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能登のうみやまブシ(西山郷史)

2017年-08月-18日-Fri

大箱 岩井戸山 願生寺さんー8組坊守会ー

| 19:03

自然、蝉の声に包まれての勉強会
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ブナで知られる鉢伏山からの豊かな水に育てられている稲

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山号が岩井戸山ー真宗説教によっても育てられた猿鬼伝説の中心地

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ここを降りた川沿いに猿鬼の塚がある。

お盆からー秋へ 講義予定

| 06:31

今年は、11日から13日が忙しかった。
13日は孫たちが翌日からクラブが始まるなどの理由で、都市部へ帰っていく。孫たちとの賑やかな墓参が多かった。
16日は野々江地区をこの日にしており、寝ていて足にけいれんが起こることはあったが、今年は山のお墓が混んでいるので、と呼ばれることも無く、淡々と乗り切った。

17日には早く寝たこともあって、4時に目が覚めた。
これまでは夜明けに目が覚めることがあったので、夜が明けているだろうと間もなくホウキを持って、路上に散っているタブの葉を掃きに出たのだが,暗い。
街灯をたよりに、蝉が鳴き出す頃に掃き終わり,時計を見ると4時45分。
5時過ぎに空が明るくなってきた。
あっという間に秋になっていた。

これから、いくつかの講義がある。
今日(18日)は、
○8組坊守会ー会所・大箱願生寺さん。13時半〜
レジメ
1、末代無智、17・18願、日ごとのご命日、御文その他15〜20日分
 化身土の巻に出ている親鸞聖人の末代をもう少し調べてから,講義に臨む予定。
2、『悲の器』(高橋和己)、「かなしみ」の哲学原典『往生要集』には「悲心の器」。仏心者大慈悲是などと共に、「こころ」を問う。
3、三帰依文と御文一帖の9通目、さらに「悲嘆述懐和讃」「改悔文」
2か3は,別のくくりにした方がよさそう。とくに3は、真宗地帯に盛大な祭りが多いというか、真宗地帯だからこそ、結やよばれを基盤にした、エネルギー解放(時には疑似打ち壊しもあった→出し物の長大化によるエネルギーの吸収)の祭りが盛大、そこに神祇がどう入りこんで来たのか、を問わないと、旧村びとや僧侶神官たちは、二重のしかも、相容れない精神生活を生き続けなければならない。
昨日遠方からお墓参りにおいでた70代後半、相撲が強かった人が、子供の頃、祭り近くに祖父が死に、太鼓叩きをはずされた。それでグレタと話していかれた。子供が理解できない社会存在し、傷つかせる…考えさせられる。

20日(日)
○同朋会推進員勉強会ー当寺。13時半〜
案内葉書は、一週間前の13日に出した。

22日(火)
○宝立公民館 18時半〜 
空海伝説の里 宝立〜見附島から法住寺へ〜』、「空海伝説MAP」ができあがり、その記念に少し話を、ということのようだ。宝立山能登の名山、阿部判官伝承あたりをお話しするつもり。
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23日(水)
○能登・加賀越中境「三国山」散策 日中
○二十三夜踊りについて 夜8時半〜 翠雲寺(旧高勝寺)地蔵
丈六・室町期とみられる延命地蔵を祀る地蔵堂で講義。24日が将軍地蔵の縁日権現気多信仰の原点を伝える踊りが続いている。輪島の三夜(重蔵神社)踊りも由来は同じ。見る機会があればと思っていた行事に、話が出来る。
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本日、奥能登塾担当者来宅。今度は能登の言風景とでもいうべき「石動山」へ行こうとの案が出ている。1人じゃ行きにくいところなので、塾としていこう、と。その相談においでる。

昨日、夜、志賀町堀松公民館館長・吉本氏から電話。講演依頼。
吉本氏は羽咋工業で同じ国語を教え、同じ年。
彼は志賀中の校歌作詞するなど国語世界を歩み続けている。話しに行けば会える。
こういう場合は、(偉そうだが)断らないというより、いそいそと出かける。
志賀町になると半日費やさなければならない。まずお寺なので、約束できる日がある程度限られてくる。それで9月5日の午後に約束した。

ということで、石動山は10日かな?
9月26日の予定となった。8月29日下見に行く。

もう1つお手伝いしたい話が聞こえてきた。5日午前でいけるかどうか…。

6時半になった。雨模様だ。
薄暗いはずだ…。

2017年-08月-14日-Mon

真宗と(権現)祭ー皆月山王祭ー

| 19:59

10日、11日と門前町皆月、皆月日吉神社夏季例大祭が営まれた。11日が本祭り。今朝の北陸中日新聞によると、

祭りを仕切る青年会のメンバー約30人のメンバーのうち地元に残っているは3人のみ。ほかの大半は祭りの直前に帰省して準備をしてきた。

と書いている。
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北陸中日新聞
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北國新聞
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2004年平成16年8月10日
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同年8月11日
皆月日吉神社周囲を山車が三周(確か)して宮入となる。
この手前が、真宗大谷派善行
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昭和51年、川渡り
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昭和40年代
(以上2枚『写真アルバム 能登半島の昭和』西山編集執筆より)


コンゴウマイリ

山車が動き出すのが午後2時、実はこの日の午前中、皆月善行寺ではコンゴウマイリを行っている。
お斎を呼ばれ、祭り見学。11日を盆の入りと意識している行事で、コンゴウは嫁いだ人たちが子供と共に実家へ帰り、実家のなき親たちを通したお参りをする行事で、コンゴウのないところでは個々のお墓や内仏のでの盆経を、一斉に行うものである

コンゴウマイリ(『日本民俗辞典平成8年刊、執筆西山)

能登半島中央部富山県氷見地方で行われている真宗行事。門徒から他門徒宅へ嫁いだり婿入りした人を、寺側からは孫門徒・孫檀家といい、孫門徒が実家の親が亡くなってから、毎年決まった日に実家の手次寺に参詣することをいう。コンゴウの中心地帯では、八月一日・七日に集中して行われていることから、盆入りの行事と見なされるが、周辺部では、八月十五日、七月一・七・十五・三十一日、六月の田休み期の一日、報恩講・祠堂経・修正会の一日をあてたり、親鸞の御命日御講や聖徳太子忌と兼ねる寺院もある。コンゴウは、魂迎と表記する例が多いが、魂供・金剛・魂合・魂倶・魂具・魂仰・魂講・今遇などで表すほか、コンゴウ・コングと呼ぶだけで、漢字表記を避ける寺院も多い。これは、真宗教義上「魂」が認められないためで、信心獲得の金剛心のコンゴウが本来なのであろう。コンゴウには、参らなければならないものとされ、「親のコンゴウにまいらんものか」といった戒め言葉がある。「コンゴウメシナノカ」といって、法要後のお斎料理を食すれば七日間腹をすかさないでいられるともいう。コンゴウには、孫門徒の他、門徒も参詣するため、最も参詣人の多い仏事となる。能登半島先端部では、報恩講などに孫門徒が参るのを、オヤノマイ(親の参り)という。この行事は、江戸時代奨励された先祖供養や、半檀家(複檀家)制の名残をとどめている。真言宗には八月一日の金剛会がある。


『新修門前町史 資料編6 民俗』2005年11月刊より
第二節寺院行事と在所講

(一)門前町の仏教
 門前町には真宗大谷派寺院が四二ヶ寺、真宗系寺院が二ヶ寺、曹洞宗総持寺祖院を含め四ヶ寺、真言宗、日蓮宗がそれぞれ一ヶ寺ある。真宗王国といわれる能登にあっても真宗寺院、特に大谷派が多い地域である。

(二)真宗寺院における行事

コンゴウ

真宗でコンゴウの風習のあるのは能登半島中部氷見市五箇山ぐらいで、全国的にも珍しい行事である。嫁いだりムコ入りした人が、実家の親が亡くなった後、毎年決まった日に実家の手次ぎ寺に参り、お斎につく。門前では八月七日に行うところが多い。
 どこそこの家の手次ぎ寺はどこそこであると、当たり前のようになっているが、一家が一寺の門徒(檀家)になるまでには、長い歴史紆余曲折があった。どこが違っていたかというと、一般に寺檀制度が成立していく中で見えてきたのは、嫁いだ人が嫁ぎ先の門徒(檀徒)にはならず、一生実家の手次ぎ寺に所属したのである。この有り様は、家内労働の点からも不都合なものであり、幕府や藩は、一家は同じ門徒(檀家)のはずであるとの触れををたびたび出している。元禄一〇年(一六九七)には、藩から、養子、婿を問わず家の宗旨を継ぐように命令が出ている。最後まで実家にこだわったのは婿、養子だった。
 このことに関して、黒島中谷文書の中に、慶安二年(一六四九)、「南北坊主中大町弘誓寺に集来仕候而、萬事且那之致改・・・」と、九ヶ寺と三人の僧によって、例えば、夫婦が寺違いであって、子供が一人しかいない場合はどちらにつくべきか・・・など細かく取り決めた、珍しい申し合わせ文書がある。
 一家一寺が、自然と受け入れられるようになって初めて、家が確立したともいえる。この家族の中に複数の手次ぎ寺が混じっている制度を、複檀家あるいは半檀家といい、愛知県三河には男門徒、女門徒という半檀家制が残り、能登においても七尾東海岸珠洲などに僅かではあるが、その遺風が見られる。
 このコンゴウは、実家とのつながりの強い仏事で、半檀家時代の名残を伝える貴重な習俗でもある。盆月の初め、七日盆に多いのは、共同体関係するすべての人によって盆を迎える現れであり、本堂で一斉に墓参りを行う行事とも見なせる。そのためコンゴウには、魂迎、魂供、金剛、魂合、魂倶、魂仰、魂講、今遇など、様々な文字を当てている。盆月と関わる行事であることが、これらの表記からも窺えるが、最も多い魂迎は、漢字の成り立ちからはあり得ず、元々は金剛信心につながる金剛だったのであろう。一般に分かりやすい広い意味での霊魂観がこのような表記となって伝わってきたのだろう。
元々七日だった皆月善行寺が、一一日に七浦浦上地区のコンゴウを行っているのは、やはり七日の行事だった皆月山王祭りが、盆近くの一一日に日をずらしたことによるものである。お説教を聞き、コンゴウのお斎につき、祭りを見て帰る。このような豊かな一日が今も続いてある。
八月六・七日以外では、お盆中、報恩講中などにもコンゴウマイリが行われる。一方浦上地方などでは行っていない寺院もある。

※本文の最後、「八月六・七日以外では…」部分は、下書きでは「八月六日 高根尾寂静寺。七日 深谷西慶寺、鑓川長順寺、四位真善寺、定広廣照寺。 七日・八日光琳寺総門徒(別経中)一一日皆月善行寺(七浦地区)。一四・一五日善行寺。一五日中谷内碧雲寺、一一月一五・一六日光琳寺仁岸地区(報恩講中)、十二月一五日、一七日中谷内浄方寺など。」と書いた。
こだわる方なので、おそらく全寺院の調査ではなかったため、本文のように書き換えたのだと思う。

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皆月日吉神社春祭り。左に善行寺本堂が見える。
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善行寺坂から海を望む2012年9月25日撮影
この話題とは関係ないが、この墓地に教育評論家尾木直樹尾木ママ)氏の祖母家のお墓がある。皆月日吉神社の夏祭りは7日盆の日に行われていた。それが盆の入りで、帰省しやすい11日に移った。
それに合わせて、盆参りであるコンゴウマイリも移動した。

お参り、お斎、午後は羽を伸ばし、思いっきりエネルギー解放させ、収穫期へと向かう。
その楽しみは、藩政期中期には、踊り、相撲が中心だったが、キリコを担ぎ、山車を引き、獅子舞を舞う共同体全体が楽しむ、時を過ごすようになった。

一方、石動法師や神官は、国家・藩の奉幣料や領民からの安定した収穫米を受け、国家仏教から続く、五穀豊穣・鎮護国家加持祈祷を行っていた。
それが、祭りに関わるようになるのは、国家的保護がなくなる経済的理由による。

現代には、二つの要素が同じ日に行われており、その元の方の仏事が行われていることが、派手好みのマスコミによって、一般に知られることはなくなった。

私が調査した中でも、そのような行事がいくつかあった。
テレビはあまり見ないので紹介されているのかも知れず、マスコミでとしておく…。

神事しかマスコミに紹介されない行事

○須須神社の的打ち神事ーこれは釈迦涅槃の日に行われる。午前中は天台宗翠雲寺(旧高勝寺)で涅槃会が営まれる。午前仏事(涅槃会)、午後、的打ち占いと書いた新聞記事にであったことがない。

○お出で祭り・お帰り祭り(平国祭)
気多神社の。もと七尾にいた城主畠山氏の元へ出向く行事だった。
暑さ寒さもお出でまで、といわれるのも、暑さ寒さも彼岸までから来ており、彼岸中の行事である。
私は全行程を共にしたことがあるので、その時の印象では、特に鹿島町を通るとき。晴着姿の女性が目立った。
それもそのはず、寺院(沿道は全て真宗寺院)では、午前中に彼岸会・お説教、(お斎)があり、午後にはお帰りの行列を迎え・送るのである。
新妻は晴着を着て彼岸のお参り、午後の行列を迎え送るので、村入りを仏神に報告する日でもある。
寺院行事が紹介されたのは見たことがなく、お出でだけが紹介されている。

2017年-08月-11日-Fri

真宗と神祇(権現)ー都市の祭り・真宗地帯の祭り、白山比弯声劼版鮖蓋現ー

| 21:36

金沢中心部に出し物(キリコ山車獅子)を出す祭りがないわけを
青年団芸能大会講評でお話しした。そこでは、金沢旧市内に、風流(キリコ、山車、獅子)を出す祭りがないのは、城を取り囲む一帯に大きな音がしていたら、軍事機能が保たれないためだ、とお話しした。
火急を知らせるのは、烽火、鐘、太鼓の音とリズムしかなく、そこに能登の祭りのような鉦・太鼓・笛が鳴り響いていれば、敵が目の前に来ていても気づかない。
もちろん、武士の住むエリアは、領内安全のためにいい言葉ではないが、年中、臨戦態勢にあるので、労働の合間の時期や、予祝、収穫を祝う農・漁村とは別の時が流れていたのである
蓮如上人の「侍能工商の御文」に描かれている侍社会である。

音の重要性については、
かつてソフトテニス部(当時は軟式テニスといった)の顧問をしていたとき、ある時間帯、試合が中断されたことがあった。理由は重要人物の乗っておいでる列車が通過する為だった。
ライフルの音とボールを打つ音とが似ているらしい。ライフルの音は聞いたことがないが、そう言われれば上手い選手同士が打ち合う音はパーンパーンと乾いた音がする。
その時、藩唯一の城下・金沢中心部に大きな祭りがない理由が、身体で理解できた。

おもしろ金沢学』

2003年8月25日に刊行された『おもしろ金沢学』という本がある。
私も執筆したのだが、日が経っていて何々書いたのか覚えていず、執筆記録を見て、「ネンネ」と「ボンチ」の違い、旧市内は「謡」、新市内は「民謡」、心の中にあった城下の境界
の3編を書いていたことを思いだした。
後の2編は、ここで紹介するので気づくと思うが、城下中心地は静かでなければならなかったことを、意識して書いている。
 
他の項目を見ると、ズバリこのことをテーマーにした「金沢の祭りが小規模なわけ」という文があった。そのことに気づいていたのだから、ひょっとして私が書いたのかも知れないと読んでみたのだが、私ではなかった。
結論として次のようにまとめている。

金沢にも特筆すべき祭りはある。しかし町衆の活力を結集した祭りは、やはり存在しない。「百姓の持ちたる国」と言われた真宗王国加賀百万石の城下町であったという金沢の歴史を浮き彫りにするようでもある。

本文中には城下からはなれた金石の祭礼を挙げ、それだけ自由に祭りを企画し、繰り広げることが出来たとする。すなわち侍の規制がないから自由な祭りが行われたのだと分析している。だとすれば、萎縮した祭りがあるはずなのに、それはない。

それよりも、真宗王国の城下であるから、特筆すべき祭りは存在しないと言っているのは、いかにも、と思わせるが、実体はその逆なのである。
真宗王国は、祭り王国なのである。
比較するのはおかしいかも知れないが、昭和10年頃の民俗地図で火葬地帯に印がついているたのは、真宗地帯だった。
今、キリコ、山車、獅子舞などの華やかな祭り地帯に印をつければ、かなりが真宗王国と言われているエリアと重なるはずである。
このことについては、今は詳しく触れないが、藩政期から門徒たちはお参りと踊りで騒いでばかりいると訴えられるほど、祭り好きだったのである(「御国政に付き申し上げ候帳冊」)。
その頃の社には神主はいなかったし、いたとしても反本地垂迹論を経てきた現今の神官とは、別の存在だった。

これからも、あちこちで祭り情報マスコミを賑わすだろうが、山車、キリコ、獅子などの華やかな祭りが行われているほとんどが、元からの真宗地帯だということは、知っておかなければならない。

そのうえで、「神祇不拝」の宗教なのだから、祭礼とは関係が無い(はずだ)と、知識人や関係ない地域の僧たちが言うことが、的を得てないことを検証し、向き合わなければならないのだろう。
和光同塵」も聞かなくなって久しい。

神々は

第一には、権社の霊神をあかして、本地の利生をとうとむべきことをおしえ
第二には、実社の邪神をあかして、承事のおもいをやむべきむねをすすめ
第三には、諸神の本懐をあかして、仏法を行じ、念仏を修すべきおもむきをしらしめんとおもう。(『諸神本懐集』)

であって、親鸞聖人が否定したのは実社の邪神に分類される神である。

権社神は仏の垂迹であるから、弥陀の本願十七願の「十方世界、無量諸仏」の権現であって、その神々は、「ことごとく弥陀を咨嗟(褒め称えて)弥陀の名を称している存在なのである。
 突き詰めれば、御同朋になる。それを拝むとか拝まないということ自体が成り立つのか、成り立つとしても「神祇不拝」の「神祇」の意味するところを、時代を追って検証しなければならないのだろう。

真宗地帯にある神社というより、現社会に存在する神社はすべからく、権社的社である、が、司っているほとんどが神社庁に属する神官たちで、この方々は、真宗教義にはなじまない「祓い」を行う。




白山権現と白山比弯声

今、白山開山1300年が話題になっており、8月9日は泰澄大師が開山したとされる旧暦6月18日であることから、白山比弯声劼覆匹農溝腓吠祝大祭が営まれている。
今日新聞記事によると、白山比弯声劼砲倭換颪宮司ら約400人が集ったとある
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ところが、なぜ6月18日なのか、については、どの記事にも見えないし誰も語らない。
6月18日は、九頭龍、白山比廖△修遼榁観音菩薩十一面観音)の縁日なのである。泰澄が白山で観音に出会えた日であるから、縁日となったのか、そのあたりは問わないでおくが、泰澄大師、十一面観音とくれば、白山権現(観音)の垂迹神を祭る白山比弯声劼鯀位未暴个気覆韻譴个覆蕕覆なる。

今回の場合、白山権現は、泰澄大師や縁日とともに姿をあらわしているのに、仏教(真宗)側からも気づいていないようだ。
そこで、仏教から見た権現史(神社史)というか、仏神交流史を整理しておかなければ、と思う。
真宗と白山についてもちゃんと知らせないと、門徒の氏子総代や議員さんたちも安心できないのではなかろうか。

なさなければならないのは、
個々の権現神社系の行事の様相(神社庁傘下となって同じような儀式になる以前姿)、
権現・本地の一覧、
結果的には寺院統合修験道は除く)以上に、神社の統合が行われた明治中期までの動きで失われたもの・残ったものなど、
だろう。
仏神交流・離反史は真宗としてもなさなければならない研究だろうが、神社にとっても大切な分野だと思う。
神仏判然令までは寺院だったという神官家で。毎朝本尊前でお経をあげているという神官をお二人存じ上げている。

参考

旧市内は「謡」、新市内は「民謡」

金沢には多くの歌が伝わっている。その中でも、儀礼の歌と、盆踊り歌に伝統を感じさせるものが多い。
数多くの行事が集中する年の初め。最も重要な儀礼がキシュウだった。キシュウは、武士と村役人地主小作、船主と水主(かこ)といった主従が一堂に会する中世からの伝統行事で、吉書・吉初・吉祝・起舟などの字が充(あ)てられた。
知行主の武士宅へは農民が訪れ、予祝(よしゅく)(新たな年の実りをあらかじめ祝う)の意味を籠(こ)めた「田植え歌」を披露した。田植えは、農家にとって最も重要な行事で、華やかな早乙女(さおとめ)姿からも想像されるように、「田植え歌」の歌い方にも、極めて厳粛な作法があった。まず、田や苗を褒(ほ)め、水などのお陰で稲が実る様子を、賑々(にぎにぎ)しく唄ったのである。
船主宅では「めでた」が謡われた。「めでた」は、産み字(母音)を長く延ばす男の合唱歌で、歌い出しにアクセントを置くことや、三拍子の抑揚(よくよう)は、櫓(ろ)を漕(こ)ぐ動作と一致する。七尾輪島・輪島崎の「まだら」や美川の「御酒(ごんしゅ)」、テンポは違うものの、輪島の「三夜」も同系統の歌である。珠洲市蛸島町「早船狂言」でも同様の歌が歌われていた。「まだら」の元歌は、幕府から加賀藩に伝わった「お座船歌」で、その年の航海の安全を祈って高らかに歌われた船歌が、加賀・能登の港々に名前を変えて伝わったようだ。
新市内、特に海の近く集落においては、建ち前では、先ず棟梁が「めでた」で口火を切り、結婚式では「めでた」で歌い始める、とされているように、現在では、儀礼の祝い歌となっている。
 
一方、旧市内での祝い歌は「謡(うたい)」である。「加賀宝生」とまでいわれる程有名な「謡」が、藩政期から現在まで伝わったのには、職人衆、とくに大工さんの果たしてきた役割が大きい。大工仕事は、建物全体を見渡しながら、しかも、寸分の狂いも許されない緻密さが要求される。落ち着いた「謡」こそが彼らの歌には相応(ふさわ)しかった。
また、職人衆は、寺院建築をもたらした聖徳太子に報謝する「太子講」を正月に営み、春の「蓮如忌」における卯辰山大乗寺山への山行き、土用休み、建築儀礼の執行など、様々な職種の中でも、特に仏神との関わりが深い。
「謡」は、仏教音楽の声明(しょうみょう)そのもので、能の大成者、観・世(かん ぜ)親子は阿弥号を名乗って、浄土教世界に身を置いていた。そういう意味においても、職人衆と「謡」は、もともと結びつきやすい素地があったのである。

結婚式において、「高砂」を謡う場合には、「月もろ共に出潮の」を「満ち潮」「入り潮」に置き換えるとするのは、「お開き」と同じく、言葉を選ぶ感覚であるが、「船の中で謡を謡うと海が荒れる」という俗信は、「能」には怨霊が多く登場し、波静かな航海を願う海民にとって相容(あいい)れない内容のものが多かったせいである。また、歌は、それぞれの職能に応じたものであり、それを大切にしなければならない、ということをも語っている。

盆踊り

「盆踊り」は、金沢新市内の風物詩である。明治初期の書物に「盆踊りは田舎の踊りなり」と記すが、いざ戦さともなれば、家臣を集めるのに太鼓を用いなければならない城下にあって、「ドンと叩いた太鼓の音にあの世この世のヤレコリャ戸が開く」(戸水「南無とせ踊り」)賑やかな踊りを、夜通し行うことは出来るはずもなかった。侍の居住地あたりは静かでなければならない。そのためにも、鳴り物はせいぜい「鼓(つづみ)」程度の「謡」が奨励されたのである。
盆踊りを、医王山周辺では「ちょんがり」、といい、その他では「じょんから」「じょんがら」と呼ぶことが多い。この踊りは、願人坊などが広めたとされ、ジョン・カランの鉦(かね)の音が「じょんから」になったとされる。ところが、金沢では、その他に二つの由来が語られてきた。一つは「ジアンワラク(自安和楽・自和楽)」で、歌い踊れば、自然平和で楽しくなる、という説。もう一つは「ジョウから(上(じょう)から)」教えて頂いた踊りである、との説である。「上(じょう)」は蓮如上人のことで、戸水地区の「南無とせ踊り」や、合掌の仕草(しぐさ)が交じる東原地区の「念仏踊り」も、蓮如上人を偲(しの)んで踊りが始まった、と伝承しており、いかにも真宗王国らしい由来が語られている。
「じょんから」には様々な踊りがある。ところが、五〇〇年前の蓮如上人の事跡が、ついこの間のように語られる土地柄の金沢では、どの盆踊りも、盆踊りの原点ともいうべき「歓喜嘆歓喜談(かんぎだん)」「目蓮尊者(もくれんそんじゃ)」が中心となっている。
「歓喜談」は、正式には「信後相続(しんごそうぞく)歓喜談」といい、天保二年(一八三一)に刊本が出たほど流行したものであった。この本には一〇の段物(物語)が収められており、その最初の演目が「茶飲み噺(ばな)しの意味」である。ここから、この踊りを「茶飲み咄(ばなし)」という地区もある。
「目蓮尊者」は、地獄に堕(お)ちた尊者の母を救い出すという内容の歌で、母が救い出されたとき、尊者は喜びのあまり、左回りで踊り出していることに気付かなかった。そこから、「目蓮尊者」だけは普通の踊りと反対に左回りで踊る、とされている。これは、盆の終わりにあたって、先祖を送り出す仕草を踊りで表したものである。
「目蓮尊者」の囃(はや)しが「ツイトコー」「チョイノニッカンチョ」で、「歓喜談」は「ハブライナ」である。囃しの由来が分からなくなっていることでも、これらの踊りの古さが窺える。ちなみにジョンカラの一つの由来である「自安和楽」は、仏教語には見えない。
多くの人々が集まる中で、音頭取(おんどと)りは通る声で歌わなければならなかった。そのため、ノドから血を吐く程、ノドを鍛える修行をした、ということが各地で語り草となっている。「めでた」の船頭、「謡」の棟梁も同じことであろう。
集団があり、それを統括していくには、それだけの声が必要だった。そういう意味でも歌声は、生活になくてはならないものだったのである。

※「歓喜談」は「歓喜嘆」、「目蓮尊者」は「目連尊者」でなければならないが、民謡採集史(というものがあるとすれば)における初期の筆写がそうなっており、特に「目蓮尊者」についてはいきさつがはっきりしているので、いつか触れる。

心の中にあった城下の境界

城下町金沢は、尾山御坊の寺内(じない)町から始まり、幾多の変遷を経て、寛文六年(一六六六)に城下町造りが完成した。区画された町とは別に、人々は、どのあたりまでを城下と意識していたのであろうか?
心の中の金沢を訪ねる。

天神と地蔵

加賀藩主前田家は、三代利常の頃から、天神・菅原道真の子孫であることを正式に名乗った。今、天神は学問の神さまである。だが、藩主前田家と、それを取り巻く家臣団にとっては、天神はいくさ神であり、敵を打ち破る猛々(たけだけ)しい神だった。それを証明するように、金沢に伝わっている初期の天神画像は、「怒り天神」系のものが多い。
元和元年(一六一五)から整えられていった寺町小立野、卯辰の寺院群は、軍事的防御ラインであると共に、仏神の力によって精神的な恐れ(魔)をも防ぐ場所でもあった。むしろその方の期待が大きかったかも知れない。そのため、そこには、藩主以下を守ってきた天神も祀(まつ)られ、より強力な結界が張り巡らされていく。
天神の縁日は二十五日で、金沢には、それにちなんだ二十五天神巡礼札所がある。第一番が野町玉泉寺で、寺町、野町、片町中央通り、三社町、長田、中橋町、広岡町、本町、此花町、瓢箪町、浅野本町、山の上町、東山、卯辰町、橋場町、桜町を巡って第二十五番天神町椿原天満宮にいたるもので、城から三銑談にの円周内に整えられた。
この巡礼札所は全国的に見ても、最も早い時期に成立したもので、宝暦二年(一七五二)には、俳人仲間によって金沢二十五天神巡りが行われている。この範囲が城下の内、と意識されていたのであろう。
この二十五天神を結ぶラインは、藩主の信仰と関わる金沢独特の境界であるが、この世とあの世の境が意識される墓地に、六地蔵が祀られているように、境界に安置されたのは地蔵が多い。もともと塞(さえ)の神・道祖神(どうそじん)などと呼ばれた結界石を、地蔵が肩代わりするケースが多く、金沢には、地蔵の縁日、二十四日に由来する二十四巡礼札所と、その倍の四十八巡礼札所が成立した。先に出来た二十四巡礼札所は寺町から犀川を越えた片町までの範囲に集中している。犀川は、本来、塞(さい)川であった可能性が強い。

倉ヶ岳・高尾・黒壁

金沢と野々市境にある倉ヶ岳(五六五叩砲蓮加賀国領主の居城・高尾城の背後にあって、山頂付近に倉ヶ岳城址、大池、小池がある。近くの倉ヶ岳集落には、一〇本もの杣(そま)道が通じているといい、天文一五年(一五四六)に現在の金沢城の地に尾山御坊が築かれるまで、麓の野々市・金沢一帯からは霊山と仰がれていた。倉ヶ岳には、霊山伝説とでもいうべき特有の伝承が伝わっている。
一四八八年(長享二年)、一向一揆との闘いに敗れた加賀国領主・富樫政親(まさちか)は、居城の高尾城から倉ヶ岳に落ち延びたものの、追跡してきた一揆方の水巻新介と一騎打ちの末、馬もろとも大池に墜ち、戦死したという。政親の亡くなった旧暦六月九日には、池に朱塗りの鞍が浮かび、人びとは決して池に足を入れてはならない、とされていた。
鞍は神の象徴で、鞍が出現するのは神の示現を意味する。大池は雨乞いなどと関わる聖なる池であって、神に祀りあげられた政親の話が加わることにより、具体的な、忘れてはならない聖地として、語り継がれてきたのである 
この倉ヶ岳の艮(うしとら)・鬼門(きもん)にあたるのが伏見川の上流、三小牛町にある黒壁である。鬼門は、古代中国で生まれた概念で、冬になると北方から侵入してくる異民族に対する恐れが元になっている。
中国の都市造りを真似(まね)た日本でも、艮の方角に強力な仏神を安置した。例えば、平安京では、鞍馬山が艮に当たり、そこには毘沙門(びしゃもん)天を祀っている。畿内からは、越(こし)の国が艮にあたり、艮の延長線上に、白山、気多(けた)、須須(すず)神社の強力ないくさ神を配置した。
黒壁には、そのような地が持つ様々な要素が凝縮されている。『三州奇談』や『亀の尾の記』は、黒壁は魔魅(まみ)の住む所であり、山に慣れたキコリたちでさえ、日暮れともなると近寄らず、また異人に逢って命を失う者が多かった、と記す。また、利家が金沢城に入城した際、一向一揆の拠点・尾山御坊のあった本丸が魔所だとして、黒壁へ移し込めたとの伝承もある。境界は、修験者の格好の修行場でもあった。京都の鞍馬山と同じように、黒壁にも山伏が出入りした。現在、ここには、観音の化身とされ、天狗を祀る九万坊大権現天台宗薬王寺があり、商売繁盛の信仰を集めている。
また、高尾では、時々、隠火(人魂)がさまよう様子が見られたといい、それは、政親の亡霊とも、前田に滅ぼされた一向一揆指導者の「坊主火」であるともいわれていた。

山人と里人のふれあい、椀(わん)貸し伝説

山と里の接点を語る伝説の代表に「椀貸し伝説」がある。里人が儀礼に必要なお椀を、境界(穴が多い)で頼んでおくと、それが用意される。ところが、約束の日にお椀を返さなかったり、数が減っていたりしたことから、椀貸しは途絶えてしまう、という話で、山人と里人の物々交換の様子を伝える話とされている。金沢近辺で「椀貸し伝説」があるのは、医王山の大池、竹又の椀貸し田、犀川上流東布瀬の椀貸し淵、梅田の膳貸し穴、脇原・北方の間の天狗カべ、才田山の御亭(おちん)山、御経塚(おきょうづか)などで、これだけ多くの「椀貸し伝説」がまとまってある所は珍しい。里人にお椀を貸しに来た使いが、才田・御経塚では狐だと伝え、才田には蓮如上人のお手植松・盤持(ばんも)ち石も伝承されている。
蓮如上人が境界に登場するあたりは、いかにも一揆国らしいが、ここに記したような、城下以前の歴史を語る話が、さりげなく顔を見せているのが金沢である。こうしてみると、加賀藩三〇〇年の歴史も、長い金沢の歴史の通過点でしかなさそうだ。金沢は奥深い。

2017年-08月-08日-Tue

浅野川界隈

| 09:11

7日、大桑先生に「安居ご苦労さま」と言いたいのと、長年行っていない親戚寺院を訪ねて、
浅野川界隈を歩いた。
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大桑善福寺本堂

金沢市指定文化財
善福寺本堂 附絵図二枚
善福寺本堂は、宝暦九年(一七五九)の大火後、江戸時代後期に、本堂建築としては珍しい土蔵造りによって再建された。
 土蔵造りの土壁の厚さは、ほぼ一尺。漆喰塗りで軒先まで塗り籠め、間口部には土塗の引戸や土扉を設け、耐火性を高めている。
 全国的にも数少ない土蔵造りの近世本堂建築の遺構であるとともに、宝暦の大火後における金沢城下を物語る貴重な建物である。 
 平成二十五年四月十一日指定
       金沢市

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小鳥屋橋」
善福寺さんから大通りに出る手前、浅野川大橋近くに架かっている橋。
このあたりが、小鳥屋(ことりや)町だった。
後、材木町の一部となる。今は橋場町なのだろう。
連れ合い旧姓が小鳥(ことり)で、先祖の地は高山の小鳥(おどり)郷だそうだが、金沢は小鳥(ことり)だ。歩いて見るものだ。
大正一年三月架」とある


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近くの、雰囲気のある建物。
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浅野川上流方面を望む。
向こうの橋が「天神橋」。
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円長寺本
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経堂

金沢市伝統建築物指定
加賀藩 第3代藩主前田利常公が卯辰山へ鷹狩りに来た際、突然の雨に襲われた 。
その時、雨宿りに寄られたのがこの円長寺である。御茶をお飲みになって休憩された利常公は円長寺を気に入って下さり、その後もたびたび円長寺に訪れられた。
 たった一度の雨宿りから始まったご縁はいつしかまり、前田家の家紋である剣梅鉢 を袈裟使用することを許されるまでになった。と伝えられている。
御輪堂
約六千巻納められている。
正面に笑い仏と、その子どもたち 、側面には毘沙門天を始めとする守護神が経文を守るように安置されている。

経堂を御輪堂と言っているのだ。
風を通すため、回転式になっている。
御輪転書庫になっている堂ぐらいの意味

高校生ぐらいまで、よく泊まった。
朝、寝ていると、三味線などを練習する音が聞こえたが、
こんなに有名な観光エリアになるとは…。
車で入りにくくなり、それで、久しく無沙汰だ。

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ちょっとしたところに個性がある。
石川県青年文化祭の余韻もあって、
ポンと県の図が目に入った。
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浅野川大橋。

農家民宿 フォレスト FOREST(輪島市門前町和田)

| 06:14

先日、奥能登塾で知りあった農家民宿フォレストさんを、星野さんと訪ねた。

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臥龍山(連山の総称)の麓、田園、川。
素晴らしい景観の中に、年月を重ねたしっくりと落ちついた家、そして色んな所で活躍なさっている森さん。

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能登民家の精緻が凝縮されている軒
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このコロガシワクは寺井加賀平野)で用いられていたもの
鹿島町史』では、二宮のコロガシワクの例として、一株の間隔は八寸、一人四株の割合で二人が一組となり、縄に沿って後ずさりしながら植えた、とあるが、
これは見たところ、三株ずつ三人で植えたようである

加賀平野と邑知潟付近水田規模の違いなのだろう。

中に入ると、能登と加賀のコラボレーションを見ることも出来る。
結果的に、加賀平野で用いられた農具があることによって、百万石を支えた能登・加賀の原点が顔を見せているのだ。
農家寺子屋でもいい。


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近くに見事すぎる亀甲石があった。

わずかの時間だったが、笑顔の素敵な森さんのお話しを聞きながら、
こんなところで、一週間くらい、ゆったりと読書ギターをつま弾いたり、書いたものの整理などをしたらどんなにいいだろう、と思った。

●フォレスト /FOREST

〒927-2176
石川県輪島市門前町和田6-31-1
ホームページhttps://notoforest.com/
Facebookページ:https://www.facebook.com/notoforest/?fref=ts
お問い合わせ
info@notoforest.com→HP
Tel & Fax:0768-42-1022
2017.4.1 OPEN
フォレストは、輪島市門前町の和田という集落にあります北國銀行門前支店のある「走出」の交差点を門前中学校方面へ。右にカーブした農道を500mほど直進して左折した先の正面の建物となります。
大本山總持寺祖院から車で3分輪島の中心市街地からは約20分です。詳細はお問い合わせください。

 ※7日、柳田の「ぶなの森」能登事務所によって、後ほど今井さんからフェイスブックを通して「フォレスト」について教えていただいた。
フェイスブックは今ひとつ仕組みがわからない。どうしてこんなことが出来るのだろう?