記識の外 このページをアンテナに追加 RSSフィード

記識(きし)…… 書きつける。記しておく。

外(そと)…… 表に現れた部分。表面。外面。

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2006-11-16

[]それでもあえて死を選ぶ、という選択はあり得るはずだ。

承前(http://d.hatena.ne.jp/using_pleasure/20061115/p1

トラバをいただいたのでお返事。

遺書を書くのもすごく消耗するっていうし無理矢理気持ちを整理しようとすると考え方とか気持ちを単純化するしかないわけで。それは単純化されたものなのか短慮なのかあるとは思うが合理的なんてものはないと思う。

(中略)

だけど「あ、死んでいいよ、死ぬ自由は誰にでもあるから。」

間違い。大間違い。子供に向かって言うのは完全に間違い。バカ。これがネタ振り前提であろうとも。

http://d.hatena.ne.jp/nvs/20061115

前回のエントリの「逆説的に」って箇所が読みとれてないと、こういう読み方になる。バカ。

あらかじめ立場を明らかにしておけば、私は子どもにおいても何らかの自律性はあるはずだ、と考えているので(一寸の虫にも五分の魂程度には――ということはつまり、私が基本的に自生的理性の発達という過程を、心の奥底では信頼しており、したがってそれは程度の差はあれヘーゲリアンであることの証左であるのだが)、id:nvs氏が言うような「子どもには自由がない」という立場には組しない。言い換えれば、私は子どもに対し、何らかの物事を自分が認識する範囲において自由に選択することができるという程度の自律性を認めている。子どもに自由がない、と言明することは、この程度の自律性すら子どもに認めないということを意味するのだが、私にはそれは正当なようには思えない。

というのも、「子どもには自由がない。なぜならば子ども保護の対象なのだから」という論理を展開するためには、保護の主体たる大人には自由が存在し、かつその自由の存在が自明であることが前提とされなければならないのだが、いったい自由を持たないはずの子どもがいったい何故自由な大人になることができるのか、という大問題がこの論理には内在しているからだ。ここで「自分以前に存在した大人の存在によって」と答えたとすると、これは無限後退に陥る。では自分を自由な存在として導いたはずの大人を自由に導いた大人は自由だったと言えるのだろうか?この論理的な無限後退をストップするためには、どこかしらに最終的に自由な存在というものを持ち出してこざるを得ず、その絶対的な自由者が人間に自由を与えた、という形式に従うほかはないのだが、私はそのような観念には組しない。

ゆえに私は子どもに自由を認めるのだが、この自由とは、すでに述べた選択の自由のことだ。つまり、子どもの目の前に「地獄のようないじめ」と「死」の二つしかないのだとしたら、子どもがたとえ「死」を選ぶのだとしても、それはその子ども自身の主体的な選択として尊重されなければならない、ということだ。これが条件文であることから分かるように、したがって行政の行うべきことは、子どもに対して「学校でのいじめ」と「家庭」と「死」以外の選択肢の可能性を開示してあげること以外には存在しない。宮台真司風に言えば第三空間や、あるいは第四空間の存在を行政が開示し選択肢オプションとして積極的に提示することが、まずは必要だと言える。けれど、それでもなお、そうした空間の欺瞞性や作為性に絶望するがゆえに自殺する子どもというのも、なお存在するのかもしれない。その時にはより一層の選択肢の開示が必要となることだろう。行政は電話相談などという何の役にも立たないような手段を講じるよりも、具体的な代替空間の創出にさっさと動くべきだ。公的資金を使ってフリースペースフリースクールに資金的援助をする、ということも可能だろうし、そうした援助がおおやけに出来るように、市民(の代表者たる代議員)の合意を取り付けるべきだ。

前回書いたことを反復すると、行政がそのような行動を起こすことなく、子どもに対して何の代替的空間も提示することもなく、かつできないのであれば、子どもの眼前には「役に立たない学校」と「役に立たない家庭」と「死」しか選択肢が提示されていないのだから、そこで死を選択する子ども主体性というものを尊重する責任が行政には存在するのではないだろうか。そこで「自殺は、なにがあろうともいけません(許しません)」などという戯れ言を吐くことは、行政には許されないはずなのだ。「どうしようもない学校」と「どうしようもない家庭」と「死」しかない状況で、行政が「死」を禁じるのであれば、あとに残されるのは「屑みたいな学校」と「滓みたいな家庭」しか存在しないわけで、すなわち行政はそのような生き地獄を生きることを子どもに対して強制しているということになる。これは明らかに権力の行使の配分を間違っている。

……とはいえ、前々回指摘したような「いじめ効用」を行政がおおやけに承認する、というのなら話は別だ。いじめられている子どもに対し「死」を禁じ、あたかも虐められている自分自身が道徳的にも「悪」なのであり、それを克服するように努力するように仕向け、なおいじめが続く、という状況を維持することが、行政にとってはベストな戦略ということになるのだろう。

2006-11-15

逃げろや逃げろ

承前(http://d.hatena.ne.jp/using_pleasure/20061110/p1

子どもいじめ自殺について取材をつづけている渋井哲也さんもロブ大月さんも、いじめられる側の子どもに対して「死なないで」なんて言いません。ふたりとも「逃げろ!」といっています。いまいる場所から、学校から、人間関係から、ただちに逃げよう。とりあえず逃げてから、あとのことを考えればいいじゃん。

http://d.hatena.ne.jp/lelele/20061113/1163395260

たとえばフリースペースとかフリースクールとか、そういうものの存在を熟知していて「逃げ場所」として機能してるのならともかく、そうではない状況で、学校でも家庭でも塾でも……ない「逃げ場所」を探そうとしたら、それは「あの世」しかないんじゃなかろうか。

「あの世」にしか逃げ道を見出せない状況で自殺するというのは、考えようによっては大変合理的な考え方だろう。地獄のようなこの世で生きていかなければならないのなら、いっそのことあの世に旅立ってしまったほうが、どんなに楽なことか!

ましてや、

「自ら命絶たないで」と緊急メッセージ=中1女子自殺を受け大阪府知事ら

 大阪府富田林市内の中学1年女子(12)が12日に飛び降り自殺したのを受けて、太田房江府知事竹内脩府教育長などは13日午後、「何があっても、自ら命を絶つということは、絶対あってはならない」などと訴える緊急メッセージを連名で発表した。

 メッセージ子ども保護者、教職員のそれぞれにあてたもの。特にすべての子どもに向けて「自分がされていやなことは、絶対に他人にはしない。この言葉を胸に刻みましょう」といじめをしないよう呼び掛けた。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20061113-00000074-jij-pol

なんてことを平気で言い放つ府知事がいる世の中では、自ら命を絶つより、この世の掟から逃れる術はない。

何があっても、自ら命を絶つということは、絶対あってはならない」ということは、つまりどんなに(本人的に)過酷ないじめを受けていようが、どんなに辛い目に遭おうが、あなたはその苦しみを一身に引き受けて生きていかなければならず、死ぬ自由など存在していない、ということを言っているわけだ。逃げ場所を見いだすことのできない生徒に対して、さらに死すら禁じるというこの状況が、地獄以外の何だと言うのか。

逆説的な言い方になってしまうけれども、大人の世界が子どもたちのいじめ問題を解決できないと開き直るのであれば*1、せめて子どもたちに対し死ぬ自由くらいは保障してあげるべきだ。もし、死ぬ自由を奪うというのであれば、子どもに対して説得的な政策を(つまり、子ども自身が聞いて安心できるような政策を)各自治体が今すぐにでも打ち出す必要がある*2

*1:たとえばこんな風に。「教育基本法改正の国会審議に加え、タウンミーティングでのやらせ、高校の履修単位不足、いじめの「三重苦」で文科省職員の疲労も色濃い。問題が次々と発生し、いじめ問題に対する抜本的な解決策を検討するいとまもなく、解決策の検討は「お手上げ」(ある幹部)という。」http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20061114-00000015-mai-soci

*2:要するに子どもを安心させることが何よりも重要だ、ということなのだけれど。

2006-11-10

いじめを防止すべきなのか、いじめによる「自殺」を防止すべきなのか。

いじめ先生1000人集め緊急研修会 東京品川区教委

 東京都品川区教委は10日、区立小中学校の全教員約1000人を緊急招集し、いじめへの対応を考える臨時研修会を開いた。自治体内の全教員を一堂に集める研修は極めて異例だ。研修会は小中一貫校の区立「日野学園」の体育館で行われた。若月秀夫教育長が檀上で、自殺防止の方法などについて指導した。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20061110-00000159-mai-soci

学校周辺の警戒強化へ=自殺予告の11日−警視庁

いじめが原因で学校自殺する」と予告した手紙文部科学省に届いた問題で、投函(とうかん)場所とみられる東京都豊島区にある警視庁池袋巣鴨目白の3署は10日、自殺予告日の11日に区内の学校周辺をパトロールするなど、警戒を強化することを決めた。

 各署の地域課員が小中高校周辺を車両で回るほか、生活安全課員や、警察官OBの「スクールサポーター」が学校との連絡などに当たる。 

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20061110-00000085-jij-soci

承前(http://d.hatena.ne.jp/using_pleasure/20061107/p1)。

自殺予告騒動を受けて警視庁やら教委やらが慌ただしく動いているようだけれど、なぜ「自殺防止」についてだけしか論じられないのだろう?

当該の少年自殺をすると言い放った原因はいじめにあるのである以上、豊島区の学区で一斉に聞き取り調査でもして、めぼしいいじめの事例をピックアップし、いじめをしている連中すべてに大目玉を食らわせば良さそうなものだ。社会的に問題にしなければならないのは、本来いじめそのものであるはずで、いじめを完全に無くすことはできないにしても、その被害の程度を減じたり、発生頻度を減じたりという方向性を志向することはできるはずだ。ただし、教育者の本音として、いじめ必要悪と認めるというのであれば話は別であるけれども。

もし、教育関係者いじめ必要悪として認めるのであれば、今回の措置も納得がいく。いじめによって生徒が自殺することは避けなければならないが、この場合問題なのは自殺という行いの倫理性なのであって、いじめそのものの倫理性ではない、ということだ。あるいはこのことは、いじめによるのであれ何であれ、自殺倫理的に問題だが、いじめそのものは倫理的に問題なのではない、という現在倫理水準を端的に示しているのかもしれない。だが、ここで私はそうした態度を「倫理的」な動機に基づいて弾劾したいわけではない――むしろ、いじめに何らかの効用性があると言うのであれば、その効用性を堂々と議論するべきだ、と思う。(この効用性とは、ジラール的な供犠の効用性にほかならない)

この効用性の観点からすれば、いじめ自殺が問題となるなのは、被害者自殺してしまうことによって今まで効率的になされてきたいじめがストップしてしまう、という点にあることになる。つまり、いじめられていた生徒が自殺してしまうと、また新たにいじめの対象を作り上げなければならず、それは非効率的だ、というわけだ。だから、自校の生徒がいじめを苦に自殺することなどあってはならず、彼または彼女卒業するまでの間(または卒業してもなお)、いじめられ続けなければならない。それがゆえにいじめそのものの防止なのではなく、自殺防止が議論されなくてはならない――いじめを議論するとは、このような観点をも視野に入れることを意味するだろう。そして、実際に「いじめ効用」に対して自覚的であるがゆえに、見て見ぬふりをする教員というのも、少なからずいるのではないか。

もしいじめを解消するのであれば、そうした「いじめ効用」によらなければ活性化できないような集団や組織の問題でもあるのだから、根本的には学校という組織そのものの問題を考えなければならないことになるだろう。けれどもそれを現在の教員に求めることは――ということは、「現場」に期待するのは――無理なことだろうけど。

(――なお、私は小中学校の教員という存在を嫌悪しているが、それは彼/彼女らが文字通りの偽善者であるからだ。すなわち、彼/彼女らは、口では「みんな仲良くしましょうね」などといった綺麗事を並べ立てながら、実際のところ「いじめ効用」に対して最も自覚的であり、かつそれを信奉しているのだから。いじめられている子どもは、自分が教師からも「いじめられる存在」であることを望まれている、ということに自覚的なのであり、だからこそ自らの今後の人生に対して絶望せざるを得ない立場に追いやられている。しかし、全くの偽善者たる教師は、自らが生徒を自殺に追い込んでいるのだ、ということを敢然と見過ごすのである。)

要するに

武田鉄矢の与太話は害でしかない、ということなのだけど。

「死んじゃダメ!」武田鉄矢中学生へ“金八流”メッセージ

 TBSドラマ3年B組金八先生」の坂本金八先生役でおなじみの俳優武田鉄矢(57)が9日、東京足立区内で12月13日発売のCD「桜中学音楽全集」の特典DVD「暮れなずむ街 ロケ地ウォーク」の撮影を行い、最近世間を騒がせている中学生いじめについて語った。

 27年間にわたって金八先生役を務めた武田は、「27年で一番変わったのは日本中学生」と指摘し、「中学生のみなさん、死んじゃダメ!」とメッセージ。深刻ないじめ問題について、「いじめる奴を説教しても変わらない。問題はいじめられる奴で、大事なのはいじめられる奴を鍛えること」と金八流の考えを示した。また、「教育に関する解決法は討論で生まれるものではない。現場の教師たちからいいアイデアが出てくると思うので、もう少し冷静に見守りましょう」と呼びかけた。

 この日のロケには、大森巡査役の鈴木正幸(60)と道政明子役の大川明子(42)も参加した。

http://www.sanspo.com/geino/top/gt200611/gt2006111012.html

金八」の時代的役割はとうの昔に終わっているので、さっさと放送終了したほうが世のため人のためだと思う。

2006-11-07 運動音痴に呆れる日々。

おのれの運痴ぶりにほとほと愛想が尽きたので、少し更新

消印は「豊島」の可能性 いじめ自殺予告で文科相

 いじめ自殺予告文が文部科学省に届いた問題で、伊吹文科相は7日の閣議後会見で、この手紙を扱った郵便局について「『豊島』の可能性が高い」と述べた。該当する郵便局には東京都豊島区の豊島郵便局があり、都教委に対して調査に念を押すよう指示したという。

(中略)

 差出人に対して、伊吹氏は「命は一つしかない。君が生まれた時、お父さん、お母さんが君の命を抱き取ってくれた。だれかに君の気持ちを正確に伝えてください。世の中が君のことを放っておくわけではないことを、理解してほしい」と述べた。

 この問題について、安倍首相には「いろいろな可能性があるので、文科省で事務的に責任を持って処理する」と話し、首相からは「どうぞよろしくお願いします」と言われたという。

 一方、塩崎官房長官記者会見でこの手紙について、「写しを拝見したが、命にかかわることなので文科省で速やかに対応すると聞いている。親やご先祖様からいただいた命なので、大事にしてもらいたい」と述べた。

http://www.asahi.com/national/update/1107/TKY200611070184.html

まず伊吹氏の発言。

「君が生まれた時、お父さん、お母さんが君の命を抱き取ってくれた」。

生まれたときに抱き取るのは医者助産師なんじゃないの?という疑問はさておき、お父さんお母さんが自分の命を抱き取ってくれたからこそ、その「抱き取って」くれたという重すぎる「借り」や「枷」を思い量って自殺するのを止めよ、と言いたいらしい。人は生まれた当時の両親の「恩」を、成長してからもいつまでも無条件に背負って生きていかなければならないという、まこと儒教的な発想に基づいた発言だ。

つぎに塩崎氏の発言。

「親やご先祖様からいただいた命なので、大事にしてもらいたい」

これも同様で、「命を大事にせよ」という命題に対して、「親やご先祖さまからいただいた命なので」という条件が付く。あくまで独我論的な立場に立つのならば、親やご先祖がいたからこそ「私」が存在するのだ、という言い草は成り立たないわけだし、ここでも死を選ばざるを得ないような状況に置かれている人間に対して、それでもなお両親やご先祖の「恩」や立場を考えよ、という道徳的な命令が発せられている。

文科省手紙を送りつけた少年(?)の行動は正しい。両親や学校の教師や地域社会は自身に降り注ぐ「いじめ」の解決に対してまったく役に立つことがなく、逆に彼を死に追いやるような存在にすぎないのだから、最後の手段は国家権力へと直訴するくらいのことしかないわけだ。そんな境遇に置かれた子どもに対して国家権力が投げかけてやるべき言葉は、伊吹氏や塩崎氏のような封建的道徳説教のごときものではなく、なにはともあれ少年(や、彼同様の境遇に置かれた子ども)を取り巻く境遇を改善するのだという言葉なのではないか。当の子ども国家権力に対して庇護者であることを求めているのだから、国家子どもの庇護者として振る舞うべきであり、父母の恩を説いてる暇はないはずだ。

もっとも狂言愉快犯である可能性も否定できはしないけれども。

未履修問題

かすむ高校教育目的…「月刊高校教育編集長 花岡萬之さん53

 全国すべての高校の約1割もの学校で「必修逃れ」をしていたことが、明らかになった。虚偽報告、調査書のねつ造などが、公教育の場で行われていた。なぜなのか、どうすればよいのか、問題の本質は何か。3人の識者に聞いた。

(中略)

 ――高校教育は何のためか、という疑問が出ている。

 高校教育には、大学準備教育だけでなく、大人になる前の人間としての完成教育という側面もある。それが、受験中心になってしまっている。世界史未履修問題は、その現状の表れに過ぎないとも考えられる。

 高校とは何かという社会的な合意が出来ていれば、学校が一気に流されることはなかった。

 現在の単一の指導要領が、高校の実態に合っているのかという疑問もある。

 高校教育の難しさは、小中に比べ、生徒に学力の幅が大きいことにある。難関大学に多数合格する学校がある一方、アルファベットも書けない、分数の計算も出来ない子がいる学校もある。指導要領のいう「最低基準」すら達成できないところも出てきている。

 ――どうすればいいのか。

 まず大学入試を変えることだ。指導要領に合わせた入試にするべきだ。大学側が高校の指導要領を尊重していないことに、高校先生たちの不満は強い。

 ただ、指導要領や大学入試科目だけをいじっても、本質的な解決にはならない。高校ではどういう教育を目指し、どういう人間を育てるかという教育理念を打ち立てなくてはならない。

 その意味では、教育再生会議に期待したい。今回のような対症療法ではなく、教育はどうあるべきかという根本的な議論をし、これからの教育グランドデザインを描いてほしい。(聞き手・松本美奈

高校のころの授業というものを振り返ると、世界史ほどつまらない授業はなかったなぁ、と思う。

僕が通っていた高校では、基本的に学年のはじめに「世界史レジュメ」と題した、その高校独自の穴埋め式のぶ厚い学習ノートを手渡されることになる。そして、授業ではそのレジュメを開いて、ひたすら穴埋めを行い、つまらない解説を聞かされる、ということのくり返しだった。そんなわけで世界史の授業は退屈だったとはいえ、それでも世界史という教科そのものは楽しっく、面白かった。

日本史に関しては、小学校のころからある程度は学習するわけで、大ざっぱな知識とはいえ、義務教育の中で学ぶ機会が設けられている以上、人生の中で日本の歴史に触れないということはない。けれども、世界史なんてものは高校学習しなかったら、大学で史学を含む社会科学を専攻しないかぎりは、その後ほとんど触れる機会がないんじゃないだろうか。まだパンキョーが生き残っていた時代にはそうでもなかったのかもしれないけれど、今回のような未履修問題が生じた場合、未履修の生徒は今後の人生において世界史というものを学ぶ機会を大幅に損失することになる。そして、問題が発覚する以前の数年間に卒業した生徒たちは、今後の人生において世界史の知識を欠落させて生きることになる。実際問題、これは実にマズいことではなかろうか。

べつに世界史の知識が必要でない場面は山のようにあるし、そんな知識がなくても生きていけると言えばそうなのだが、こうした学生入試の結果受け入れることになる大学の問題は深刻だろう。要するに、世界史の基礎を欠いたまま入学してきた学生が、ヨーロッパを中心として発達してきた人文・社会科学についてくることができるのだろうか、という問題だ。べつに細部に渡る知識は持っていなくとも良いのかもしれないが、でも最低限の世界史の基礎を高校時に学んでおかないと、哲学史にせよキリスト教史にせよ、あるいは国際関係史にしても、理解することがとてつもなく困難になる。実際のところ、世界史未履修問題は、高校の問題である以上に大学の問題であると言ってもいいのかもしれない。

今回の問題は高校における受験重視の問題でもあるとも言われているけど(リンク先参照)、大学大学就職重視という問題を抱えており、就職率を重視する結果、肝心の学問そのものが空洞化するのではないか、という危機感に常に付きまとわれている。効率性の観点から高校世界史を履修しないのだとしたら、大学においても効率性の観点からマジメに講義なんかに付き合うわけがないわけで、なんだか高校で生じた問題のっほとんどは、大学に対して跳ね返ってくるのではないか、と思う。したがって、大学は自らの学問の府としての地位を保つためにも、入試制度を見直すなどして操作的に高校教育に介入していかなくてはいけないんじゃないだろうか。

> その意味では、教育再生会議に期待したい。

とはいえ、教育再生懐疑に期待できるものなんてないのだけれど。