上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

過去

人間は、過去を、自分の意識の方向へと書き換えるものなのかもしれない。過去に対してよいイメージを持っている人たちは、概して美化しがちな方向へと記憶を持っていく。過去を疎んじている人たちは、概して悪い方向へと持っていこうとする。

事実は事実なのだ。しかし、記憶の中の過去には、そのときの記憶を思い出そうとする「今の自分」のイメージによって書き換えが行われている*1。無意識のうちに。おそらく。果たしてそれは事実といえるのだろうか。

加えて、思い出そうとする過去は、思い出そうとした、思い出したい過去しか意図的に思い出されないのかもしれない。もしくは、思い出したくない過去は、思い出したくないと思った、思い出したくない過去が勝手に思い出されるのかもしれない。どっちにしろ、意図的にしろ意図的でないにしろ、意識的にしろ無意識的にしろ、検索作業を行っている以上、その検索対象に含まれていないものは永遠に出てこないということだ。それもまた、記憶にかけられているバイアスの1つなのかもしれない。

文集や写真などが提供するものというのは、そういった「検索」では引っ掛かってこない、とっかかりの鍵を持っていない記憶なのかもしれない。それがきっと、目の前に急に提示されることによって、検索対象に含まれ、スポットライトを浴びたように記憶の底から洗い出されるのかもしれない。無数の記憶の中に埋没してしまった過去の中から、芽が出るようにひょっこりと姿を現したとっかかりを、クレーンが掴んで引っ張りあげるような*2

また、文集など、固定化された文章を読むときにも、その都度読む主体がどのような状況に置かれているかに左右される。卒業文集を読むときも、卒業したての自分が読むときと、今の自分が読むのでは違う。1年ちょっとの間に*3考えてきたことも作用しているし、その間に積み重ねてきたものがある。そもそも、読むという行為を行う自分自体が変わっている(読み方が変わるといえば良いのか)。

しかし、意識の底から、色眼鏡によって歪められた記憶を読み取ろうとするよりも、当時の形がそのまま文章に表されている分、まだ、多少はマシなのかもしれない。

ということは、やはり、過去を思い出そうとするときは、物的証拠を頼りにしながらしたほうが良いということなのだろうか。それも、写真や説明的文章、事実の羅列など、具体的なイメージを想起させやすいものの方が*4

ここから話題が変わる。現実的なものに。

過去にしてきたことを正当に評価できるかどうかは、前述したとおりに全くもってわからない。

ただ、そんな自分の過去を、今という短い間に多少振り返って照らし合わせたところで今の自分が「思った」こととしては、今の自分が立っている現状は、視野が狭すぎるということだ。いつものことながら。

昔から、身近なところにきっかけはいつでも転がっているというもの。それを生かそうとしてこなかったのも自分であるし、たまたま上手い具合に乗っかってここまで来たのも自分である。ただ、自分のおかれている状況を客観的に見ることは非常に難しい。その状況で生かせるものを最大限活かしきることは不可能であろう。結局、何が良くて何が悪かったかはわからない。ただ、当時の自分は、今から判断する限りにおいて活用してきたものと活用してこなかったものが色々とあった。結果として、今の僕がこうしてここにいること。それだけは確かなようである。いや、それすらも確かではないのかもしれない。

それと同様に、今の自分にはおそらく、身の回りにあることしか見えていない。過去にどんなことをしてきたか、そしてそのときにはどのような環境が自分の周りにあったか。そのようなことを考えると、今の自分にはまだ活用しきれていない部分がとてつもなく多くあるのだろう。ただ、今の自分は、勝手に意識の方向を卑近な分野にしか向けていないがために、そこに気づかないでいる。もしくは、気づかないように仕向けている、と言ってさえ良いのかもしれない。当時の僕がその環境を活かしきることができなかったのと同様に、今の自分もそうなのだろうか。

勝手に自分に対して方向付けを行っていること。そこに問題がある。勝手な思い込み。勝手な価値観。勝手な諦念。そのようなものを全て排除すれば、きっと世界は全く違ったもののように見えるのかもしれない。今までの総体としての自分*5を捨て去るとまでは言わないけれども、また凝り固まっていた今の自分を少し解きほぐして、意識の方向を変えてあげてもよいのではないかと思う。難しいことだけれども。

何が言いたいのかよくわからない文章になった。

この1時間くらいの間に頭の中を駆け巡ったことを文章化するのが難しい。あらゆる形を取って、掴もうとする前に次の場所へと流れていく。その流れについていくことが出来ない。多分、上の文章には言いたいことが2つ混在している。それを説明しようとするのだけれど、双方を混ぜてしまっている上に、書こうとするそばでおそらくまだ思考が固まりきっていない。説明が下手だ。どうやら、頭の中の物事を上手く整理して文章に表すことが苦手なのは昔から変わっていないようだ。

おそらく、人にわかるような文章にこの文章をまとめあげるには、もう2時間くらい推敲する必要がありそうだ。いや、多分それでも足りないかもしれない。

*1:犯罪捜査の例を挙げるとわかりやすい。

*2:このようなイメージは図示したくなる。

*3:そう、まだ1年ちょっとなのだ。信じられないことに。

*4:これも、確かに犯罪捜査の例を考えるとそのほうが良いのだろう

*5:果たしてこれも、そんなものがあるのかもわからないけれども。