和装組曲♪

・・着付け教室、琵琶演奏、能面制作などに勤しむ日々のあれこれをグダグダと綴ります・・

お盆休み・・・

皆さん如何過ごされたでしょうか?

私はといえば、お経をあげてもらい、



お墓参りをした。
このお墓の後ろのニセアカシアの林の背後に砂浜と海が広がっている。



車を運転しながら、田舎の昔懐かしい風景を楽しんだ。



稲穂はたっぷりと実っていた。完全に色づくにはもう少しかかりそうだ。



今日は母との思い出をちょっと書こうと思う。
お墓参りをしていてふっと懐かしく思い出したから。
多分長くなる。
どうか皆さん・・・ここでスルーしていってください。
私はここに書き留めることによって母への感謝を一つ一つ形にしていきたいと思うだけ。
皆さんは最後まで律儀に読もうなどと思われる必要は全くないのだから。。
ちょっと暇で読んでみようかという方・・・・どうぞ。



    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・♪♪・・・・・・・



高校の時の体育祭の話。
クラスや学年対抗の運動会のようなものと思ってもらえばよい。
1学年450人が3学年、総勢1300人程度の生徒数。

私は障害物競争に選手として参加。

A、はハードルが幾つか置かれ
B、は漁業網が置かれ
C、は平均台
D、は何だっただろう…あまり記憶がない。
E、は俵が幾つもあった。

Eからゴールまでは来賓と先生方の席。

「ヨーイ、ドン!!!」で10人程度一斉に走り出す。
私はハードルが得意。ひょいひょいとリズムよく飛んでいた。
しかも網はじいちゃんが漁の時によくつくろっていたので、どの方向に進めば伸びるとか、固定されやすく進みやすいとかもよく知っていた。
水を得た魚のように・・という表現はちょっと変だが実に楽々とトップに躍り出た。
平均台も実は苦ではなかった。
姉が部活で器械体操をしていて姉を待っている時間よく体育館隅で乗って遊んでいた。
平均台を歩く時は足元を見たらまずバランスを崩す。遥か平均台が終わる所を見ると案外バランスを保ちやすく歩きやすいと教えてもらっていたので。

余談になるのだが、この感覚は年を取って中型二輪のバイク免許を取る時にバイクで巾10センチのいわゆる平均台の上をバランスよくゆっくり走らないといけない講習があるのだが、私はこの時も実に上手だった。いやいや、嘘ではない。この講習を受けたのが五十代だったがほとんど落ちたことがなかった。バイク諸共平均台から落ちると後が大変。重いバイクを持ち上げもう一度平均台の初めからやり直しである。バイクの時の平均台は20から30センチ程度の高さであるが、この障害物競争の時は高さはバラバラで高い1メートルあるものもあれば50センチや30センチの位の低いものもあった。遅い前の人の後ろになると大変なので色々なものが用意され瞬時にどれを選ぶかも選手の判断であった。落ちると最初からやり直しである。
他の人を悠々と引き離し私は最後の俵を潜り抜ける所に進んだ。
この時点で誰も私の一位を疑う人はいなかったはず。圧倒的に引き離していたのだから。
ところが、その俵・・・大きいものと小さなものとある。狭いものとゆとりのあるものが。
平均台などで考えるべきだった。全く考えもせず一番近い俵を選んでしまった。
いゃあ〜ちょっと見には余り大きさなど考えもしない位の差だと思ったのも確か〜。しかも縦半分にしてあちこちにばらまかれていた。

そして・・・何という事。俵に入ったはいいのだが、体が抜けなくなった。無理に抜けようとするとその時着ていた運動服が抜けそうになり、逆にもう一度やり直そうとすると当時はいていたブルマーが落ちそうになる…身動き取れなくなって泣きそうな気分になる。何度も色々試みる、そして何度も足掻く。が、ドンドン焦る気持ちとは裏腹ににっちもさっちもいかなくなっていくのだ。クラスの人の絶叫を受けながらも、やがて後続の人に全て追い抜かれてしまった。

私はと言えば、もうあきらめて身動きしない。
係の先生が走り寄って「どうした?」
「動けない!!」と私。
涙ぐんでいたやもしれぬ。
今の煮ても焼いても食えぬ私ではない。
とっても素直で可愛い女子高校生の私だからして。

何人もの先生が走り寄って何とか私を俵から出そうとするのだができぬ。
で・・・俵に入ったまま私はゴールに行け・・と言われたのだ。
「えっ?こんな格好で?!」
「やだ!!」

何せ次の人たちがスタートラインで待っている。
観客の生徒たちもどうしたのかと騒ぎ出す。
しかたがない・・・


こんな不名誉な姿でゴールした。
一位でもないのに両手をあげて。
私って弥生時代の人?
でも、うふっ・・・絵にかくと案外私も可愛いわあ〜♪

しかもこの時誰が最初にしだしたか、拍手が起こる。
皆腹を抱えて笑い転げて拍手していた。
あの物凄く遅い最後の人に「ご苦労さん」「頑張れ!!」とするような拍手を。
お願い・・・拍手はやめて・・・泣きそうな気分で私はゴールしたのだ。


ゴール近くで何人もの先生方が集まり四苦八苦して出してもらった。
「こんな狭い俵、用意したのは間違いや」
「試しもせんで置いたんか」
などと先生方は口々に言うのだが、言うのだが…
その後、私のミノムシ姿を見て「プッ〜」と笑うのだ。
特に担任の先生・・実にいつもはクールで感情を表に出したところを見たことのない先生が、
私が俵から抜け出せた後で背中を向けて「クッ・ク・クッ」と肩を震わせて後姿で笑いながら自分の席に戻る姿を見て物凄く傷ついてしまった。

一方私は、自分の席に戻れなかった。
思春期で一番感じやすい時に何とも無様な姿を多くの人たちにさらしたのだ。
恥ずかしくて。
情けなくて。
もうどうしていいかわからなかった。
叶うものなら消えてしまいたい、そんな気持ちだった。
行き場がなくてトイレに行った。

トイレの中で手で顔を覆った。
どれくらいそうしていただろうか。
いつまでもそうしている訳にもいかずのろのろと出ようとしたその時に沢山の人たちが入ってきた気配。
「ね?あれ見た?」
「ひどくない?」
「私なら学校来れない!」
しばらくは学校で皆の笑いの種になりそうな予感。
出るに出れなくなり、またもやトイレの壁によりかかったのだ。

そんなこんなでもトイレから出たら友達が私を探していた。
「何処行ってたの?」
「トイレ!!」
「酷いわぁ〜、あんな狭い俵なんて使う?あんな姿さらしたら、私だったら二度と学校来れん。」
と言う友達の言葉に更に更に深く傷つく。

あ〜あ、その場から逃げれたらどんなに楽だったろう。




え?
話に母が出てこない?
そう、実はその日の学校の帰り道、母を見たのだ。

今の大和デパートではなく、昔あった片町の大和デパート前で。
一人とぼとぼと歩く私の目に見慣れたリヤカーが目に入った。
大和デパートの前は当時金沢では一番の繁華街で人が多かった。
リヤカーの近くに母がいた。
膝にツギの当たったモンペ姿で手ぬぐいを頭に被っていた。
今でこそ見かけないが白い軍服で白い帽子をかぶり四つん這いになっている人がいて、母も膝をついて何か一言、二言、話かけていた。
所謂、傷痍軍人である。手が肘から先がなく、脚も膝から下がなかった。その人は顔を伏せ俯いていた。
ない手の先と膝の先には汚いぼろ布が敷いてあった。
骨が下のコンクリにあたり痛いに違いない。
四つん這いになり空っぽの缶を置き軍歌を流し、行きかう人にものを乞うていたのだ。
当時は時々そんな人がいた。
ちょっと怖い気もしてなんとなく離れて歩いたものだ。

母はその日リヤカーで金沢に小売りして歩いていた。
リヤカーの中は既に空っぽなので売り終わったのであろう。
私は大きな柱の陰に一瞬隠れた。
何故隠れないといけないかはわからなかったけれどなんだか、そのまま見ていてはいけないような気がしたのだ。

母は腰に下げた大きながま口を開けて中のお金を全てお札も含め小銭までそこに置かれた缶にあけた。
そして頭の手ぬぐいを取り頭を下げた。
売り上げを全てその傷痍軍人の前の缶に入れた時、見物していたであろう一人の男の人が母に言った。

「沢山の恩給をもらっているからそんなことする必要はないぞ」
周りにいた何人かの男たちも
「そうだ、そうだ」
とはやし立てる。
「わしらよりよっぽど暮らしは楽なはずだ」
みたいなことを。
確かに。皆すこぶる貧乏だった。
まして母のその時の服装は誰が見ても暮らしに余裕のあるものではなかった。
いやそれどころか、その辺にいる人の中で一番みすぼらしい姿だった。
デパートの前である。
買い物に来ていた人たちは着飾り、いや着飾らなくてもこざっぱりとしていた。
何人もの男たちの揶揄の中で母はどうするのだろう・・・と息を凝らした。



その時母はそう言った男の人を真正面からスッと見た。
そしてわずかな沈黙の後に、毅然としてその男たちに静かな口調でこう言った。
「あなた方、この人と人生変われますか?」と。
「確かに私は貧乏です。この僅かなお金は私の今日の稼ぎの全てです。でもその使い道をあなた方にとやかく言われる事はないと思いますけど。」

視線をそらさず、射るように見る母の姿に
男達は口の中で何かブツブツと言って背を向けやがていなくなった。
俯く傷痍軍人に母は一言二言、言葉をかけ、やがて母は手に持っていた手ぬぐいを被りリヤカーを引きながら歩きだした。
母は胸を張って(いつも胸を張っていた人だった)、まっすぐ前を見て歩く人だった。
当時の私の年齢から計算すると、丁度その時母は45歳のはず。

何だか見てはいけないことを見てしまった気がした。
母にすぐ言葉を掛けられずにしばらくずっと後ろをついて行った。
大きなスクランブルで右に曲がったところで声をかけた。
かあちゃん!!」と。
びっくりして母は一瞬目を宙に泳がせた。
この子は何処から私の後を歩いていたのだろう…と
何時から私を見ていたのだろう…と瞬間思ったに違いない。
私はつい今しがた母を見たような風に言い、カバンと体操服の袋をリヤカーのざるに入れた。
そして母と一緒にリヤカーを引いた。
「一緒に帰ろ!!」と私。

「今日は早いね〜」
「うん、体育祭だったから」と。

家に帰るバス停があったが、その日は母と一緒に歩いて帰ろうと既に決めていた。
いつもなら
かあちゃんは昼食べてないので途中何か一緒に食べようか?」
と言う。一緒に食べると言っても大したものではない。素うどんを二人で分けて食べる時もあれば、パンを買って途中のあぜ道で二人半分こして食べる時もある。家から持参したおにぎりの時もあった。
でもその時の母は何も言わなかった。
母はまだお昼をひと口も食べていないはず。
全てリヤカーのざるの中が空っぽにならないと食事はないのだ。
しかもその時の母のがま口の中には一銭もないのも私は知っている。


その日の体育祭のわが身の不運をこれ以上ないという位の勢いで話す私。
心のどこかに母を元気付けたいと思う気持ちもあった。
無様な姿の自分の事を話して、ちょっと笑わせて嫌な気分を払ってもあげたかった。
そして何より気にすることはないと私自身も励まして欲しかった。

黙って時々笑いながら聞く母。
私は母の慰めの言葉をちょっと期待していたのだが、母は私にこう言った。
「・・・・あなたの毎日は本当に平安ね〜・・・♪」と。

「何処が、よ!!」
「何が、よ!!」と私。
「しばらく学校いかんわ、私」
行かない・・のではない。とても行けそうもないのだ。
母はどうせよとは一切言わなかった。
ただその後、2人で田んぼ道を大きな声で歌を歌ったり、話をしたりして帰ってきたっけ。

3時間近くもかけて小売りしに金沢に出ていき、売上全て傷痍軍人の缶の中にいれて、更に3時間近くかけて家に戻る母。
母と一緒にリヤカーを引きながら我が家も決して裕福ではないけれど、いやむしろとても貧乏で学校に払うお金もままならない日々だけれど私もあの四つん這いになって物を乞う姿を思い浮かべながら確かに私の日々は平穏なのかもしれないと思う。貧乏であってもまだまだ恵まれているのかもしれないとも思う。貧乏は決して最悪ではないのだと。

その日家に帰った母は病床の父の枕元で何か話をし、そして翌日もう一度小売りをするため、畑へ出かけて行った。
父は心臓に少し難があるのと若い時に大けがした脚が時々痛み、季節によっては何日も寝込むことがあった。
それでも体の調子のよい時は日雇い人夫をして家族を養ってくれてもいた。

翌朝3時、私の枕元に来て「金沢へ行って野菜を売ってくるからあんたも自分のせんといかん事はちゃんとしなさい。」
と言い母は重いリヤカーを引きながら暗い外に出て行った。
私はといえば、母に起された後、牛乳配達と新聞配達をすませ、母の作ってくれていた朝ごはんを食べ、
「とうちゃん、学校行ってくる」と病床の父に言うと
「おっ?そうか。そんな時間か」と笑って父。
前日の事を母は父に言っているのか、いないのか、それも私は知らなかった。
7時のバスに乗って学校へ行った。
バスの中でも学校の道すがらも教室の中でも
「クスクス」と目や顎でそっとさされもしたし分からないように笑われもした。
流石にあからさまな物言いはないのだが、ハリネズミのように全身神経を立てている私には何の慰めにはならなかった。
明らかに私の事を話しているに違いないという場面に何度も何度も遭遇する。それは職員室の中でも一緒であったし、廊下ですれ違う先生たちでも一緒だった。
友達に会う毎に
「私やったら学校来れん。あんた凄いわ。」
と何度も言われ、私は更に更に更に傷ついてしまう。そんなに私って凄まじい姿だったのだ。(笑)
はいはい・・・
どうせ私は脳天気ですう〜♪
鈍感な女ですう〜♪

だけど心には母の言葉。
「この人と人生変われる?」


運動会大キライ!!!
体育祭大キライ!!!

そう思ってその後は一切何が何でもどんな形にせよ出なかったし、断った。
それより、私を選手として推薦してくれる人もめっきりいなくなったのもあった。

50年近く前の話。
実はこれには後がある。
この話の時から14年後のこと、私にはひそかなリベンジ編が待っていた。
でも長くなるから、いや既に十分長いのだが、今日はこの辺で。いつか機会があれば。

かつては母とリヤカーを引いた道を車で走って墓参りに行ってきた。
道の両側は田んぼだけだったのに今では全て家が建っていた。大きな工場もあった。
道も綺麗に舗装されている。新しい道もずいぶん増えて一瞬自分が何処にいるのか分からなくなるように様変わりもしていた。
家の一つから外国人と思しき親子もいて三輪車の練習をしていた。
こんな田舎にすら外国の人たちが住んでいる。
時代が恐ろしい勢いで流れている。
砂利道を話をしながら歩いていた母とのことを思い出しながら懐かしかった。

「かあさん、私を育ててくれてありがとう」
墓に手を合わせた。




        十億の人に十億の母あらむも
                 わが母にまさる母ありなむや
                           (暁烏敏)