記識の外 このページをアンテナに追加 RSSフィード

記識(きし)…… 書きつける。記しておく。

外(そと)…… 表に現れた部分。表面。外面。

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2004-09-01

[]かなヒエログリフ変換。

かなヒエログリフ変換
http://satosi.net/~moji/php/kana_hrg.php

これを使って本名を変換してみたところ、次のようなヒエログリフになりました。

読めました?

[]オレゴンの渦(Oregon vortex)関連リンク

オレゴン州にあるミステリースポット。何が原因なのか分からないが、この場所へ行くとホウキが自立し背の高さが変化する(らしい)。コズミックホラーには、こういった自然現象も影響を与えているのかもしれない。

[][][]博多祇園山笠、続々。

今回のid:celestialさんのエントリ(id:celestial:20040831#p1)を読んで、この間のチャーリー氏*1のエントリをふと思い出した。

こうした問題の構造を認識することなく、普遍妥当性要求の側から個別性を批判することの正当性を疑わないこと、それ自体の暴力性に無自覚な一部のフェミニズム的言説は――あまりの頭の悪さにいちいち相手をする気も萎えるという話は置いておいても*1――単に迷惑なので退場願いたいと思うのだけど、では、伝統の側には普遍妥当性要求を退けるだけの個別の根拠というものがあるだろうか?「伝統」は参加者がそこに同意する限りにおいて、その個別性を維持するべき――「よそがどういう風になっていようと(普遍性)、ウチの祭りはこういう風にやるのだ(個別性)!」――だといえるだろうか。

山笠問題に博多っ子らしく噴き上がるよ - SOUL for SALE

ここで、チャーリー氏はフェミニズム的言説側を「普遍妥当性要求」を掲げていると見なし、あくまで「伝統*2」に基づいての地域の祭りの開催を望む「ジモティ」側を「個別性」「個別的」である、と見なしている。そして、その「個別性の主張の正統性」をいかに確保できるのかが問題なのだ、と。

しかし、このようなカテゴライズは果たして正当だろうか?

ここでまずフェミニズムの主張を検討してみれば、たとえばid:celestialさんのような主張は、べつに「普遍妥当的」な要求ではないと言うことができるだろう。フェミニズムの第一義的主張とは、何よりもジェンダーイコーリティの達成、言い換えれば女性の不平等の解消なのであり、そこでフェミニズムが関心を寄せるのは女性「一般」にとっての不平等の問題であって、万人にとっての不平等の問題なのではない。そして、それは普遍性を要求しているのではなく、一般性を要求しているのだと言える*3。したがって、ここで言うフェミニズムの主張は、普遍妥当的な主張というよりも、一般的な主張というほうが適切だ。そして、このフェミニズムの主張が一般的主張であるとするのなら、「個別性」を主張する側も十分に一般的主張を行なっていることになろう。

というのも、「伝統」や「個別性」「ローカリティ」についての「一般性」を掲げる「伝統主義者」なんてものはいくらでも想定されうるからだ。「一般的要求を掲げる運動は個別的な『祭り』に口を出すべきではない」とする規範的命題を掲げるにしても、この規範的命題はきわめて一般的な性質を持つものだ。これは一般性を要求する要求行動すべてについて「個別的」だと類別されるローカリティへの口出しやクレームを禁じる一般的な要求なのであって、「その主張の正当性を疑わないことの暴力性」はこのような要求においても垣間見ることができる。このとき、フェミニズム的要求を退けようとしてローカリティを持ち出し、地域の個別性を謳い上げる「伝統主義者」たちも、また同時にフェミニストと同等の暴力性でもって主張を展開しているのである。

このような「伝統主義者」の主張がなされるとき、そもそも博多祇園山笠が持っていたはずの個別性は、「個別性」という「一般的」カテゴリーにおける多の中の一つへと転化されることになる。そして、このような「個別性」が主張されるということは、その時点でその祭りの支持者は「特殊的である」という意味での<個別性>を守るための主張をしている、というよりかは、「個別性は守られなければならない」という一般的命題を述べているにすぎない。個別性の要求は、こうして逆理を構成する*4

ということはつまり、山笠問題における問題構成は、女性カテゴリーに基づいて為される一般的要求と「個別性」カテゴリーに基づいて為される一般的要求の対立、という形になっているということだ。このような問題構成のもとでは、「個別性の正統性」なんてことは問題にもならない。なぜなら、そこで主張される「個別性の正統性」は「個別性」という一般的カテゴリーを使用するうちにおいて(おそらくは)担保されているのだから。あるいはその「個別性」は、「祭り」や「神事」「伝統」といったべつの一般的なものへと頼ることによってもその正統性を担保している。ここで見られるのは、「普遍−特殊(個別)」の利害対立ではなく、あくまで「一般−一般」の利害対立なのであった。

この利害対立を調停することはできるだろうか?ここではどちらもがともに一般的な類型を用いて主張を展開しているのであり、したがって問題はその一般的類型同士の関係、ということになるように思われる。これが「普遍−特殊(個別)」な利害対立であったのならはじめから勝負はついているため問題は生じないのだが、一般的類型同士の関係の場合、その包摂関係がまったく明らかでないがために、問題がこじれるように思われる。たとえば地域という一般的類型は、女性という一般的類型を包摂することができるし(「地域社会のなかの女性」とか)、その逆もありうる(「女性にとっての地域社会」)。

じゃあ、このうちどちらが「正しい」のか、と問われれば、その答えは存在しない、としか答えようがない。というのも、この両者の包摂関係は必然的なものなのではなく(偶然的なものであり)、かつ、そのほかの一般的類型ともいかようにも可能であるからだ。ということは、どちらかがどちらかを完全に包摂することが望ましい、などと考えるのはやめて、悪くいえばその場しのぎ的にやっていくしかない、ということになる。そして、問題がこじれるのは、この「一般−一般」の関係を取り違えるからではないだろうか。

実際は一般的要求しかしてないのに、それを普遍的要求だと思い込んだり、あるいは特殊個別的な要求だと思い込んだりするところに問題が生じているように思われる。この混同は、ラディカル派やコミュニタリアンの主張を一見正しく見せるが、やはりそれは錯視にすぎないのではないだろうか。

[][]コメントへの応答。

S 『代々木アレルギーって何ですか?代々木系って何ですか?
私は生まれも育ちも関西の山の中ですが何か?
そして大学も誰が聞いても関西大学と分かるような大学名ですが、何か?
言いたいことがあるならなぜMLに参加しながらも発言しないのですか?
貴方、卑怯者です。』 (2004/09/01 09:48)

http://d.hatena.ne.jp/using_pleasure/comment?date=20040827#c

代々木系〜」という点については、ML全体の雰囲気等を指しての言葉、および、転載した投稿文に載っていた文*5を読んで僕が受け取った印象について述べたことであり、Sさんの人格とはまったく関わりがありません。それはSさんの問題ではなく、「代々木アレルギー」という言葉で示されるように僕の問題です。が、もし「代々木系〜」という僕の発言によってSさんが気分を害したのでしたら、それは申し訳なく思います。すんませんでした。

それでまたもや卑怯者認定されてしまったわけだが、なんでMLで議論をしないかというと、MLじゃあid:darts:20040828さんやid:rnaさん、あるいはid:kogarasumaru:20040826さん、id:takeuchiii:20040826さんのような人たちの意見を聞くことはできないじゃないですか。

id:hidex7777氏も言っているように、クローズドであることが前提とされているMLよりも、こうしたblogのような開かれた場所で議論を行なったほうが、多様な意見や見解が出てきて勉強になるし面白いし楽しいですよ。多くのMLの場合、「MLの趣旨」に背いたり反したりする議論はそもそも行なうことができませんが、ここではそんなことを気にする必要もないし。*6

ML情報収集の場、blogは意見表明の場、というように割り切ることになんの問題も感じません。意見表面の手段は個人によって多様であってよいと思いますし、そもそもこうしてblogで取り上げられ意見が蓄積されることが、「運動」にとっても重要である、と思います。どちらがより広範囲に問題を伝播できるか、という視点から考えたら、blogでこの山笠問題を取り上げるのはごく自然なことだとも思います。

というわけで、「卑怯者」などというあまり綺麗ではない言葉で人を断罪する前に、blog山笠問題を取り上げることのメリットというものをご勘案していただければ、と思います。

[]出版前の本にケチをつけるスレ

http://www.chikumashobo.co.jp/shinkan.html

  • 『正しい大人化計画 ―若者が「難民」化する時代に』 小浜逸郎 新書
    • そうか「難民」化してたのか。動物化したり難民化したりして大変だな、若者は(人ごと)。で、「正しい大人」って誰のことを言ってるんだ?

*1:やっぱりこれはなんかぎこちない呼び方に見えるなー

*2:これ自体が一度de-embededされ、その後re-embededされた伝統、言い換えるならば「反省された伝統主義」であることは言うまでもないことだ。

*3:そして、このフェミニズムにおける一般的主張においても、ちょうどid:hidex7777さんがid:hidex7777:20040828#p3で定式化しているように(あるいは江原由美子が示したように)、「フェミニズムは、女性として主体化する「権力」へのクレーム申し立てを、女性として行なうというパラドキシカルな性質を持」っている。

*4:ぱらどくす化キタ━━━━(゜∀゜)━━━━!!!!!

*5:「こんなことがゆるされていいのでしょうか?!」

*6:性的自己決定権みたいな言葉すら安易に使えないような状況は窮屈だし

chidarinnchidarinn 2004/09/01 22:44 はじめまして。千田と申します。博多祇園山笠関連の話題、面白く読ませていただきました(某フェミニズム系MLに登録していないので)。BLOG上で議論することについてですが、私もML内で悶々としながら混線した話をするより、各々が各々の視点を開示し・さらなる追加修正ができるBLOGという場所に価値を見出します。ここで明快な話をしたほうが、「卑怯」というより、むしろ誠実ですよね。そして、何より、知識をシェアできるということが何よりありがたいであります。これからも楽しみにしています。

using_pleasureusing_pleasure 2004/09/02 06:41 どうもはじめまして。拙文を読んでいただいて、おまけにコメントまでいただけることを感謝しています。山笠問題にかんしては、これからも随時言及していきたいと思いますので、今後ともよろしくお願いします。なにかご意見・ご感想等ありましたら、またコメント等お寄せください。どうもありがとうございました。