たそがれとかはたれ

  たそがれ清兵衛山田洋次監督の初の時代劇映画ということで話題になったことがある。私が以前よく行った松本は縄手通り、元は露店から発達した川沿いに連なる江戸の長屋風の商店街、その中でも唯一ともいえる飲み屋の**亭。そこでこの映画の話になったことがある。

 −−江戸時代にもうたそがれ(黄昏)という言い方があったのかねえ?と私。後から思えばちょっとトンチンカンな疑問を投げかけた。私は黄昏という言い方に、何かしら現代的というかロマンチックな響きさえ感じていたのだ。かって黄昏族なんてのもあったし、私が愛読しているコミックに「黄昏流星群」というのもある。

 −−なに言ってるのよ。たそかれってとても古い言葉よ。と元高校教師のマスターとともにこの店を支えていたT女史。今は焼き鳥屋さんのおばさん(失礼!)だが、私の高校の先輩にして、かっては当市の女性市議として名を馳せた、そして多くの常連客からも一目おかれている見識の方である。

 −−高校の時、習わなかった?誰(た)そ彼(か)れは?と彼(か)は誰(た)れそ?って...。少なくても平安時代あたりからある言葉よ。黄昏なんて漢字は、後で適当にくっつけられたのよ。後で辞書でも確認してみて。

 すなわち薄暗い夕方のことをたそかれといい、同じく朝方のことをかはたれというのであるとのこと。たそかれもかはたれも、薄暗く相手が判別出来ないような時に誰何する言葉というわけで、それが転じて、朝方や夕方そのものの意味になったというわけであと..。

 これにはいささか愕然とした。そう言われれば習ったような気もするが記憶にない。帰ってさっそく古語辞典(角川版)を開いて見た。たそ−かれ 後世は「たそがれ」たそかれどきの略。「たそかれにほのぼの見つる花の夕顔(源・夕顔)、たそかれどきとは、すなわち「誰(た)そ、彼は」と人の様子が見分けにくい時の意、夕方、夕暮れ時。

 同様にかはたれときは、「彼(か)は誰(た)れ」と彼は誰か見分けがつかない時の意で、明け方に使われるようになった。最初両方混同して用いられたようだが、次第にたそかれは夕方、かはたれは朝方に区別して使われるようになったらしい。「暁のかはたれときに島陰を漕ぎにし船のたづき知らずも」(万20・4384)と古語辞典に載っているので、万葉時代にも既に使われていたのかも。

 たそかれ、かはたれ、美しい響きのある言葉である。そして長い歴史のある言葉である。知ってみれば意外ななりたちの言葉である。今、日本語ブーム。ひとつの言葉の成り立ち過程をさぐるのも、楽しくとても知的好奇心をくすぐることではないか。