Hatena::ブログ(Diary)

美月雨竜の「感じるな、考えろ」

2018-10-17

たしか、このあたりだと思う

 小学生の頃、クラスメイト数人で道端で死んで蛆の湧いていた猫の死骸を埋葬したことがある。近隣の景色に、ほぼ変化がないせいもあるが、今でも埋めた場所は覚えている。

 猫の遺骨というものが土の中でどれくらいの間、形を保っていられるのかは分からないが、もし今もなお、ある程度の形が保たれているのならば、あの場所を掘り返せば、腐肉のすっかり消え去った、少し勇気を出せば素手で掴むこともできそうな骨が出てくることだろう。強いて掘り返す理由などないので、そんな悪趣味なことはしないけれども。

 頻繁に姿を見せて、クラス全体で可愛がっていたわけでもない、死骸姿しか見たことのない野良猫であったが、通学路に蛆の湧いた死骸がいつまでも放置されるのは気持ちの良いものではなく、あくまでも「仕方がない」から埋葬したにすぎず、別にあの作業によって当時のクラスメイトたちの絆が深まったりもしていない。ゆえに、埋葬された猫に特別な思い入れも意味もないので、この先も、強いて掘り返さなければならない理由など生じはしないだろう。

 たまたま埋葬場所の近くを徒歩で訪れる機会があったので、思い出したくもない蛆まみれの猫の死骸の情景が蘇ってきてしまったのだが、そういえば、少し離れた場所では、何のものとも分からぬ骨を見かけたこともあった。あれは、たしか猫の一件よりも前、小学一年の秋頃だったと思う。

 野良猫や野良犬の数も今より多く、鹿なんかが姿を見せることもある土地なので(鹿の角を拾ったこともある)、骨が転がっていても、どうせ野生動物のものだろうと考えて、さほど気にすることもなかったのだが、本当に野生動物の骨だったのか確認できていたわけでもない。散歩していたら人間の耳が落ちていた、などというブルー・ベルベットな事態に見舞われた経験もないので、事件性のある骨だとは思わないけれども、あの頃とは違い、「人間の骨の特徴」なんて知識も多少は得てしまったので、今の私が骨を見かけたら、より慎重に観察してしまうことだろう。

 問題は、そんな私の佇まいのほうが、骨なんかよりも怪しく見えることだろうか。


2018-10-14

未来老人の静かな午後

 八十七歳になる祖母は、今も元気に趣味の庭いじりに精を出しているのだが、ちょっと前に老人会ゲートボールに参加するのをやめた。理由は「あんなもの、怒られてまでやることじゃないから」。ばーちゃん、私はあなたを支持します。

 ゴミ出しのために公民館の近くを通ると、毎回のように朝も早くから老人会の皆様が集まってゲートボールをやっているのだが、元気なのは良いことだし、楽しんでいるのなら構わないのだけれども、どうにも元気があり余り過ぎているのか、そんなに毎日毎日集まることもなかろうに、多少の雨でも昼食持参で集まって、詳しいことはわからないが全国大会かなにかにでも出場するつもりなのだろうか。余生のちょっとした楽しみの象徴のようなゲートボールで、あれほど真剣に、しかも怒り出す者までいるというのだから、私の祖母が辞めてしまうのも無理はない。

 祖母はかねてより、私が学校でうんざりしていたクラス対抗の長縄跳びやら合唱やらに関する愚痴を嫌な顔せず聞いてくれるほど、「頑張りを無理強いされること」に関して否定的な人なのだが、昨今、ようやく部活動なんかの在り方が議論されるようになったものの、長いこと「みんなで頑張る」ということが盲目的に美徳とされてきたこの国では、それなりに息苦しい思いをしたこともあったのかもしれない。なにしろ、円谷幸吉が自ら死を選び、千葉すずが「日本人はメダルキ○ガイです」と発言した国である。

 そんな祖母の影響もあってか、『欽ちゃんの仮装大賞』なんかを観ても、どこぞの小学校がクラス全員で参加していたりすると、「何人かは出たくなかったのだろうなあ」と考えてしまうような人間に育ったわけだが(逆に「会社員一名」とかの演目だと、「好きでバカやってるんだなあ」と嬉しくなる)、自分が老人と呼ばれる年齢になったとき、老人会に所属している姿がまったく想像できない。そもそも、私が老人となる時代に、はたして「老人会」なるものが、まだ存在しているのだろうか。たまに、未来の老人会老人ホームでは、カラオケEXILE西野カナ、あるいはRADWIMPS初音ミクを老人が歌っていたり、ガンダムエヴァの観賞会があるのでは、といった話を見聞きするけれども、「同世代で集まる」という文化がどれだけ残っているかのほうが私は気になる。なにせ、上記の話はソフトが異なるだけで、ハードは変化していないのである。もっとも、まだ老人とは呼べない世代の未来妄想が、あまり新鮮さを感じられないことを考えれば、たしかに箱の中身が変化しただけの未来が訪れてしまう可能性は高いのだろうなとも思う。

GBパーク (バンブーコミックス)

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オリンピックに奪われた命―円谷幸吉、三十年目の新証言 (小学館文庫)

オリンピックに奪われた命―円谷幸吉、三十年目の新証言 (小学館文庫)

2018-10-10

君が育てたサボテンは小さな実をつけた

 久しぶりにサボテンの実(ドラゴンフルーツ)を食す機会があり、皿に盛りつけたところで最後に食べた高校時代の修学旅行での沖縄食事を思い出した。あの頃は、サボテンの実ではなく花について歌った楽曲が主題歌だったドラマのヒロインが、まさか“ひとつやらかした”なんて事になるとは思ってもいなかった(別にファンでもなかったけれど)。

 私のような人間が高校生活を謳歌できるはずもなく、それゆえに修学旅行なんぞも全くもって楽しい想い出なんかではない。気心の知れない連中と一緒くたにされ、あげくスケジュールまで管理された六日間など刑罰のようなもので、しかも日程の中には、USJやらディズニーランドといった私に似合わぬテーマパークが組み込まれており、USJでは入口付近のベンチで向かいに見える迷子センターでの親子の感動の再会を眺めて時間を潰し、ディズニーランドにいたっては、20分ほどで体調不良を装い、ひと足先にホテルへ戻った。

 なかでも沖縄は特にろくなことがなく、戦争体験講話では暑くてくらくらしていたのに、沖縄の人には寒かったようで「生徒さんたち寒いんじゃないですか?」などと余計な気を遣って室内を暖められてしまうし、海中を見ることができるグラスボートでは即座に船酔いして、下なぞ向こうものなら胃の内容物をリバースすることになるので、ひたすら斜め上を凝視し続けるはめになった。

 また、どうにも沖縄の食物が身体に合わず、計四度にわたる沖縄での食事において、口にできた数少ない食物がサボテンの実だった。味は西原理恵子先生が『鳥頭紀行』のベトナム編に記していた通り「こんにゃくゼリーりんご味」風で、弱った胃に優しい気もしたので、ホテルのバイキング朝食では、サボテンの実だけを皿に盛った。グラスボート体験沖縄二日目だったはずなので、仮にリバースしたとしても、私の胃の中にはサボテンの実くらいしか入っていなかっただろう。もし、再び沖縄を訪れることがあったならば、その時は豆の缶詰かなにかを持参しようと心に誓った。

 幸いと言うべきか、あの日以来、沖縄には行っていない。ただし、映画学校の同期生のなかで、比較的交流の多かった相手(とにかく私は人との交流が薄い人間なので、相手からすれば、ちょっと会話しただけの奴くらいの印象かもしれないが)は沖縄出身だった。

サボテンの花

サボテンの花



2018-10-07

一生幸せでいたければ、釣りを楽しんだ場所のことは詳しく知らないままでいなさい。

 我が家から車で20分ほどの距離にある川では、たまに釣りを楽しんでいる人の姿を見かける。もしかしたら、真剣すぎて楽しめていない可能性もあるが、それほど釣り人の魂をくすぐるような魚がいるわけでもないだろうし、おそらく最も身近な釣れる場所があそこだというだけなのだろう。

 私は釣りは趣味ではないし、特に知識があるわけでもない。そもそも、実際の釣り経験は小学校の遠足で半ば強制的にやらされた一回のみで、なんとなく中古で購入した釣りのテレビゲームすら、さほどやり込んでいない。ゆえに、あの川で釣りを行う人がいる理由など、そう何パターンも想定することはできないのだが、どうやら釣った魚を刺身にして食している者もいるらしいと聞いた時には、さすがに「なんと物好きな……」と思わずにはいられなかった。

 上記の通り、私は釣りに詳しいわけではない。釣り人の精神やマナーなんてものも、釣り人ではない者が常識的な範囲内で想定しうる程度のことしか思い浮かばない。しかし、釣りには詳しくなくても、あの川がどういう川なのかは、それなりに頻繁に近くを通り過ぎる者として、ある程度理解しているつもりである。いや、川について知っているというより、川を囲む畑でどういった作業が行われているかについて知っているというべきだろうか。

 とはいえ、別に周囲の畑でとんでもないことが行われているわけではない。特に珍しい作物が栽培されているわけでも、実験的な農法が取り入れられているわけでもない。だからこそ、それらの畑では(適度な範囲において)農薬が使われているだろうし、牛糞等が肥料として撒かれていることもあり得るだろう。

 たまに目にする釣り人たちが、そのあたりのことを理解しているのかが気にかかる。どうも、畑の広がる近隣地域の人ではなく、市街地に住む人が多いらしいという話も聞く。だとすると、釣りには詳しくても、畑のことに関しては詳しくない可能性もある。まあ、大きな健康被害が出るほどの汚染されているわけではないだろうから、私があれこれ心配する必要もないのだろうけれど、釣り人たちが後で畑のあれこれについて知ったとしても、それでなお釣りを楽しむことができるのかどうか、どうしても考えてしまう。

オーパ! (集英社文庫)

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川のぬし釣り

川のぬし釣り

2018-10-03

あなたが立てた中指が痛い

 今でこそ滅多に写真になど写り込まない私であるが、幼稚園や小学校では集合写真やら、行事なんかの際には知らないうちに撮影されているような場合もあって、なかなか無遠慮なカメラの目から逃れきれていなかった。笑えと言われて笑顔を見せられるような素直な性格に生まれてこなかったので、大抵はカメラに対して敵意の視線を送っているのだが、前述の通り、知らないうちに撮影されてしまった場合のものだと、後に写真の存在に気づいてから現在に至るまで撮影者に対して憎しみを抱き続けることになる。言霊や呪いの力を信じる心が僅かにでもあるのなら、私を勝手に撮影しないほうが良い。

 もっとも、いくら素直な性格に生まれてこなかったとは言え、さすがに幼稚園や小学校に通っていた時から、いちいち撮影者に対して口に出して罵声を浴びせるほど人格が破綻していたわけでもなく、せいぜい無愛想な表情のまま黙っているだけで、鈍い撮影者なら私がカメラを快く思っていないことにすら気がついていない可能性もある。ゆえに、幼稚園のクリスマス会で撮られてしまった写真のなかに、私が中指を立てているものが存在するが、誰からも叱られなかったことからもわかる通り、幼稚園児がその意味を知って敢えて中指を立ててみせたと考えた者はいなかったようで、撮影された瞬間、たまたま手の形がそうなってしまっただけだと思われていたようだ。残念ながら、わかってやっていたのだけれど。

 モザイク処理されることもあるこのポーズ、後に私は映画版『じゃじゃ馬億万長者』に倣って「カリフォルニアの挨拶」と呼ぶことにしたのだが、今となっては何をきっかけに知ったのかがはっきりと思い出せない。なんとなく、年齢の離れた従兄弟から教わったような気がするのだけれど、強いて確認する必要性も感じない。幼児性を遺憾なく発揮して、ところかまわず中指を立てて人を不快にさせていたというのなら、教えて従兄弟の責任も追及すべき問題なのかもしれないが、むしろ私は、早めにその意味を知ったおかげで、偶然中指だけが立ってしまうことがないよう気をつけていたくらいなのだ。今だって、ツイッターなんかで不愉快な意見が流れてきた時にディスプレイに向けて一人でやってみせる程度である。

 大きな親指を持って生まれた主人公がヒッチハイカーとなる『カウガールブルース』という映画化もされた小説があるが、大きな中指を持って生まれた主人公がトラブルを起こしまくるような物語もあるのかもしれない。私もおそらく結構な数の人間を不快にさせてきたと思うが、中指きっかけのトラブルは幸いにして一度もない。様になるほど長い中指はしていないのだ。


カウガール・ブルース

カウガール・ブルース