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能登のうみやまブシ(西山郷史)

2018年-09月-29日-Sat

七尾市立図書館友の会-語り−28日(金)

| 09:09

御縁が出来て、話すことになった。
希望は「能登立国1300年について」だったが、一時間で話せるテーマ−では無い。
かに絞ろう、文化が凝縮されている能登の、国府、城があった七尾だ。
切り口は色々あるが、図書館友の会だし、図書館で出版されている『七尾の碑』に載る西条八十の碑が、金子みすヾを世に出した西条八十以前に取り上げられたものだったので、八十から、家持、梁塵秘抄につなげ、月の半島・能登にまで持っていこうとストーリーを練った。
ただ、月につなげるには
補陀落浄土の「補陀落」、
最も大きな罪びとが救われる慈悲の姿−月愛三昧などの基礎が無いと、理解できない。
一方、能登島大橋の明かりがなぜ片側しかついていなのか?
身近な疑問から、
石崎満月の日の祭り仏事旧暦で行われてきたこととの関わりに触れれば、
やはり、これだけで、一時間だろう・・・。
会場近くを散策した。昔の図書館、小牧旌さんが館長をしていた七尾市少年科学館の地だという。
小牧さんの話をしていても1時間だ。

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小丸城址公園碑。
左が城址公園。
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左:花嫁のれん館−現在杉森久英展をやっている。
昨日(28日)の北國に、詳しく載っていた。
それに拠ると、杉森久英(1912〜97)さんを紹介する企画展出身地である一本杉町の花嫁のれん館ではじまった、とまずある。
私は羽咋工業に勤めた頃、杉森久英氏の弟・喬氏が在籍されていた。
東大出た英語教師ということだった。その時、杉森先生は高教組の専従(委員長書記長)で在籍のまま、金沢においでたのである。
とはいえ、数回お会いしたし、お話しした記憶もある。
彼の家は父の実家近くの飯川(七尾市いがわ)だった。
そういう印象が強いため、いつの間にか兄が引っ越ししたような印象を持っていた。

記事には次のようにある。
一本杉の勝井家が母の実家で、そこに生まれたので生家とされており、幼少期を過ごした。
また花嫁のれん館はかつて父親が勤めた役所があった場所
これで、氷塊。
私もある論文で、母の実家で生まれたため、出身輪島市と書いたことがある。
それで長女の佐々木淳子さんが久英氏の妻喜久代花嫁衣装を同館に寄附。
10月22日まで「『天皇の料理番原作者杉森久英展」が開かれている、というもの。
時間も無く、入る気もなかったが、
なぜ、「七尾の生んだ直木賞作家杉森久英展」あるいは、『天才狂人の間』『能登』の作家としなかったのだろう。           
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前田利家松子の像。
碑文を見る限り、作者が誰か分からなかった。

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このところ、木越光徳寺に関する話題が続いた。
一つは、前日27日の同朋会推進員勉強会で、蓮如上人の生涯年表を扱っていて、10組に関係あるものとして正院西光寺蔵の親鸞聖人伝絵が、文明3年木越光徳寺に下付されたものを宣如上人があらためて西光寺に下付したもの(市指定文化財)と話したばかりだった。
文明3年は蓮如上人が吉崎に来られた年で、木越に光徳寺がすでにあったのだろう。
七尾光徳寺は木越光徳寺が退転したあと寺名を次いだ中の一つとされ、その名もこの通り「木越山光徳寺」である。
もう一つは、高岡教区門徒研修で、訪問先の一つとしてこの光徳寺があがっていた。理由は4組エリアの井波大工が光徳寺の建立に関わったというもの。
そういう解説板でもあるかと思って、境内を散策したのだが、なく井波大工との関わりがあるとすれば『市史』を見るしかないのだろう。
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「三代句碑」というものもあった。
『七尾俳諧史』を仲良くして貰った故・松浦五郎氏が書いておられる。
読めばいわれがわかるのだろう。
松浦さんが「まだら」は万葉に出てくる晴着の意であることをお書きになっている。
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公園をきれいに保っておいでる人。
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会場の「寄り合い所 みそぎ」

ともあれ、ほとんどが初めてお会いする方々ばかりの場で、時を持った。

来ておられる方々の中で、11組〜14組坊守さんに1人に似た方がおられたので、声を掛けると、関係無く
富来からわざわざ来られた方だった。
その方は、富来にお嫁に来て4年。
富来のことを知ろうと調べると、よく「西山郷史」という名が出てくるので、一度話を聞こうと思ってやってこられたのだという。
たまたま声を掛けた方が、そのような方だったとは、縁があるのだ。
語り部」に徹しなくてはと、思った。

新聞社には、坊守会で七尾へ行った18日。
こういう行事がありますよ、とメモ書きを置いてきた。
というのも、今年いっぱいは1300年の連載がありそうなので、時間があれば能登の背景を聞いてもらえたら・・・と考えたからである。

例えば熊甲の祭礼。
なぜ20日なのか−瀬嵐のエビス祭りが基本にある。
一帯は熊野信仰拠点であること。
なぜ谷内河原に結集して枠旗(これは天野武氏が文化庁にいた頃の命名で、元は大幡)練るのか。
谷内河原とは?−瀬嵐から神が一旦やってきた地であり、虫が峰(釶打山)の遙拝所なのである。

こういうことを知っていて記事にするのと、全く知らないで記事にするのとでは違うのではないか・・・とのお節介で置いてきたのである。
私が文化面などで書いた頃は、親しくさせていただいていた記者の砺波氏と、時には泊まりがかけで調査取材したものだった。

今は慌ただしいのだろうし、ゆったり人の話を聞く時間もないのだろう。
で、終わってから前図書館長の大谷内さん(この方は私が30年ばかり前に中島町民俗主任として調査・執筆していた時、町史編さん室の事務をなさっておいでた方で、当時すごくお世話になった。
個性的研究者と話を合わせ、調査・執筆まで持っていくため、編さん室には優秀な方が配置されていた。図書館館長になっておられたのを知った時、さもありなんと頷いたものだった)に、能登のことを知って貰おうとメモを置いてきたのだけど・・・と話すと目当ての人ではないけど、来ていたというので
そうなんだ、声をかけてくれればよかったのに・・・。と話ながら句仏上人の碑と気になるお墓のある本龍寺さんへ共に行ってから別れたのだが、
今朝、記事が載っていた。
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2018年9月29日(土)北國新聞朝刊石川北版

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