記識(きし)…… 書きつける。記しておく。
外(そと)…… 表に現れた部分。表面。外面。
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2005-02-15
■[sexuality][daisensei]「セクシュアリティのパーソナリティ化」。
今回はわりとあっさり。(前回はコチラ⇒id:using_pleasure:20050114#1105645888
私は性的言説のこの異常な増殖とセクシュアリティの無限の細分化を「セクシュアリティのパーソナリティ化」の趨勢ととらえている。
ひとりにひとつのセクシュアリティ」あるいは「名刺代わりのセクシュアリティ」である。
は争って「オレにもオレ専用の名刺作ってくれよ」と口を尖らせている。
オッケーだけれど、62億の人間が62億のそれぞれ差異化されたセクシュアリティを有することになると、そのときセクシュアリティは識別指標としては何の役にも立たなくなる。
Dか納税者番号で識別には用が足りるからだ。
があるときには「名刺代わり」のものは要らない。
時代は、セクシュアリティが「個人の識別指標」として限りなく「パーソナライズ」されてゆくプロセスをたどっている。
セクシュアリティやジェンダー・アイデンティティが社会的記号としてどんどん「無用化する」プロセスである。
内田センセのこのような観測はちょっと飛躍しすぎている、というかなんというか。
セクシュアリティが個人化(内田センセの用語を用いれば「パーソナリティ化」か?)している、という点については僕も同意するところであり、それによって個別のセクシュアル・カテゴリーを比較的長期的に安定しているカテゴリーであると見なすことは難しくなってきている。たとえばそれは「ゲイ」というカテゴリーについてもそうだ。しかし、だからといってセクシュアル・カテゴリーがまったく個別化して分散し、その結果「無用」なものとなってしまうわけではないうだろう。セクシュアリティの個人化とは、決して「個別の人間が個別のセクシュアリティを独自に主張する」というようなことを主張しているわけではない。
ではそれが何か、と言えば、単純に言えばセクシュアリティに関わる社会的カテゴリーという社会的資源を、個人が社会的再帰性のプロセスの中で各々が独自に解釈しなおしていき、その社会的資源をもとに自己を構築していく、という、そのようなことに他ならない。そして、そのプロセスの中でセクシュアリティのカテゴリーもまた一義的な内容のみを含むのではなく、多義的で様々な内容を獲得することになり、そのカテゴリー内部での複雑性の増大が、新たなカテゴリーを生み出すための契機を生み出す。
個別の人間が自分のセクシュアリティを規定するための言葉を獲得するためには、何らかの参照先が想定されなければならない。人が何らかのセクシュアル・アイデンティティを獲得するためには、そうした参照先が不可欠なのであり、そのような「参照」から免れてセクシュアリティを独自に規定することは基本的に出来ない。そのようなわけで、セクシュアリティに関わる社会的カテゴリーとは、個人のセクシュアリティを生み出すための産出装置であるわけで、そのようなものとしてセクシュアリティをめぐる社会的カテゴリーは個人がどれほど好き勝手に自己のアイデンティティを規定しようが、社会的に有用なものとして引き続き今後も残っていくだろう、ということが予測される。したがって、セクシュアリティの社会的カテゴリーは全然「無用化」してはいないし、むしろ現在においてはますますその潜在的な機能を強めているのではないか。
こうした論述(エッセイ?)を読むにつれ思うのは、内田センセに決定的に欠けているのはセクシュアリティを社会的次元において捉える視点にほかならない、ということだ。それをまったく「個人の欲望」の問題へと回収してしまうだけで、フーコーがそもそも問題としていたような言説におけるセクシュアリティの社会的配置をめぐる問題はまるで扱われることがない。と、田中美津に倣った指摘をしておくとしよう。
後半部分の資本主義に関わる部分については記述が少なすぎるので省略。
■[memo]感銘。
きしさんの文章に感銘を受ける。
フリーターが悲惨な生活してるとして、じゃあどうする?賃金あげたら競争に生き残れないぞ!……そんなことはどうでもいい、どっかの偉いヒトが考えたらいい(そのための地位と給料だろ)。俺が興味があるのは、あの若い夫婦はいま何してるんだろう、ということだ。そして、このままみんなフリーターになったら、世の中どうなるんだろう、ということだ。世の中どうすべきか、じゃない。
「会話」の外に出たいと思う。そして物語をもっと自由に書いたり読んだりしたい。そのためにはマクロな統計データも使おう。生活史を自由に解釈しよう。責任感ばかり先走った偏狭な政策提言でもなく、物語を言語使用にまで縮減するような「強い」構築主義でもなく、その中間(あるいは「中範囲」?)で、「資格のないものは黙ってろ」式の抑圧的で強迫的な世論誘導ゲームでもなく、語りとは発話にすぎないという冷笑的な「過剰な反省性」でもなく、それを読み終わった後で今度は自分が語りたくなるような、そういう物語を書きたいと思って頑張ってるんだけどなかなかスラスラとは書けまへんなあ。あれれ、書いてるうちに愚痴になってしもた。
僕もそういう*1社会学をやりたいです。というか、目指したいです。
指導教官には「それが何の役に立つんだよ」とか言われそうですが。
*1:どういう?

