うさたろう日記 はてな版。 このページをアンテナに追加

2007-01-07-日

[]図書館の公共性をめぐる論争と経済学図書館の公共性をめぐる論争と経済学。を含むブックマーク

最近、よくはてなブックマークでブックマークされた記事を見ている。2chが極論や言いっぱなしの無責任な話である割合が多いのに対して、はてブのコメントはずいぶんまともな気がする。いろいろとはてブの仕組み的なものもあるんだろうけど。

まあそれはいいとして、ちょっと気になった記事が一つ。図書館の公共性をめぐる論争だ。

ほどよい司書さんによる図書館の「民営化」という馬鹿馬鹿しさという記事に対し、プリオンさんが「図書館の公共性という馬鹿馬鹿しさ」という批判記事を書き、それに対して司書さんが反論、プリオンさんが再批判、司書さんがさらに反論という形で議論を展開している。

僕の印象としては、プリオンさんの批判は、全体の論理構成としては揚げ足取りに近いもので、司書さんの主張により説得力を感じる。プリオンさんの議論が揚げ足取りだというのは、たとえば図書館の所得再配分機能をめぐる次のような論述にみられる。

図書館が所得の再配分機能を果たしているというのは本当だろうか?

知的労働が嫌い・苦手な人は低所得になりやすいので、読書をする比率は低所得より高所得が多くても不自然ではない。とすると図書館は所得再配分どころか逆に広げている可能性さえある。図書館の予算はなくして貧乏人に現金でも配るなり、消費税引き下げ課税最低限引き上げでもするほうがはるかにいいだろう。

同様のことは高等教育にも言える。低所得低学歴の親ほど子供を進学させようとしない傾向があるので高等教育に税金をつぎ込んでも貧乏人より金持ちの負担が減りやすいわけだ。

図書館の所得再配分機能は、あくまで機会均等を保障するという理念に基づいたものであるはずなのに、プリオンさんは個々人の性向の問題という現象面だけからその機能の有効性を否定し現金ばらまきなどを行えばよいのだと極論を主張、結局機会均等という理念そのものを否定してしまうという誤謬に陥ってしまっている。

ただ、プリオンさんの批判のスタンス自体は一貫したネオリベ的なものであり、そこには一貫性がある。こうしたネオリベ的主張の「偏り」については、すでに過疎地に対する考え方について言及した部分でも触れた。http://d.hatena.ne.jp/usataro/20060408#p2

僕の考えは、司書さんの立場に近い。まあ、SUMITAさんが述べているように、福祉に関する部分の言及など、司書さんの議論に?と思うところもある。だが、市民政治社会に参加するための情報を提供する場として、また自由競争社会における機会均等の理念を支えるための重要な手段として、公共図書館の存在はますます重要であると考える。公共図書館の運営を民営化するのか、あるいは公共図書館そのものを廃止して民間に委ねるのかといった違いによっては僕の意見微妙に異なってくるが、少なくともプリオンさんの言っているのは後者だ。そしてそれは経済原理のみに左右されるべきではない情報へのアプローチを経済原理に委ねてしまうという意味で、情報へのアプローチを偏ったものにしてしまうことは明らかだ。

しかし、経済原理に左右されるべきではない教育の機会均等の理念を無視して、経済原理からのみ検討して図書館の公共性を否定する主張が散見される。solidarnoscさんは二人の論争について経済学的に見た政府の役割という観点から「図書館に税金を使うべきか」というタイトルで「使うべきでない」という主張を展開している。solidarnoscさんはぱらっと見る限り必ずしもネオリベ的考えを持っている方ではないようだが、図書館の役割として「価値観の実現」ということだけしか議論の対象にしておらず、教育の機会均等を実現する手段としての図書館の役割についてはまったく触れていない。ちなみに、司書という職にあるから図書館の公共性を主張するのだという指摘や司書はいらないという主張は、図書館司書についてあまりに無知なのではないかと思う。

話を戻す。たとえば、首都圏をはじめとする大都市圏のような文化的資本蓄積の豊かな地域であれば、必ずしも公共図書館に行かなくとも巨大な本屋はいくつもあるし、大きな博物館、美術館もあって、さまざまな文化に触れることができる。もちろん、入手できる文化というのは狭義の意味での文化に限らず、法律・経済・社会・科学技術をはじめとするさまざまな情報を含めたものである。しかしそういった文化資本の蓄積の非常に薄い地域では、そうした文化に触れる手段はきわめて限定される。そうした地域に住む住民は、そもそも最初から情報に触れる機会を持ちえず、したがって自己実現の手段を獲得することもできず、経済的に低い地位にとどまったままとなる。

わかりやすいたとえとして都市と地方の格差で話をしたけれど、都市内部にあっても低所得者層が情報にアクセスする手段を公的に保障する機能としてみた時、公共図書館を維持していくことは行政による情報アクセスの機会を保障する手段として重要なことだと考える。もちろん、先述のように民主主義社会において市民の政治や社会参加をサポートする役割というのも重要で、これも公共図書館のもつ重要な機能だ。

     *

どうもこういう経済学的な観点からの議論をみていて感じるのは、「すべての人が自由競争の舞台に立っている」ということを何の検討もなしに前提としてしまって効率性や経済合理性の話をする議論が少なからずみられるということ。自由競争は経済学的な議論の前提になっているが、自由競争の理念はあくまで「各人に機会が均等に与えられている」という理念によって担保されているに過ぎず、機会が均等でなければ「持ってる者勝ち」「そこにいる者勝ち」というきわめて不平等なことになるだけでなく、そもそも「自由」でないのだから「自由」競争という理念自体成立しえない。

ネオリベ論者が結果平等を嫌うのはその主張の本質からしてもそうだが、機会平等に関してもとても本気で考えてるとは思えない。こないだの過疎地消滅促進論でも、どこに生まれて育つのかは「自由」ではないにもかかわらず、競争に不利な地域の住民に移住を強いるような「上からの効率性」を平気で口にするのは、機会平等への配慮が明らかに欠落している。そればかりか、経済学的な観点からの議論でも、機会均等・機会平等といったことをすっかり忘れてしまっていることが少なからずあるように思えてならない。

僕は経済学は素人だけれど、経済学的な議論が成立する前提、また成立させるための条件といったものを、経済学ではどのようにとらえているのだろうか。単にそういう論者が目立つというだけなのか、それとも、経済学に内在する問題点なのか。

かわとかわと 2007/01/08 19:00 自由主義経済が結果として機会不均等をもたらすのは必然ですから、そこでの公の果たすべき役割は明らかなはずなんですけどねえ。共産主義社会では公の効率化が当然必要ですが、自由主義社会では、公共福祉の効率性とは根元的には両立せんと思うんですが。
ま、そんなことはともかく。公共図書館ですが、都市部でも市町村の規模が小さいところが多いので、図書館の機能は不十分なのが問題ですね。複数の市町村が連合する形で、比較的大規模な図書館が設置されるような動きを期待したいのですが。
…ま、もっともこれはうちの市の図書館があまりにしょぼいという、単に個人的な不満に端を発したに過ぎないんですけど(笑)。

usatarousataro 2007/01/09 04:14 >かわとさん
コメントありがとうございます。首都圏みたいな地域であれば、確かに一自治体で完結した小規模の図書館よりも、もう少し大きな規模の図書館があった方がなにかと便利ですね、特に僕らみたいな立場の人間にとっては(笑)。図書館をめぐるweb上の議論でも、構築された蔵書のもつ公共性に注目する人もいるようですが、それにはまずそれなりの規模の蔵書数が必要ですからね。
機会均等については、図書館の果たす機能は、単に文化面での再配分にとどまらず、教育的な面での再配分機能がけっこう大事だと考えています。もちろんその機能を、まるっきり経済原則を無視して維持せよなんて言うつもりはないんですが、もう一つ大事な機能として、市民による政治への批判を保障する民主主義を支える機能ってのもあわせて考えると、図書館の果たすべき機能は、けっこう重要であると考えてます。なので、「税金で貸本制度を維持する必要なんてない」みたいな図書館廃止論なんてのを安易に正論とみなすような状況には、ちょっと危うさを感じています。これについては、また改めて書きたいと思ってます。

かわとかわと 2007/01/09 12:28 図書館にしろ、博物館にしろ、文書館にしろ、単なるアミューズメント施設という側面でしか評価されないのは、残念なことではありますねえ。
まあいつまでも民営万能の発想が続くとは思えませんが、ね。それに気づいた時には、図書館も博物館も文書館も、既に跡形も無くなっている可能性はありますが(笑)。

solidarnoscsolidarnosc 2007/01/10 03:08 >usatoroさま
図書館や司書について無知なまま書いていたことはご指摘の通りです。勉強しなおします。

なお、機会の均等に対するスタンスは土居丈朗さんと同じです。私の経済学はほぼ独学ですが、経済学のスタンスは一貫しています。それは効率の問題と公平の問題をしっかり分けて考えようというものです。前者は経済学で答えを出せる場合があるが、後者は答えは出せません。結局人々の考え、意識にそって政治的に選択して解を決めるしかない問題です。機会の均等も同じです。相続税にしても、100%にするかなしにするかの間でどこにするかは人々の価値観によって水準が変わってきます。だから、機会の均等の必要性は理解しますが、どれだけ必要かということに絶対的な解はないというのが、通常の考え方でしょう。あたりまえすぎて面白くないでしょうが。
経済学は金儲けの学問ではなく、反権力、反権威、反既得権の学問だったりします。(すなおにいえば、効率の改善を通して文明の進展に寄与することを目指す学問)だから、経済学者は既得権(政治のパワーで口をあけて都市部から地方が金をすいとるシステムなど)には結構きびしめの傾向があります。

usatarousataro 2007/01/11 12:32 >solidarnoscさん
コメントありがとうございます。
僕の方も、誤読に基づいた指摘などがあったので訂正しました。確かに「機会の均等」と言っても実質的に問題となるのはその内容となるわけで、そこでまたいろいろと議論の余地が生まれてくると思います。ただそうしたなかでも図書館は案外重要な役割を占めているのではないかというのが僕の考えです。コメント欄だと長くなってしまいそうですので、改めて記事を書きたいと思っています。