プチ・アップルパイ

美少女漫画ブームの夜明けが訪れようとしていた。

大学に入る前年、代ゼミで浪人生活を送っていた僕は新宿の「まんがの森」によく通っていた。
そのギャラリーで『かがみあきら』の原画展が開催された。僕はこの展示で改めて彼の作品に触れ、ますますファンになっていた。
8月の熱い盛りだった。
ちょうどその原画展の開催中、かがみあきらは自宅で急逝する。おそらくは僕がその原画を見ていたその日に。
たったの27歳での夭折に、僕は衝撃を受けた。
会いたいと思っていた人に、永遠に叶わなくなることが悔しかった。
これほどの才能のある人が志半ばで死なねばならない--------
神様なんていないんだ、と僕が実感した瞬間だった。

かがみあきらも執筆していたと思うが、美少女漫画というものを前面に出した『プチ・アップルパイ』というアンソロジー徳間書店から刊行され始めたのもこの頃だったろうと思う。



「いからちの会」という高校OG会漫画サークルで即売会に参加する傍ら、僕は自分の個人サークルでの活動を始めた。
サークル名は「迷羊社」。
夏目漱石の『三四郎』の中の台詞から採った名だった。
当初は単にひとりで同人をつくり、即売会参加もしてみたいという動機だったのだが、やがてこの活動は徐々に変質をしていく。だが発足当時はそんなことは露ほども感じてはいなかった。
じつは個人サークルを始めたのは、当時の同人作家「LEO」さん、という人の影響が強い。
僕は浪人時代に彼の同人誌をまんがの森で手に入れ、ある意味同人活動においての目標としていた。
後にも先にも、僕がファンレターを出したのはこのLEO氏ただ一人である。
LEO氏とは、後の漫画家・奥田ひとし氏のことである。

「迷羊社」としての本を初めて持っていった即売会は創作オンリーの『COMITIA』。いからちの会に間借りして参加させてもらった。10円のコピー本。
なぜか飯田橋のショッピングモールRAMRAでのオープン開催。COMITIAがそこを使用したのは後にも先にもこの一回きりだったと思う。
[これの翌年、もう一度だけ同所でCOMITIAが開催されたことが判明。2007/4/49訂正]
隣りのサークルにはそこの友人と覚しき連中がたくさんたむろしていた。参加していたのは『おぐ・ぼっくえ』君というペンネームで、後に漫画家MEEくんの居候となる人だった。
そして、取り巻き連中の中には、『高塚さのり』という人物がいた。


同時に大学ではSF研究会に加入した。
入学当時、学内には漫研がなかったというのも理由だったが。

同じ頃、他大学のSF研の会誌では印象的な美少女のイラストが表紙を飾っていた。
作者のペンネームは『亜麻木硅』といった。

ロリコン漫画」から発した美少女漫画は、次第に「美少女エロ」というジャンルへと移行しようとしていた。

大阪で開催されたSFコンベンションにて、学生達の制作した自主アニメがオープニング作品として上映され、そのクオリティの高さがマニア間で話題となっていた。
DAICON Ⅲ』である。作ったのは大阪芸大の連中。後に彼らはゼネラルプロダクツ、そしてガイナックスという会社を設立していく。
『Ⅲ』に続き『DAICON Ⅳ』を発表、それに刺激を受けた各大学はこぞってアニメや実写の自主制作を手がけ始める。大学SF研が熱気を持ち盛り上がっていた。
東京では理科大アニメ研がコンピューターグラフィックを駆使し『サザエさん』という短編を作る。
中心となったのは大竹隆という人物、ペンネームを大竹(仮名)といった。

九州から四国の大学へと進んだ西崎まりのは、当時この大阪文化圏の中で活動していたらしい。ガイナックスのメンバーとの付き合いもこの頃からだと後に語っていた。
彼が東京へとやってくるのはその後のことである。