言葉とイメージ

帰国子女の宿命というべきか、会社で上司や同僚と話していると決って聞かれるのが「英語で考えるの?それとも日本語で考えるの?」という質問である。これは、中学校ぐらいの時も聞かれていて、まぁ、その時は「分からない」と答えていたんだが最近は英語でしゃべるときは英語で日本語でしゃべるときは日本語で考えると言っていた。


しかし、そもそも俺達は「言葉」で考えているのだろうか?前に一度書いたとおり俺は言語のネイティブレベルとはイメージや概念を「他の言語」を通さずに直接「その言語」にする能力を有するレベルだと思っている。ということは…そもそも人間の思考というのは言葉ありきではないはずだ。赤ちゃんはオッパイ欲しいって考えるけど、その時、頭で「オッパイ欲しい」と言葉で考えていない。言葉をしらないのだからあたりまえである。言葉は実際のものやイメージと結びつかないとただの音である。パパという音が自分の父親に結びついて始めてパパと言った時にお父さんという意味になるのであって、赤ちゃんにとってはじめ、「パパ」はただの音なのだ…


ってここまで考えて俺の思考回路はケンサンの日記に大分影響されてるなと思いつつもっと考えてみる。


んじゃあ、文字はどうなんだろうか?ひらがな、カタカナまでは、文字という形は音にしか結びついていない。文字を読むときはまず音が思い浮かび、その後にその音の羅列に関連するイメージが思い浮かぶはずである。アルファベットも同様だが、ひらがな、カタカナよりは一文字につき連想される音の種類が多い。面白いのは漢字だ。漢字には音以外にも意味が結びついている。こういう風に考えれば、これは文字としてかなり特殊なんではないかと思う。英語で読む場合、スペリングで読み方が分からない場合、大抵意味もわからない。しかし、漢字の場合は読み方が分からなくても意味は分かる。まぁ、こんなことを意識したのは会社のビジネス文書の研修かなんかで人前で文を読まなければならないとき、漢字は読めないが意味が分かり、文章全体のイメージはつかんでたことが多かったからである。俺って知らない間に漢字の形から直接意味をイメージしていたんだな〜と思った。


まぁ、考えてたこともっとあるけど、まとまらないし、仕事で疲れたし、とりあえず今日はこれで寝る。