いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

【書評】日本文化の論点/宇野常寛 ★★★☆☆

ゼロ年代の想像力』や『リトル・ピープルの時代』で知られる批評誌PLANETS主催の批評家・宇野常寛の新著。

日本文化の論点 (ちくま新書)

日本文化の論点 (ちくま新書)

【目次】
序章 〈夜の世界〉から〈昼の世界〉へ
論点1 クール・ジャパノロジーの二段階論――集合知と日本的想像力
論点2 地理と文化のあたらしい関係――東京とインターネット
論点3 音楽消費とコンテンツの「価値」
論点4 情報化とテキスト・コミュニケーションのゆくえ
論点5 ファンタジーの作用する場所
論点6 日本文化最大の論点
終章 〈夜の世界〉から〈昼の世界〉を変えていくために
あとがき
付録 『日本文化の論点』を読むキーワード

内容(「BOOK」データベースより)
情報化の進行は、二〇世紀的な旧来の文化論を過去のものにした―。本書は情報化と日本的想像力の生む「新たな人間像」を紐解きながら、日本の今とこれからを描きだす。私たちは今、何を欲望し、何に魅せられ、何を想像/創造しているのか。私たちの文化と社会はこれからどこへ向かうのか。ポップカルチャーの分析から、人間と情報、人間と記号、そして人間と社会との新しい関係を説く、渾身の現代文化論。

宇野さんって、けっこう読者を選ぶ人だと思うんですよ。もし、彼を知らない人にどんなの文章を書く人? ときかれたら、ぼくは真っ先に朝井リョウ『何者』に出てきた宮本隆良を思い浮かべます。隆良の完全態、「全てを手に入れてしまった隆良」みたいな感じなんですよ(もしかしたら、朝井さんは宇野さんをモデルに隆良を書かれているのかも?)。とりあえず、読んでいるこちらがクラックラするくらい、文章からほとばしる全能感が凄まじい。かなり自尊心の高い方なんだとお見受けします。

もう一つ文章の特徴を上げると、一刻も早く古いモノを変えて新しいモノにしなければならないという切迫感や使命感があって、とにかく読者をアジるんです。「これこれはこうなっている」といった状況論に終始する同世代のサブカル論者の中で、そういった「べき」論を語れるところをぼくは評価しています。
ただその一方で、副作用もある。ぼくが読んだのは『ゼロ年代の想像力』と『批評のジェノサイズ』だけなので、それだけで判断するのはアレですが、おそらく戦略的に、露骨なまでに敵と味方の二元論に落とし込むんです。その手法は、熱狂的支持者を生みやすいでしょうが、その一方で苦手な人は本当に苦手なんじゃないかと思います。

そして本書でも二元論、社会学者の濱野智史さんが作った<昼の世界>/<夜の世界>という対の概念を援用します。

 単純に考えて、この国の古い<昼の世界>とあたらしい<夜の世界>のパワーバランスは圧倒的に前者に偏っています。数の力も、資金力も、権力もすべてにおいて<昼の世界>に<夜の世界>は劣っています。両者が正面からぶつかって、勝てる見込みはまずありません。だから僕は、こう考えます。僕たち<夜の世界>の住人たちが、<昼の世界>に勝っているものは目に見えない力、つまり「想像力」しかありません。<昼の世界>の人たちが思いつかないようなアイデアやビジョンを見せることで、彼らを魅惑して、ワクワクさせて、僕たちの味方になってもらう、僕らを「推して」もらうしかない――僕はそう考えています。

p.170

それどこの電撃文庫ですかという、深夜2時にでも書いたような独特のテンションの文章ですが、このように宇野さんは<昼の世界>を敵に設定し、<夜の世界>というものの側に立っています。
では、この<昼の世界>と<夜の世界>とはいったいなんなのか。これについては、本書よりもこちらの文章の方が短くコンパクトにまとまっています。

「昼の世界」とは、要は戦後社会のことですね。冷戦下、55年体制下の「市民社会」と、ものづくりと日本的経営に支えられた「企業社会」を中心にした世界のことです。対して「夜の世界」というのは、ポスト戦後的な社会です。ここでは“失われた20年”に逆に伸びていったインターネットやエンターテインメントの世界に才能が集まっている。「昼の世界」は団塊世代を中心とした旧い戦後的な価値観が相対的に強く、「夜の世界」は団塊ジュニア以下を中心とした新しいポスト戦後的な社会の価値観の基礎をつくり上げている。

〈昼の世界〉と〈夜の世界〉の断絶を超えて ――「PLANETS vol.8」編者、宇野常寛氏インタビュー

のっけからいちゃもんつけて申し訳ないんですが、この<昼の世界>と<夜の世界>の定義がよくわからないんです。引用した部分から推測すると、この対概念って単なる世代論ですよね。
けれど、読み進めていくとそういうわけでもない。
宇野さんは「<夜の世界>の文化であるアニメやゲーム、アイドルといったサブカルチャー」といいますが、アニメもゲームもアイドルも、もっといえばサブカルチャー全体は、この本の定義でいう<昼の世界>を指す戦後高度経済成長期にその萌芽はあったはずじゃないですか。それにインターネット、ソーシャルメディアにしたって、日本の首相である安部さんが、Facebookを駆使して幅広い支持を集めています。インターネットももはや<昼の世界>で立派に認知されている向きがある。
マスメディア/ソーシャルメディアという対立軸でなら、本書の言わんとしていることもまだ納得できそうなんです。でも、<昼の世界>/<夜の世界>という概念を新たに作る必要はどこにもないように思える。


ただ、そうはいっても各論にはそれなりに説得力のある箇所もあるんです。
たとえば、論点1で論ぜられるいま国が音頭をとってやっているクールジャパンについて、宇野さんはコンテンツ(作品)そのものを輸出しようとするから上手くいかないんだと言います。

この種の議論が陥りがちな罠――それは国内のマンガやアニメやゲームというソフト「そのもの」を輸出してしまおうとするところにある、と。では何を輸出すればいいのか。それはソフトウェアではなくハードウェア――作品そのものではなく作品を楽しむ(消費)環境そのもの――マンガやアニメやゲームではなく、コミックマーケットコミケ)やニコニコ動画といったコミュニケーションのインフラそのものにの他ならないんだ、と。

p.31

なるほどたしかに、日本のコンテンツ単体を海外にぽんと輸出したって、むこうの人が日本国内で特殊な進化を遂げた「日本人の楽しみ方」をすぐに模倣できるわけないですよね。クールジャパンのキーポイントが、日本のコンテンツのよしあしではなく、むしろ日本人の楽しみ方なんだという議論は、説得力があるし膝を打つものがありました。
コンテンツではなく、その需要環境がキーだという議論は、そのあと音楽消費の話題にも引き継がれる。

現代の音楽市場は、アイドル、ヴィジュアル系V系)、アニメソング、ボーカロイドでおそらくはその五割以上が占められていると思われます。そして、これらの音楽は従来の音楽ジャーナリズムと音楽ファンから、音楽の付加価値(キャラクターの魅力)を与えてソフト販売を伸ばしている、と批判されることが多い。(中略)
 おそらく、アイドルやV系バンドの楽曲だけを単体で批評して、いい/悪いを論じることにほとんど意味はない。この種の楽曲はアイドルやバンドメンバーの(生む快楽の)キャラクターを消費する総合的な体験の一部でしかなく、だとすると楽曲がその体験の中でどう作用しているのかを論じるという視点がないと意味がないことになる。

pp.65-67

このソーシャルの時代に、音楽そのものをデキを批評しても意味がなく、重要なのは音楽が受容されそこから発生していくコミュニケーションなんだと、宇野さんは述べます。
コミュニケーションを目的とした消費というのは、社会学者の鈴木謙介氏が『わたしたち消費』のなかですでに指摘されていますが、それはともかく、この辺りの議論というのは、わりと説得的でなるほどと思わなくもないんですよ。

わたしたち消費―カーニヴァル化する社会の巨大ビジネス (幻冬舎新書)

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ただ、ここまでの各論は、それらを集約するという「現代日本文化最大の論点」の前座でしかなかったのです。

 本書でこれまで論じてきたあらゆる問題は、この現象に集約されているといっても過言ではありません。
 本章では本書のまとめとして、現代日本文化最大の論点――「AKB48」――について考えましょう。

p.113

ここでぼくはドテーってなったんですよ。結局あんたもそれかい、と。
本書カバーには同じちくま新書で少し前に物議をかもした濱野さんの『前田敦子はキリストを超えた』があったので、その時点で気づくべきでした。そう、本書も日本文化論にかこつけた「AKB本」なのです。

けれども、読まずに判断するのは良くないので、頑張って読み進めてみたんです。
すると、宇野さんがほんっっっっとうにAKBを愛して止まないことが、痛いほど伝わってきます。これだけAKBのマスメディア露出があるなかで、彼女らの存在を「マスメディア的なものとは徹底的に相反している」と評するのは贔屓目にみてもおかしいだろとは思いますが、それでも、AKBがソーシャルメディアにおけるファンとの交流で大きくなっていったプロセスはよくわかります。
また、先の峯岸みなみ丸刈り事件や、恋愛禁止令などについても、立場を明示して論じているところに好感を覚えます。本当にまじめな方なんでしょうね。

けれども、これは大変指摘しにくいことですが、宇野さんが大まじめに語れば語るほど、AKBファンの内と、それ以外との温度差がグロテスクなまでに広がっていくような気がする。

考えてみれば、僕らは前田敦子大島優子と何も関係がない人間です。しかし僕たちは彼女たちを応援したいと思う。これが「推す」ということです。そしてこの「推す」という感情が、社会をつくっている。AKB48はこの「推す」という感情を、資本主義のシステムの力を通して、極めて強く社会に作用させることに成功しているように思います。
p.129

どこまでがマジでどこからがネタなのかはわからないですが、宇野さんがAKB48について論じている中で「社会」や「資本主義」、あるいは「民主化闘争」といった言葉を使えば使うほど、非AKBオタクの読者であるぼくの目は死んでいくのです。
バカみたいな指摘ですが、AKB48という文化が理想的な環境を形成しているとすれば、それは彼女達が「女の子」だからですよね? 男性ファンが彼女達にお金を落とすことで成り立っているわけです。ソーシャルメディアやらコミュニケーションやら、そういった表層的な事柄を抜いていっても、最後に残るのはそうした厳然たるジェンダーの非対称性です。
ぼくはその構造が悪いというフェミニストではないです。ドルオタがアイドルを推すのは呼吸のようなものなので、それを否定するわけではない。
けれど、表層的に近似するからといって、それを民主主義だの社会だのに接合させようとしてしまう身振りは、どうしても滑稽なものにしか映らないわけです。
<夜の世界>の世界が素敵に見えるのは、学園祭前夜が楽しいのと同じ原理だと思います。学園祭の前夜、みんなで眠い目をこすりながら準備のがどうしたあれほどまでに楽しく思えるのかというと、それは「朝」が来てしまうからです。
もし白夜のように、一日中「夜」だったらどうなのか。夜型人間のぼくでさえ、鬱になってしまうかもしれません。それと同じように、<夜の世界>がすばらしく思えるのは、ありきたりで下らない、けれどちゃんと地に足の着いた<昼の世界>があるからなんじゃないでしょうか。


もっとも、本書はあくまでも概説ようなものなんだと思います。より具体的なことは、それこそ彼の"ホームグラウンド"といえるPLANETSに書かれているんでしょう。

また、終章によると宇野さんは「仲間たちと一緒に、具体的な運動、コミュニティの立ち上げを視野に入れたかたちで発表できるように準備を進めてい」るんだそうです。この文章から察すると、今後は評論だけでなく、アクティビストとしても何かをやらかしていってくれるということなんでしょうか。

政界進出とかしたらおもしろいですね。テレビで臆せずしゃべっているのを見ると、宇野さんは案外そういうのに向いているんじゃないかという気がします。とくに、次期参院選ではネット選挙が解禁されますから、ソーシャルの動員について詳しい宇野さんなんかが出たら盛り上がるとおもうなー。
党名は「新党 夜の世界」とか、「PLANE党」なんていうのはどうでしょうか?


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