葬儀。

通夜

駅には妹が車で迎えに来ることになっていたが、僕が下車した頃にはまだ家を出るか出ないかという頃だったので、駅前の西友に寄って香典袋などを調達した。この西友、できたばかりの頃は、まるでこの街にデパートができたかのような雰囲気と品揃えだったのだが、今やかつての面影はごくわずかに残るばかりだ。そもそも客がいない。そして店内の雰囲気もなんだかどんよりとしている。それでもまだこの西友はいい方で、この店から伸びる駅前商店街なんて、かつて雨風を防いでいたアーケードも取り払われ店も大半が閉めてしまって、商店街としては事実上壊滅している。この先こういうところはマンションなんかが建っちゃって、便のいい住宅地ってことになっていくんだろう。

妹は程なくやってきた。すぐに車に乗り込み、斎場に向かう。父方の実家はもうこれ以上ないというくらいの農村地帯で、通夜や葬儀は自宅で行うのが当たり前だった地域だが、高齢化や過疎化のなかで自宅での葬儀も地域にとって重荷になってきたのだろう、昨年新しい斎場ができたそうだ。関東だと笑っちゃうくらい小さい、でもこの地域では最大の「平野」のど真ん中に、その斎場はあった。広々とした駐車場で、室内には200人分くらいの椅子が並べられていた。祭壇には、10年ほど前の祖母の写真が飾られていた。僕の記憶のなかの祖母はもう少し若い元気な頃のイメージなのだが、それだと15年とか20年くらい前になってしまう。確かもう数年くらい病で入院していたので、写真としては新しい方で、なんとか元気な頃の姿なのだろう。

あとから聞いたのだが、祖母の死に目には誰も立ち会えなかったそうだ。長期的にはもう危ない状態が続いていたんだが、今日明日ってほど危ない状態ではなかったようで、その日も伯母さんが夕方見舞いに行ったときには問題なかったらしい。けれどもその日の夜、病院の見回りで容態が急変したとのこと。事実上、その時点ですでに事切れいていたのだろう。まあ苦しんだ感じではなかったのが、せめてもの幸いだった。

どうやら読経が始まるのは夕方7時頃からのようだ。けれどもまだ6時にならないというのにすでに参列者が集まり始めている。この辺りは特に時間には早い気がする*1。そういえば、昔祖父母らと列車に乗って結婚式だったか何かに行った時、祖父母らは1時間以上も前に駅に着いていて、しかも車中で食べるお弁当までこしらえてきたことを知ってびっくりした覚えがあった。こういう話も、もう少し時間があったら親戚たちといろいろと話せただろうに。

通夜の際に泊まれるようにしつらえてある控えの和室で軽く精進料理の煮物などをつまんだあと、僕は親族席に座り参列者へお辞儀する一人となった。こちらの通夜では、受付を済ませたあとまずお参りをすることになっていた。その後着席し、式の開始を待つのである。したがって僕らは受付を済ませた人が来るたびに、椅子から立ち上がりお辞儀をしなくちゃいけない。しかも、思っていた以上に来てくれる人の数が多い。200人は座れるはずの椅子が、大半は埋まってしまった。お辞儀をしつつも、僕はその人たちの顔をほとんど知らなかった。東京の感覚では葬儀に来ることもないような関係の人も、この地域ではたくさん来てくれるようだ。知っていたのはただ一人、僕の「はとこ」にあたる同学年のやつ。かつて中学の時駅伝部で一緒だった彼は、すっかり頼もしいアニキのような感じで、消防団のはっぴを着て参列していた。

長崎の日没は遅い。夕暮れの田園地帯に、じいさんばあさんが集まってくる。年が明けてからもう3回葬式に出たなんて話も小耳にした。この辺りでは、葬式に出るのもまた、一つの日常なのだろう。

通夜でお経を読んだのは、まだ僕とさほど歳の変わらないくらいの、若い僧侶だった。父方の家は西日本には多い浄土真宗なので、お坊さんは剃髪もしていない。焼香の時には、抹香は押し頂かず煙を出すために一度だけ炭の上に置けばいいと、読経の後の講話で焼香の作法の話なんかをしていた。僕自身は、このお坊さんの先代に当たる人の、枯れた感じのしみじみするお話が好きだったんだが。あのおじいさんもだいぶ高齢だから、通夜なんかは代わってもらっているんだろうなあ。

夜を迎える

通夜も終わり、たいていの人々は帰っていく。残るのは親戚関係だけだ。子どもたちは、こんな場でもすぐに遊ぶことに夢中になる。いや、むしろ非日常のこんな場だからこそ、なんだな。そういう彼ら彼女らにとって、一人で来た僕なんかは格好の遊び相手となった。従兄弟の子どもたちは名前もよく覚えていなかったけれど、動き出すといろいろと見えてくるもんだな。人見知りする子、大暴れする子、実は世話好きな子。今は親となっている従兄弟たちと、30年前はこうして遊んでいたんだな。こうやって、世代は変わっていくんだろう。祭壇の前で静かに横たわっている祖母にとって、実はこういう光景がいちばんの供養になるのかもしれないなと、その時ふと感じた。

夜10時頃、静岡の叔父一家がやってきたのを機に、“飲む”人々がビールを開け始めた。以前は、父の実家に盆暮れには集まり、盛大に宴会をやったものだった。子供だった僕らは、さっさとご飯を食べ外に遊びに駆けだしていったが、祖父や伯父、父は、大きな仏壇のある上座の辺りでいつまでも飲んでいて、実の娘である叔母は、嫁である僕の母や伯母たちと、女同士でいつまでも尽きることなくしゃべり続けていた。まだ若かった叔父だけは、地元を離れていたので時々にしか会えなかった。祖父・父と立て続けに飲み相手を失った伯父の飲み相手の役は、帰省した僕が務めるようになったが、伯父も程なく亡くなってしまった。飲む顔ぶれはすっかり変わってしまったけれど、これもまた世代交代なのかもしれないな。

夜11時を過ぎた辺りで、僕は母の運転する車で撤収した。母は一度風呂に入ってからまた斎場に戻りそこで一夜を明かすという。前日までの疲労がなければ僕が代わってもよかったんだが、さすがに寝不足なもので、自分の実家に帰って寝ることにした。

葬儀

翌日は、まだ睡眠不足が解消されていないとはいえ、疲れがやや取れるくらいには眠ることができた。僕はもうこの日に東京に戻るので、荷物をまとめて車に乗り込んだ。早朝の飛行機で東京から来た弟を駅前で拾い、再び斎場へ向かう。子どもたち同士は、昨日ですっかり打ち解けて盛大に遊び回っている。僕は精進料理のお弁当をいただき、すぐに親族席に座った。ここ以外、なんとなく所在ないんだよな。そうこうしているうちに、再びじいさんばあさんが集まってきた。

午後1時から葬儀が始まる。葬儀では、法事で見知っていたおじいさんの方の人が導師を務めた。若手はサブにまわり、もう一人サブがついていた。読経はつつがなく終わり、弔電の読み上げ。「順不同にて」なんて言ってたのに代議士・県知事って順番なのはお約束なのかもな。

叔父が代表して挨拶をし、そして出棺。貸し切りバスではなく、それぞれの自家用車に分乗して火葬場に向かった。火葬場は10年ほど前にできた比較的新しい施設だ。煙突も見えない。僕の母が葬儀後の後始末をやっていたせいで火葬場への到着が少し遅くなってしまい、僕らが到着するとすぐに「最後のお別れ」が始まった。しかし病で小さくなってしまった祖母を長いこと見るのもしのびなかった。他の人もそう思っていたのか、そう時間をかけることもなく、棺の扉は閉じられた。僕を含めた男性の親族で棺をボイラーに入れる台の上に載せ、そして棺を載せた台がボイラー室手前の空間に入った。新しいタイプの火葬場だから、そこで扉が閉められ、僕らからは見えなくなる。実際にはその奥にもう一つ、ボイラー室に直接つながっている扉があり、手前の扉を閉めた後、奥の扉が開けられ、棺が入れられ火葬が始まるのだろう。

父の葬儀の頃の火葬場は、お棺を入れるとすぐに炉になっていて、喪主がスイッチを押すとボイラーの火の音まで聞こえてきた。もちろん煙突からは煙がもくもくと立ち上る。あれは遺族にとってはつらかった。今ではもうそんなこともなく、淡々と棺が送られていく。「焼く」様子に直接触れないまま白いお骨を拾う。技術の発達は、否応なく生きている「僕ら」と「死者」との間の距離を広げていく。でも遺族の立場になったとき、それが必ずしも悪いことだとも言えないよな。

火葬の間に、親族は「三日参り」と称してお寺を訪れる。本堂で読経ののち、座敷に通されお茶菓子を振る舞われる。この風習はどうやらこの地域だけのものらしい。確かに東京では火葬の間ただ待ってるだけだったもんな。少しお茶をいただいた後、再び火葬場へ。

戻ったら、もうすでに火葬を終えていた。長い間の病気で体も小さくなっていたのだろう、今まで見たなかでも最も少ないくらいの骨しか残っていなかった。そのお骨をみんなで拾う。最終的には僕ら孫が連れだって拾い、そして最後はのど仏の骨を拾って骨壺に納め、終わった。

この後父の実家に戻って精進落としとなるところだったのだが、僕は飛行機の時間のこともあるので、この火葬場までで撤収。妹の車で僕だけ駅で降ろしてもらう。

一人精進落とし、そして帰京

駅に降ろしてもらったのは午後4時。とりあえずみどりの窓口にて帰りの指定券を確保する。16時44分発のかもめ36号。少し時間があったので、再び駅前の西友に行き、相方さんに頼まれていたカステラを入手。かつて福砂屋は盆暮れのみに出店を出していたのだが、常設の店舗ができたようで、ここで1号サイズを4本購入。その後上の本屋に行く。ここの本屋、こんなに小さかったっけという程度の書籍コーナーだが、そこで郷土史の本を見つけ購入。立派なハードカバーで見返しには古地図が載せられているというのにわずか1500円。自費出版的な本だからこの値段なのかな。

再び駅に戻り、ホームにて列車の入線を待つ。そして列車が入線しようというその時に携帯が。昨日飛行機で会った友人からだった。どうやら仕事の急用が入り、会えなくなったとのこと。まあ仕事じゃしょうがないなあ。というわけで、僕は一人で精進落としを決行することに。博多までは、持ってった新書や論文の草稿を読んだりして過ごす。この本は行きと帰りの間に読んじゃった。宮中祭祀という側面からとらえた近代天皇論として、まあまあ興味深く読んだ。ただ、新書だからだろうか、多少つっこみ不足のような感じもしたのだが、それはやっぱり昭和天皇に関する史料的制約の問題なのだろうか。

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博多で降り、対馬調査時からよく立ち寄っていた、大名の「魚末」に行く。

ここではカワハギ刺身、シャコの煮付け、ブリ刺身、サバ刺身、そして最後の締めでアラカブカサゴ)のみそ汁。サバは、本来注文していなかったが、なんか間違って持ってきたのをそのまま置いといてもらった。今回、刺身ではブリが旨かった。味わいに旨みというか深みがあった。ただ、思ったよりコリコリのお刺身がなかったのは残念だったな。お酒は、ビール小と焼酎お湯割りを2杯。

カワハギ ピンぼけですいません。



シャコ



サバ



ブリ



アラカブのみそ汁



1時間ほど食べて飲んで、もうお腹に入りきらない。時間もいい頃合いになってきたので店を出て、そのまま地下鉄に乗車。いい気分になりすっかり眠っちゃってしまって、福岡空港駅に着いて隣の人に起こされた。空港でおみやげと本を買い、搭乗口に向かう。帰りの飛行機は、割引率が高いことを証明するかのように、僕の前後の席は誰も座ってなかった。さっき地下鉄で眠り込んだのであんまり眠くもならず、のんびりと本を読んだり機内誌を読んだりしながら過ごす。羽田到着後、さすがにちょっと疲れていたのでリムジンバスを使った。バスの車窓から、夜の東京タワーが下から上まで綺麗に見えた。東京に戻ってきたんだな。長い2日間だった。そう思うと、なんとなくけだるい疲労感が全身を包んでいることに気づいた。

*1:よくよく考えてみると、もしかして夕方6時開始のはずが、読経開始が7時になっちゃってただけなのかも。それなら別に早いことはないよなあ。