『藤原氏』
- 作者: 倉本一宏
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2017/12/20
- メディア: 新書
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藤原氏の先祖は天児屋根命とされているが、これは記紀、天孫降臨神話などの形成と軌を一にしたもので、それほど古いものではないだろうという。
上野国にある碑文(多胡碑)では穂積親王には付けられていない「尊」という尊称が、石上麻呂と藤原不比等には付されている、しかも「藤原尊」は尋常ではない大きさだという。中央での政治認識を敏感に写し取ったものだろうという。
春日大社は東国(鹿島・香取社)の王権神(武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比売神)を藤原氏が氏神として勧請したもの。(どういうゆかりなのだろう?)
「薬子の乱」は、定説とは反対に嵯峨天皇(の周辺にいた北家)が、平城太上天皇の専制的な国政運営を押しとどめるために起こしたクーデターだという。
冬嗣は男子の名に「良」という時を関しているが、それは嵯峨天皇の皇子5人にも付いている。冬嗣一家を天皇家に連なる一族として扱うことの表明。
陽成は代理で怒った格殺(殴り殺すこと)事件の責任をとらされて退位するが、それは親政を断行することを恐れた基経によるもの。本来嫡流でありながら皇統をつなぐことができなかった陽成には、後世乱行説話が作られた。
北家のみ、それも道長の流れのみが繁栄した藤原氏だが、院政期になると院との関係で再浮上を果たす家も出てきた。例えば、信西は南家。
頼道に摂政を譲ってからも道長はそれを上回る権力を行使し続けた。それは律令制の流れをくむ文書によってではなく、口頭、私信によって伝達された。その点において院政のモデルになった。
従来、牛馬などが道長に献上されるのは賄賂とされてきた。だが、その大半が時を置かず下賜されていることを考えると、それは牛馬の集配センターと再配分のシステムであったと考えられる。その点は、絹などの他の物品も同様だっただろう。
道長の二人の妻、倫子と明子。二人の子供の昇進や財産分与にはかなりな差があり、明子は正式な妻ではなかったとも考えられる。(平安貴族は妻問婚で一夫多妻だったと思われているが、実際には嫡妻と同居し、一時期には妻は一人しかいないことが多かった)
崇徳天皇は父鳥羽天皇の実施ではなく、祖父白河上皇の子であると言われるが、その噂は崇徳父子が皇統から外されてから、忠通によって流布されたと考えられるという。
不比等の時代は長岡良子さんの一連の漫画、院政期は大河ドラマ「平清盛」を思い浮かべながら読んだ。様々に分かれていった藤原氏の家では、「園」「柳原(やなぎわら)」といえば明治天皇の側室、「坊城」といえば紀宮(黒田清子さん)のお相手として一時名前が挙がった家、しっかり近現代まで名家なのです。