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美月雨竜の「感じるな、考えろ」

2018-11-04

2018-10-28

しものはなしできょうしゅく、いや、きゅうしゅう、ですか

金玉人間(きんたまにんげん)

 人間は一枚の皮でおおわれているので全身、金玉だと思えば金玉なのです。つまり、飾りたてたとしても、相手がどう見ているかは、わからないという事。常に最悪の事まで考えて行動しよう、という意味。
 類似語=「口紅肛門(こうこうこうもん)」 口と肛門もつながっているという事。
所ジョージ『四字列語』49ページ)



 チョウチンアンコウの雄は雌に寄生し、最終的には吸収されて雌の身体の一部となって生涯を終える。取りこまれてゆく雄が性的快楽を味わっているかどうかはわからないが、ヒトの雄として生まれた身としては、カマキリ以上に恐ろしい話である(なにせ、人肉食タブーではあっても実在するが、さすがに生きたまま他人の身体に吸収されるなんて話は、人間界においては超常現象でしかないだろう)。いや、ヒトの雌に生まれたとしても、雄が自分の身体に混ざり込んでくるなどというクローネンバーグな現象に冷静でいられるはずもない。

 しかし、ヒトだって小さな精子が大きな卵子に取りこまれて誕生するのだから、発端はチョウチンアンコウのようなものだと思えばチョウチンアンコウなのかもしれない。

 さらに言えば、たとえば象は鼻が長いのではなく、鼻以外が引っ込んでいると考えることもできるわけで(これも所さんが言っていた事です)、雌の身体の方が大きいからといって、必ずしも雌が雄を吸収したとは限らず、ひょっとしたら、意識は雄が支配しているのかもしれない。「最悪」も立場によって異なるわけだから、すべての言動は、常に様々な立場にとっての「最悪」まで考えてからにしたほうが良いのだろう。

四字列語

四字列語


2018-10-24

愚か者よ

 人類は愚かなので、たとえば「女性がピンクを強制されることのない時代」を目指していたはずが、いつの間にか「女性がピンクを選んではいけない時代」を生きていかなくてはならなくなっていた、なんてことになりかねず、実際、その他にも色々と良い方向に向かっているように思っていたのに、いつの間にか別の悪い時代を引き寄せているかのような妙な雲行きになっている事案は沢山見受けられ、あまりの人類の愚かさに愚かな人類の一人である私などは、どうにか気づかないうちにまったく苦しまず、この愚かな世界からおさらばできたりはしないだろうかなどと考えるのだけれども、愚かな人類の一人である私の考えなど愚かであるに違いないので、きっとおさらばするには後悔してもしきれない、途轍もない苦しみを味わうことになるのだろうなと思い至り、愚かなうえに臆病でもある私には、そんな苦しみに自ら身を投げることなど到底できず、とにかく出来る限り苦しまずにいたいと、おそらくそれもまた愚かな考えなのだろうが、愚かな人類に生まれてしまった者として、その定めには抗えず、そういえばこのところ「いじめを苦にして自殺するのは負けである」といった主張に対する批判をよく耳にしたな、確かに私も同意するな、だけれども「それはいじめる側の理屈だ」という言葉を目にすると、他ならぬいじめる側が「死んだら負け」と言っているのだから、たしかに勝ち・負けで言ってしまえば負けなのだろうとも思うし、なにしろ、いじめっこ達が被害者の死の報せを聞いてバンザイしていたなんて話も聞いたことがあるわけで、もちろん、死を選ぶ側は死ぬことで勝ったと思っているとは限らないし、単純に辛さに耐えきれず命を絶つことがほとんどなわけであって、どんなに「死ぬのは負け」だと本気の善意で訴えたとしても、死を選んでしまうほど立場の弱い者が救われることなどないのだろうけれど、では「加害側が負け(悪)」であると主張することが弱者を救うことになるのだろうかと考えると、加害者が悪いのは当然だし、長い目でみれば世の中を良い方向に持っていくこともできるかもしれないが、今苦しんでいる者が救われるかといえば、残念ながらそういうことにはならず、結局、直接的に手を差し伸べない限り、今この時に苦しんでいる者を救うことなんてできないわけで、その度量のある人間ならば、ああだこうだと主張する前に手を差し伸べているよなあ、でも愚かなのが当たり前の人類の中に、果たしてそれだけの度量のある人間など、いったいどれだけ存在するのだろう、というか、そもそも「死んだら負け」云々の話は別にいじめに限った話ではなかったんじゃないか、愚かなあまり私はそのあたりの確認さえしなかったけれど、この件に関するああだこうだといった意見は、どんな意見であれ大半がいろんな確認を怠ったうえでのものに見えてきて、やっぱり人類は愚かだな、そんな愚かさを愚かさの極みである人類が解決することなんて不可能なんじゃないか、少なくとも愚かな私が愚かさの解消された世界を生きることはないだろうな、いやいや愚かさを解消しようとして別の愚かさを産むのが人類なのだろう、むしろ全ての愚かさを取り除こうとするのもまた愚かなことだろう、愚かさの薄い人類くらいを目指すべきだろう、しかし、そう主張するとまた愚かなことを忘れた愚かな人が「そんな志の低いようでは困る!」などと愚かな主張をして愚かな人が賛同し新たな愚かさを創造したりするのだろうな、そこまで考えて愚かな私はやっぱり出来るだけ苦しまずに消えてしまいたいな、などと思い始めるのだが、愚かなので苦しまない方法も思い浮かばず、しかしまた苦しみに耐えるだけの力もなく、これまでの考えそのものが愚かな私の愚かな過ちであれば良いな、それなら自らの愚かさも愛せるかもしれないなと考えて、どうにか一息つく。

2018-10-21

「タモさんが言ってた」

 「タモリみのもんたは同じ誕生日(8月22日生まれ)」というのは、そこそこ有名なトリビアで、たしか三谷幸喜氏は著書『オンリー・ミー 私だけを』のなかで「子供を昼の人気者にしたいのなら8月22日に産むべき」といったことを書いていた。

 しかし、『笑っていいとも!』も『おもいッきりテレビ』も終了して久しいが、他のチャンネルがあの時間に何を放送していたのか、すぐには思い出せず、好みの問題は別としても改めて上記2番組のある種の偉大さを感じた。番組自体が思い出せなかったので、当然他の裏番組のMCの誕生日など知る術もないが、もし8月22日生まれの有名人がMCを務める番組があったのなら、もしかすると昼の3強、4強といったことになっていたのかもしれない。8月22日生まれのMCをやっていそうな有名人を調べてみたが、対抗馬となりそうなのは川口浩土居まさるあたりだろうか(どちらも故人であるが)。吉本新喜劇内場勝則も8月22日生まれらしく、関西ローカルなら特に強いかもしれない。ちなみに、南原清隆坂上忍は8月22日生まれではないようだ。

 みのもんたといえば、以前、『深夜に発見! 新shock感 〜一度おためしください〜』で、ゆるめるモ!のあのちゃんが「悪いイメージしかない」と言っていたが、かつての昼の2強に対するイメージというのは、誕生日も同じで年齢も一歳差でありながら、かなり異なる。「タモさんが言ってた」と「みのさんが言ってた」なんて、対義語と言っても差し支えないのではないかとすら思える。『プロ野球珍プレー・好プレー大賞』のナレーションは嫌いじゃなかったが、スポーツに限らず面白映像のナレーションならば小倉智昭の方が好きだった(TBS不定期に放送されていた『衝撃の映像クラッシュ』でのナレーションは絶品)。

 テレビ離れが半ば常識のようになり、私自信も昔ほどテレビを真剣に観る機会は減ったけれども、『タモリ倶楽部』と『ブラタモリ』は欠かさず視聴するし、CM等でタモさんの姿が映ると、なんだか自然と顔が綻んでしまう。「みのもんた式健康法」(ちょっと前まで、多くの老人が真に受けて実践しているかのような空気が確かにあった)を老人になった自分が行うことはないと思うが、「タモさんが言ってたこと」ならやっているかもしれない。



オンリー・ミー―私だけを (幻冬舎文庫)

オンリー・ミー―私だけを (幻冬舎文庫)


NEVER GIVE UP DRUNK MONKEYS EP

NEVER GIVE UP DRUNK MONKEYS EP

2018-10-17

たしか、このあたりだと思う

 小学生の頃、クラスメイト数人で道端で死んで蛆の湧いていた猫の死骸を埋葬したことがある。近隣の景色に、ほぼ変化がないせいもあるが、今でも埋めた場所は覚えている。

 猫の遺骨というものが土の中でどれくらいの間、形を保っていられるのかは分からないが、もし今もなお、ある程度の形が保たれているのならば、あの場所を掘り返せば、腐肉のすっかり消え去った、少し勇気を出せば素手で掴むこともできそうな骨が出てくることだろう。強いて掘り返す理由などないので、そんな悪趣味なことはしないけれども。

 頻繁に姿を見せて、クラス全体で可愛がっていたわけでもない、死骸姿しか見たことのない野良猫であったが、通学路に蛆の湧いた死骸がいつまでも放置されるのは気持ちの良いものではなく、あくまでも「仕方がない」から埋葬したにすぎず、別にあの作業によって当時のクラスメイトたちの絆が深まったりもしていない。ゆえに、埋葬された猫に特別な思い入れも意味もないので、この先も、強いて掘り返さなければならない理由など生じはしないだろう。

 たまたま埋葬場所の近くを徒歩で訪れる機会があったので、思い出したくもない蛆まみれの猫の死骸の情景が蘇ってきてしまったのだが、そういえば、少し離れた場所では、何のものとも分からぬ骨を見かけたこともあった。あれは、たしか猫の一件よりも前、小学一年の秋頃だったと思う。

 野良猫や野良犬の数も今より多く、鹿なんかが姿を見せることもある土地なので(鹿の角を拾ったこともある)、骨が転がっていても、どうせ野生動物のものだろうと考えて、さほど気にすることもなかったのだが、本当に野生動物の骨だったのか確認できていたわけでもない。散歩していたら人間の耳が落ちていた、などというブルー・ベルベットな事態に見舞われた経験もないので、事件性のある骨だとは思わないけれども、あの頃とは違い、「人間の骨の特徴」なんて知識も多少は得てしまったので、今の私が骨を見かけたら、より慎重に観察してしまうことだろう。

 問題は、そんな私の佇まいのほうが、骨なんかよりも怪しく見えることだろうか。