告白について


風俗嬢の妊娠線、履歴書の空白期間、ケータイに出るなり ふいに名乗った日本名 … 想いがけないところで言葉によらない告白が始まる。そう、告白は多くにおいて異性に愛を伝えることの謂いで用いられるが、それは用途のひとつにすぎず、元活動家であること、刺青を負っていること、母親が禁治産者であること、執行猶予中であること、おっさんなのにチャットモンチーのファンであること、符の計算が出来るのは嘘であること、あるいは出産、ニート、国籍など、告白のその題材は多彩であるし、冒頭に記すように形態とて多様である。

ブログの文章の一端が、掲載された写真に入り込んだ何かが、エントリ本旨とは別のことを告白し始めることだってある。


そのうちIDごと消えてしまうのではないか、と不安を覚えさせるようなブログに惹かれる。言わなくていいこと、撮らなくていいこと、そのようなもろさのうえに立つそれに。そう気づいたのはこちら様のブログの消滅によってである。

シベールの日曜日」という映画がある。IDアカウントごと消えたことを告知する画面を見ると、この映画のラストを想い出す。一気に瓦解していく結末を。半ば閉じ、半ば開いた小さな世界で育まれる自己とそこで構築される他者との脆弱な関係が、世間によって潰されるのである。


市井のスナップ写真では、不健全なものは隠される。私写真とはスナップ写真の体をとりつつも、市井のそれでは排除されるものを映し出す、すなわち日常に潜む病理を暴露する。シャーロット・コットン「現代写真論」では、そのように定義されていたと記憶する。年末に帰省するまでにコンタックスフィルムカメラを買って、もう先の長くない父親と母親を撮ろうと想う。私に撮りうる私写真はおそらくはそれである。

学生の夏の帰省したおり、まったくすることがなくて、親のPENTAXではいはいをはじめたくらいの甥っ子を撮りまくりながら、日がな一日一緒にいた祖母を撮りはしなかった。やがて寝たきりとなり、入院すると、怖くて病院にいけなかった。私はなにを恐れていたのか。


現代写真論

現代写真論