集めに戸坂潤と京大時代同級だった能都町の西谷啓治資料館を訪ねた。
次いでと言ってはなんだが、気になっていた半村良の関係も探し訪ねたのである。

2016年-08月-21日-Sun

歴代墓のある真宗寺院、『御文』(2帖目9通)の背景

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五輪
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歴代・全体
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PDF 門前町史・墓制
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町史調査時(平成15年頃)の歴代墓
町史写真キャプション
天正・寛永・万治(15世紀末〜17世紀半ば)などの年号が見える広岡満覚寺歴代墓地
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帰依した二人の禅僧(『蓮如さん 門徒が語る蓮如伝承集成』)

1988年 企画編集加能民俗の会、橋本確文堂企画出版室刊
鳳至郡門前町広岡
門前町には曹洞宗大本山総持寺があり、禅宗がとても盛んであった。
広岡にある満覚寺は、もと総持寺の末寺大覚寺といい、住職の月峰は源
頼政の子孫で、禅宗の学者としても知られていた。
総持寺が能登の櫛比荘(現門前町)を中心に全国に信徒をふやしている
時、北陸に真宗を広めようと、蓮如さんが吉崎にきて布教をしているとい
う。月峰は蓮如さんのことを心よく思わず、吉崎へ出かけていって蓮如さ
んに会い、その考えの問違いを問いただそうとした。
月峰は意気ごんで、いろいろ禅宗の考えと違う納得できないことを次々
質問した。すると、蓮如さんはひとつひとつていねいに答えてくれる。
月峰は、ついにその人徳に感化されてしまった。そして、弟子となること
を誓い、その教えを文として書いてほしいと頼んだ。蓮如さんもこころ
く引き受けて与えたのが、御文の二帖目第九通だという、
こうして、月峰は文明六年(一四七四)三月、了念という名を与えられ
て真宗に改宗し.大覚院の寺号を満覚寺と改めた。そして、それまでの仏
像を総持寺へ返して、みずから阿弥陀仏を刻んで安置したという。
総持寺の近くの鬼屋にある明教寺も、もとは禅宗の寺院であった。開基
の円智は、禅宗の修行と布教に励んでいた。
ところが、蓮如さんが越前の吉崎で盛んに真宗を広めているのを聞いた
円智は、吉崎へ行って問答で蓮如さんを負かしてやろうと考え、意気込ん
で出かけていった。はじめは一日の滞在で帰るつもりであったが、問答を
続ける間に蓮如さんの魅力にとりつかれて、数週問も滞在してしまった、
そして、ついに蓮如さんに帰依して、蓮如上人画像一幅を授けられて帰っ
た。その後、円智は総持寺を離れ、真宗に改宗したという。
広陵顕恵・諸岡昭円談)
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御文 第2帖目第9通

9 そもそも、阿弥陀如来をたのみたてまつるについて、自余の万善万行をば、すでに雑行となづけてきらえるそのこころはいかんぞなれば、それ、弥陀仏のちかいましますようは、一心一向にわれをたのまん衆生をば、いかなるつみふかき機なりとも、すくいたまわんといえる大願なり。しかれば、一心一向というは、阿弥陀仏において二仏をならべざるこころなり。このゆえに、人間においてもまず主をばひとりならではたのまぬ道理なり。されば外典のことばにいわく、「忠臣は二君につかえず。貞女は二夫をならべず」といえり。阿弥陀如来は、三世諸仏のためには本師師匠なれば、その師匠の仏をたのまんには、いかでか弟子の諸仏のこれをよろこびたまわざるべきや。このいわれをもってよくよくこころうべし。さて、南無阿弥陀仏といえる行体には、一切の諸神・諸仏・菩薩も、そのほか万善万行も、ことごとくみなこもれるがゆえに、なにの不足ありてか諸行諸善にこころをとどむべきや。すでに南無阿弥陀仏といえる名号は、万善万行の総体なれば、いよいよたのもしきなり。これによりて、その阿弥陀如来をば、なにとたのみなにと信じて、かの極楽往生をとぐべきぞなれば、なにのようもなく、ただわが身は極悪深重のあさましきものなれば、地獄ならではおもむくべきかたもなき身なるを、かたじけなくも弥陀如来ひとり、たすけんという誓願をおこしたまえりと、ふかく信じて、一念帰命の信心をおこせば、まことに宿善の開発にもよおされて、仏智より他力の信心をあたえたまうがゆえに、仏心と凡心とひとつになるところをさして、信心獲得の行者とはいうなり、このうえには、ただねてもおきても、へだてなく念仏をとなえて、大悲弘誓の御恩をふかく報謝すべきばかりなりとこころうべきものなり。
あなかしこ、あなかしこ。文明六歳三月十七日書之
※『御文来意鈔』慧忍著のいわれには、別話が載る。

『蓮如上人と伝承』の広岡・鬼屋

文明六年(一四七四)それから二年後には、奥能登門前総持寺の禅僧仲間においても、上人の教えが評判となっていた。「蓮如、何するものぞ!」の思いを抱いて、広岡大覚寺月峰・鬼屋円智の両学僧が、吉崎へ論争に出向いた。上人の教えに非のあろうはずもなく、その上、多くの人々を魅了してきた上人の人柄である。二人の禅僧は、話込めば込むほど、真宗の教えと上人に魅かれ、円智などは、数週間も吉崎に逗留してしまっ 
たという。両者は真宗大谷派満覚寺・明敬寺(いずれも鳳至郡門前町)の開基となるが、この時、二人に与えられた御文が第二帖目第九通といわれている。
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『蓮如上人と伝承』西山郷史著、真宗大谷派金沢別院刊、1998年初版、20012刷
上記の文は、五、女人と御文、p28。


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広岡満覚寺から門前町中心地を望む。真下總持寺、門前高校が見える。
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2016年-08月-20日-Sat

10組同朋会推進員協議会、『あなたにあえてよかった』(大浦静子氏著)

本日、10組同朋会推進員協議会(28年度第2回)が開かれた。
暑い中30数名が参加なされた。
扇風機と本堂を渡る風のみが涼で、午後1時半から3時半。
絶えず汗を拭いながらの講義

案内文は「研修会案内」の通り。
毎回一言言葉を添えている。
今回は、「如来の教法をわれも信じ、ひとにもおしえきかしむるばかりなり。
     御文   第一条第一通」。
御文の第一帖第一通は、文明3年(1471)7月15日に書かれた御文である
お盆月の研修にふさわしいと思い、この御文の一文を載せた。
よく知られている、「親鸞弟子一人ももたず」「とも同行」「御同朋・御同行」などが文中にある御文である。

研修会案内

            平成28年8月13日 会員各位
  能登教区第10組
          同朋会推進員協議会会長    ○○○○

平成28年度第2回定例研修会
      開催についての御案内

会員各位におかれましては、益々御清栄のことと お慶び申し上げます。
つきましては、標記のことにつき下記の通り開催いたしますので、同朋お誘い合わせのうえご出席下さい。

  記

日時 8月20日(土)
           午後1時30分〜
会所  飯田町 西 勝 寺
講師  西 山 郷 史 師
(西勝寺 住職
携行品 念珠 勤行集(赤本
同朋手帳 歎異抄 筆記用具等

如来の教法をわれも信じ、
 ひとにもおしえきかしむるばかりなり。
     御文   第一条第一通



『あなたにあえてよかった』

盆月でもあり、敬愛していた大浦静子さんとの別れー8月12日還帰(74歳)ーをも取り上げた。




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自費出版版 2006年7月刊、254頁 ハードカバー
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北國新聞社刊、2006年10月刊、172頁
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おとうさんおかあさんへ

わがままな娘でごめんね、
いつもつっけんどんでごめんね。
口が悪くてごめんね。
心配ばかりかけてごめんね。
親孝行できなくてごめんね。
孫の顔、見せられなくてごめんね。
おとうさん、おかあさんより先に死んじゃってごめんね。

三十四年間という、少し短めの人生だったけど、
おとうさんおかあさんのおかげで、
楽しく、充実した、しあわせな人生でした。

子どものころから、のびのび自由に育ててくれて有り難う。
わたしを信頼し、やりたいことをやらせてくれて有り難う。
いつも心配してくれて有り難う。
わたしのために、泣いてくれて有り難う。
産んでくれて有り難う。
おとうさん、おかあさんの子どもとして産まれてこられて
わたしはとってもしあわせだったよ。
本当に有り難う。
                   郁代( ※7月頃に書かれた遺書

20120814 のブログ
二〇〇五年八月十三日
夕方仕事を終えた家族が揃った。
緊急入院だったので、一時的特別室が用意されたため、
「広いね!」「ホテルみたいね!」と、三ツ星レストラン、四ツ星ホテルの話題で盛り上がった。
旅行会社いたことがある郁代が、急にいきいきしてきた。
家族旅行でホテルに泊まっているみたいね」
郁代の次に旅行好きの夫がそういった。
その時、郁代が突然言った。
「これからみんなで食事しよう!」
食べ物の摂れない郁代の前で食べられるはずがなく、家族揃っての食事会は、いつの頃からか途絶えていた。
うどんなら…、おそばなら…、と出掛けても、
「私の分は注文しないでいいよ。お母さんの分を少し食べればいいから」。
四月の頃からそんなふうだった。
このころ、話題が「食べ物」にふれることさえはばかられていた。
お兄ちゃんが、近くの弁当屋から調達してきた豪華メニュー
押し寿司、いなりずし、サンドイッチ…。
郁代の前で食事をすることは辛いことだったが、「やめておこう」とは言いだせなかった。
心の中で泣きながら、私たち家族はおいしそうに食べた。
「みんなで食事したい」という、郁代の願いを叶えてあげたいと皆が思っていた。
「はじめての病院食、どんな味付けか、わたしも食べてみるわ」
五分がゆ、煮物、煮魚、おつゆ、フルーツ…。
ほんの少しずつ味見をしては、口から出し、郁代は、
「ここの食事、すごく味付けがいいわ」とうれしそうに言った。
賑やかな夕食だった。
新聞の購読どこにしようかな?Aは家にあるし…お母さん、B新聞を明日契約してきてね。毎日届けてほしいから」

一日を振り返ると郁代は朝から休む暇がなかった。
気力も体力も限界だったはずだ。
それなのに郁代は家族の前で元気に振る舞っていた。
身体機能が停止直前の中で「いのち」だけが輝いているような、今思えば不思議光景だった。
「明日また、みんなで来るよ」と、お兄ちゃんが言うと、
「むりしないで。わたしのせいで、みんなが病気になったりしたらいやだから」
昼は看護師「ありがとう」と何度もいっていた。
郁代は、いつも家族への配慮を忘れなかった。
いのちの極限にいてなお郁代は、
「いまの自分にできる事」をしようとしていた。

私一人が残り、家族は帰っていった。

「会いたい人、みんなに会えてよかった。
あしたから、わたしだけの時間にして、静かに過ごすわ…。

体位変換は、夜の十二時、二時、四時にお願いします」
入院一日目の夜、郁代は自ら時間を決めて、看護師と約束を交わし消灯した。
「あしたから、郁代と私の静かな時間が持てる」
私は慌ただしかった今日一日を、ぼんやりとふり返っていた。

翌十四日早朝、郁代の容態は急変し、いのちの故郷へ還っていきました。
「あ・り・が・と・う・・・」といって。

七年前の今日でした。

     「生きるものは 生かしめ給う
      死ぬものは 死なしめ給う                 
     我に手のなし 南無阿弥陀仏

大浦郁代さん略歴
一九七〇年十月三十一日 正弘・静子の二女として金沢市に生まれる
一九七七年四月 金沢市立田上小学校入学
一九八三年四月 金沢市立兼六中学校入学
一九八六年四月 昭和61年 石川県金沢二水高等学校入学
一九八九年四月 神戸大学入学
一九九三年四月 北國観光(株)入社
一九九六年十月 ワーキングホリデーオーストラリア
一九九六年十二月 オーストラリアで総合保険会社就職
二〇〇四年一月 発病
二〇〇五年八月十四日 旅立ち

読み終えたとき念仏が聞こえ、合掌なさっている方の姿があった。

大浦静代さんのブログ

ミクちゃんの日記
交流
郁代さんの父、静代さんの夫正弘さんとは石川県高等学校『郷土資料総合目録』で一緒に仕事をしたことがある。
『ふるさと文学散歩』、『郷土資料総合目録』、『地酒天国いしかわ県』時代の執筆者たち

『歎異抄』第三章

もう一枚資料。『歎異抄』第三章を用いた。
レジメ
こちらは、6、7月にもプリント一枚お渡ししていたのが、今回ようやくお話しできた、という印象。
三章は、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」から始まる。
これを高校古典乙で、教えたことがある。
高校古典はいわゆる橋本文法なのだが、多くの歎異抄が出版されているけれど、その観点から文・語句をとらえた「歎異抄」はないようである。