静養日記48 〜セカイを救うために必要な思いもよらぬこと〜

 ある時、神や人類よりも高次元の存在、いわゆる超自然的な存在から世界を救う方法を自分だけが告げられたとしよう。そして、その方法が、たとえば自分の家の庭の松の木を時計回りに3周回ってから祈りを捧げ自宅に火を放つという、自己犠牲的かつ、それがどうして世界を救うことになるのかわからないものだったとしたら、自分は実行できるだろうか。

 こういった類の話の起源がなんなのかは知らない。神話や民話にもあるし、『クレヨンしんちゃん』でも似たようなエピソードがあったはずである。私が最初に触れたのは、おそらくアンドレイ・タルコフスキーの『ノスタルジア』と『サクリファイス』だ(私はこの2作品を同じ日につづけて観た)。

 多くの場合、人類の滅亡や宇宙の消失を防ぐための、文字通りの「世界」が対象であるが、自分の身の周りの(悪く言えば)狭い範囲のみ、「セカイ系」といったワードにも似た、カタカナ表記の「セカイ」と呼んだほうがふさわしい場合のものもある(いや、個人的な行為が世界の救済につながるというのは、ほぼセカイ系そのものでもあり、実際、タルコフスキーセカイ系であるという意見は何度か目にした)。仮に自分がそんな立場に立たされたとき、どちらの場合のほうが実行に移りやすいだろうと考えたりもする。

 セルトラリンによって抑えられてはいるものの、気圧や周辺状況によって気が沈んでしまったときに考えるのは、だいたいこんなことだ。幸い、鬱による幻聴を超自然的な存在からの啓示だと思い込んでしまうほど重症ではないし、そもそも何らかの啓示めいた幻聴を聞いたこともない。ゆえに、私は自宅に火を放ったりはしていないのだが(していたら今頃は警察署か精神病院の隔離病棟かだろう)、なんとなく、夢で見た自分の妙な行動を、実行しても問題のない範囲のものならば再現してみる、という活動を行っている。これは、鬱になる前からこっそり続けていたことで、幼児だった頃からの私の習慣でもある。実行しても問題のない範囲(つまり、犯罪などに結びつかないもの)とはいっても、傍から見れば不審行動に値するものも多いので、あくまでこっそりした活動ではある。

 もしかしたら、この活動の中から、本当に世界を救うものが出てくるかもしれない、などとは妄想したりもする。世界もセカイも良くなる兆しは見受けられないので、残念ながら、今のところ、ただの私の奇行でしかないのだけれど。